16年前の殺人事件で逮捕、というニュースが世間を騒がせています。
▼「従業員を殺害容疑 社長ら逮捕」(NHK NEWS WEB)
▼「16年前に男性を殺害した疑い 会社役員ら男3人逮捕」 (朝日新聞デジタル)
朝日とNHKでほとんど内容に違いがないので、現時点ではまだどこも独自の調査とかできてない段階なんでしょうね。
それにしても、16年越しの逮捕ですか。おそらく、今回の事件は上限が20年、行って無期かそこらだと思うので、時効制度の変更がなければ(つまりは1999年当時の制度のままなら)、逮捕できなかった案件かもしれません。
▼法務省だより 公訴時効の改正について
ニュースをそのままに信じるならば、「昨年11月、事件に関する情報が田川署に寄せられ」た、しかもそれが「川崎町の池に神浦さんの遺体がある」という具体的な内容であったということは、おそらくは関係者からの、自首に近いかたちでの情報提供だったのではないかと思います。
実際のところはわからないので今後の報道待ちということになりますが、もし自首だったとしたら、なぜ今になって? という疑問が出てくるかもしれません。もちろん犯人の内面を推し量ることはできないのですけれど、もし自分が犯人だったとしたら、時効を前にしたとき、名乗りでる気持ちが分からないではないとも思います。
私が中学生のとき、どうしてもほしい本があり、しかしお金がなかったため、親の財布からこっそり1000円を抜き取って買う、ということをしたことがあります。私のその「罪」は、とうとう両親に言わずじまいでおそらくこれから先も言うことはない気がしますが、ずっと長い間、微妙な影を心に落とし続けていました。1000円だから気づいていないのかなとか、気づいてるけど私が言い出すのを待ってるのかなとか、そんな感じで周りの目が気になって、1年くらいとにかく気持ちが落ち着かなかった。
実際、このことを他人に言ったのは、ブログというかたちではありますがこれがはじめてかもしれません。話題にする機会がなかったというよりも、どこかで避けようとしていたんでしょう。
世の中には、自分が万引きをしたことを「武勇伝」として吹聴して回る剛毅な方もおられるので、私のこういう感覚が一般的なものだとは言いませんが、しかし罪を罪として考えていない場合はともかく、そう認識した人がその罪に対する適切な裁きを受けていない場合、どこかすっきりしない気持ちを抱く、ということはあり得るのではないかと思います。
『金田一少年の事件簿』の「悲恋湖殺人事件」という回で、沈みゆくボートから少女を突き飛ばすことで自分は助かった甲田医師が、その後のことを振り返ってこんなふうに言っています。
「私はあの時背負った十字架の重さから逃れようとして ずっとあがきつづけてきた。……(中略)……あの時の悪夢から逃れることはできなかったんだ」
彼は「緊急避難」の考えにもとづいて刑事罰はうけなかったし、またそのことが誰にも知られないよう情報を保護されていました。つまり、彼の犯した罪はいわば「なかったこと」になった。けれど、彼はそのことから逃れることはできなかった。
そうして、少女を殺した相手が誰かわからなかったことで、少女の兄は復讐心をこじらせて殺人鬼へと変貌することになります。
これは、「罪」と「罰」に関する重要な側面を切り取ったエピソードであると思います。つまり、罰というのは単なる処分や犯罪に対する抑止力だけではなく、罪を犯した人が社会的に許されたり、あるいは自分自身を赦すというプロセスを発動する機能を担っているのではないか、ということです。
意味のない仮定ですが、もし甲田医師が何らかの処分をうけていたら、彼は社会的に非難されたかもしれないけれど罪の意識にさいなまれることなく「再出発」ができたかもしれないし、少女の兄も殺人鬼になることはなかったかもしれません。
私はここで、緊急避難の考え方がよくないとか、犯罪者の名前はすべて晒せとかそういうことを言っているのではありません。罪を「清算」した人間がみんな真人間に戻るわけでもないですしね。むしろ再犯とかの可能性がありますし。
ただ、罪というのはどこかしらで赦されるべきであると私は思うし、その赦しのために罰があるのだとしたら、今回の件が「今更の」自首だったとしても不思議はないなぁと。
あと話がぶっ飛びますけど、ネットの「炎上」って罪と罰はあるけど赦しの落とし所が見えないのが怖いですよね。あれは罪人を赦して再び社会復帰させるためではなく、抹殺して供養するための儀式という感じがする。それも、手厚く葬ることはせず野ざらし放置で(笑)。
