う~ん、凄い。もちろん完全に実話ではないんだろうけど、何度読んでも凄い。
▼「通勤中に“奇跡の連携” 暴走トラック自車にぶつけ停止→運転手救出→心臓マッサージ 3人に感謝状」(千葉日報@Yahoo!ニュース)
暴走しているトラックを見ながら、「これぐらいのスピードなら止められる。自分の車は諦めよう」と即座に判断して自分の車をぶつけにいけるのが凄い。いくら知識があるにしても自分なら大型車にぶつけにいくのがまず怖いし、お金のこととか考えるといろいろためらう。この時点で運転手さんが生きているかどうかもわからなかったわけで、「起きるかどうかわからない交差点事故」のために、はたして躊躇なくつっこめるかどうか。
私も救命活動の講習受けたり、微妙な資格とったりしたんですけど、いざ目の前で人が倒れる現場に出くわすとなかなか身体が動かない。恥ずかしい話、2回くらい調子が悪そうにうずくまっている人や倒れた人に駆け寄ることもせず傍観していたことがあり、はじめて積極的な救助活動が出来たのは何度かそういう経験をした後、ラーメン屋で隣の兄さんがいきなりぶっ倒れたときでした。
心情的なことをもう少し言えば、人助けみたいなことをしようとするとき、相手にはいらないおせっかいじゃないかとか、自分みたいな素人が手を出したらかえって迷惑なんじゃないかとか、派手に活躍してみせて目立ちたい&感謝されたいだけで本当は不要な行動なんじゃないかとか、そうやって自分の行動がいわゆる「偽善」なんじゃないかと思って動けないこともありました。
たぶん分かりやすいのは電車やバスで席を譲るとかいうやつで、「ゆずらないやさしさ」なんてことを言う人もいます。席を譲るという行為が相手に失礼だったり、大きなお世話だったり、そういうことを考えると「席を譲った」という自己満足を得るための偽善ではないか、と。
まったく理がない話だとも思わないのですが、しかしこういう記事に触れるとやはり動いてみるのも大事なことだなと思います。「やらぬ善よりやる偽善」とはよく言ったもので、自己顕示欲からきた行為だろうが名誉欲からきた行為だろうが、誰かにとって実際にプラスになる部分があるのなら、それは机の上で定義されただけで形になっていない善(それがどれほど完全無欠な定義であっても)よりは価値があるのかもしれません。
もちろん、だからって開き直って何やってもいいってわけではないでしょうけど、考えすぎて動けないことより行動することが大事な局面って案外多いですよね。
▼「通勤中に“奇跡の連携” 暴走トラック自車にぶつけ停止→運転手救出→心臓マッサージ 3人に感謝状」(千葉日報@Yahoo!ニュース)
千葉県白井市の国道で先月、運転手が意識を失い暴走するトラックを自車にぶつけて止め、心臓マッサージを施すなど見事な“連携プレー”で運転手の一命を救い、二次災害も防いだ男女3人に、印西署(鎌田篤署長)が19日、署長感謝状を贈った。表彰されたのは、会社員、長原桂三さん(40)=市川市=と同僚の小畠聡さん(39)=松戸市=、看護師の伊東都さん(50)=柏市=の3人。同署などによると、5月23日午前7時50分ごろ、白井市大山口の国道464号で、乗用車で通勤途中の長原さんが、壁面にこすりながら白煙を上げ走行するトラック(2トン)を発見。追い抜きざまに運転席を見ると、ハンドルを離して助手席側に運転手とみられる男性がぐったりした様子で倒れていた。約500メートル先は十字路交差点だった。「蘇生しないと危ない」直感で危険を察知した。長原さんは印西市の自動車用機械の製造販売会社で安全運転管理者の資格を取得。交通事故の映像を何度も講習で見ていた。「これぐらいのスピードなら止められる。自分の車は諦めよう」とっさにトラックの前に入ってブレーキを踏んだ。停車後、トラックに駆け寄り男性に声を掛けるが反応がない。気が付くと後方から車が何台も来ていた。すぐにトラックの発煙筒を取り出し、後続車を誘導しながら119番通報した。車で通勤途中、トラックを追い抜いた後、異変を感じた「セコメディック病院」(船橋市)の看護師、伊東さんが駆け付けた。トラックから男性を救出しようとするが、大柄な男性は女性では運び出せない。そこに車で通り掛かった長原さんの職場の同僚、小畠さんが伊東さんと協力して男性を降ろした。伊東さんが確認すると男性には自発呼吸がなかった。「なんとか助けたい」。必死に男性に声を掛けながら心臓マッサージを20分間続けた。その間に通報を受けた救急車両が到着し、男性はドクターヘリで日医大千葉北総病院(印西市)へ搬送。男性は心筋梗塞で呼吸停止の危険な状態だったが、一命を取り止めて意識が戻り、現在会話もできる状態まで回復した。後に担当医師から「完璧な心臓マッサージ。今回のケースだと、良くても植物状態なのに奇跡だ」と驚かれたという。19日に同署で行われた感謝状贈呈式で鎌田署長は「放置していれば多重事故の二次災害も起きる状況だった。連携した行動によって尊い命が助かった」と3人の的確、迅速な行動を称賛した。長原さんは「何より男性には家族がいるので良かった。たまたま居合わせた3人、人生不思議なこともあるんだと思った」と感慨深げ。小畠さんは「後遺症がないのが一番。助かって良かった」とはにかんだ。伊東さんは「道路上だったので自分の技術しかなかった。3人だからこそ助けられたと思う」と奇跡の連携プレーを振り返った。
暴走しているトラックを見ながら、「これぐらいのスピードなら止められる。自分の車は諦めよう」と即座に判断して自分の車をぶつけにいけるのが凄い。いくら知識があるにしても自分なら大型車にぶつけにいくのがまず怖いし、お金のこととか考えるといろいろためらう。この時点で運転手さんが生きているかどうかもわからなかったわけで、「起きるかどうかわからない交差点事故」のために、はたして躊躇なくつっこめるかどうか。
私も救命活動の講習受けたり、微妙な資格とったりしたんですけど、いざ目の前で人が倒れる現場に出くわすとなかなか身体が動かない。恥ずかしい話、2回くらい調子が悪そうにうずくまっている人や倒れた人に駆け寄ることもせず傍観していたことがあり、はじめて積極的な救助活動が出来たのは何度かそういう経験をした後、ラーメン屋で隣の兄さんがいきなりぶっ倒れたときでした。
心情的なことをもう少し言えば、人助けみたいなことをしようとするとき、相手にはいらないおせっかいじゃないかとか、自分みたいな素人が手を出したらかえって迷惑なんじゃないかとか、派手に活躍してみせて目立ちたい&感謝されたいだけで本当は不要な行動なんじゃないかとか、そうやって自分の行動がいわゆる「偽善」なんじゃないかと思って動けないこともありました。
たぶん分かりやすいのは電車やバスで席を譲るとかいうやつで、「ゆずらないやさしさ」なんてことを言う人もいます。席を譲るという行為が相手に失礼だったり、大きなお世話だったり、そういうことを考えると「席を譲った」という自己満足を得るための偽善ではないか、と。
まったく理がない話だとも思わないのですが、しかしこういう記事に触れるとやはり動いてみるのも大事なことだなと思います。「やらぬ善よりやる偽善」とはよく言ったもので、自己顕示欲からきた行為だろうが名誉欲からきた行為だろうが、誰かにとって実際にプラスになる部分があるのなら、それは机の上で定義されただけで形になっていない善(それがどれほど完全無欠な定義であっても)よりは価値があるのかもしれません。
もちろん、だからって開き直って何やってもいいってわけではないでしょうけど、考えすぎて動けないことより行動することが大事な局面って案外多いですよね。