いやまあ、ネタとして消費し尽くして、飽きたら見向きもしなくなるというのは、考えてみると実はかたちをかえた「赦し」のプロセスなのかなぁ。ちょっとわかんなくなりました。おいおい考えてみようかなと思います。
最後に、私の1000円盗んだ話と、フィクションの犯罪と、今回発覚した実際の殺人とを安易に結びつけるべきではなかったかもしれませんが、そこはご寛恕ください。
▼「従業員を殺害容疑 社長ら逮捕」(NHK NEWS WEB)
16年前、田川市で建設作業員の当時20代の男性を川に突き落として殺害したとして、勤務先の建設会社の社長ら3人が殺人の疑いで警察に逮捕されました。
逮捕されたのは、▼嘉麻市の建設会社社長、井手口信次容疑者(52)と、従業員だった▼広島市の山元茂容疑者(42)と▼飯塚市の当時19歳の元少年です。
警察の調べによりますと、3人は、16年前、田川市で、建設作業員の神浦太志さんを川に突き落として溺れさせ殺害したとして、殺人の疑いがもたれています。
警察によりますと、去年11月、川からおよそ10キロ離れた川崎町の池に神浦さんの遺体があるという情報を得て警察が捜索していたところ、ことし4月中旬、池から白骨化した遺体が見つかり、DNA鑑定などの結果、神浦さんと確認されたということです。
警察は、3人が容疑を認めているかどうか明らかにしていません。
警察は、会社内で神浦さんが日常的に暴力を受けていた疑いがあるとみて、事件のいきさつなどを調べることにしています。
▼「16年前に男性を殺害した疑い 会社役員ら男3人逮捕」 (朝日新聞デジタル)
1999年に男性を川に突き落として殺したとして、福岡県警は10日、福岡県嘉麻市飯田、会社役員井手口信次容疑者(52)ら男3人を殺人の疑いで逮捕し、発表した。ほかに逮捕されたのは、会社員山元茂容疑者(42)=広島市佐伯区八幡東3丁目=と、当時19歳だった建設作業員の男(36)=福岡県飯塚市。捜査1課によると、3人は99年2~6月ごろ、同県川崎町川崎、建設作業員神浦太志(ひろし)さん(当時24~25)を同県田川市の彦山川に突き落とし、水死させた疑いがある。同課は3人の認否を明らかにしていない。捜査1課の説明では、神浦さんと山元容疑者、建設作業員の男は、いずれも井手口容疑者が当時営んでいた建築会社の従業員。神浦さんは95年ごろから勤務していたという。昨年11月、事件に関する情報が田川署に寄せられ、県警は今年4月、彦山川の現場から約10キロ離れた川崎町の池で神浦さんの白骨化した遺体を見つけた。県警は、3人が殺害後、車で池に運んだとみている。神浦さんの親族の女性によると、神浦さんは「『社長(井手口容疑者)に殴られた。怖い』と祖母に言っていた」という。県警は、井手口容疑者らが日常的に暴行を加えていた疑いもあるとみて、当時の状況を調べている。
朝日とNHKでほとんど内容に違いがないので、現時点ではまだどこも独自の調査とかできてない段階なんでしょうね。
それにしても、16年越しの逮捕ですか。おそらく、今回の事件は上限が20年、行って無期かそこらだと思うので、時効制度の変更がなければ(つまりは1999年当時の制度のままなら)、逮捕できなかった案件かもしれません。
▼法務省だより 公訴時効の改正について
ニュースをそのままに信じるならば、「昨年11月、事件に関する情報が田川署に寄せられ」た、しかもそれが「川崎町の池に神浦さんの遺体がある」という具体的な内容であったということは、おそらくは関係者からの、自首に近いかたちでの情報提供だったのではないかと思います。
実際のところはわからないので今後の報道待ちということになりますが、もし自首だったとしたら、なぜ今になって? という疑問が出てくるかもしれません。もちろん犯人の内面を推し量ることはできないのですけれど、もし自分が犯人だったとしたら、時効を前にしたとき、名乗りでる気持ちが分からないではないとも思います。
私が中学生のとき、どうしてもほしい本があり、しかしお金がなかったため、親の財布からこっそり1000円を抜き取って買う、ということをしたことがあります。私のその「罪」は、とうとう両親に言わずじまいでおそらくこれから先も言うことはない気がしますが、ずっと長い間、微妙な影を心に落とし続けていました。1000円だから気づいていないのかなとか、気づいてるけど私が言い出すのを待ってるのかなとか、そんな感じで周りの目が気になって、1年くらいとにかく気持ちが落ち着かなかった。
実際、このことを他人に言ったのは、ブログというかたちではありますがこれがはじめてかもしれません。話題にする機会がなかったというよりも、どこかで避けようとしていたんでしょう。
世の中には、自分が万引きをしたことを「武勇伝」として吹聴して回る剛毅な方もおられるので、私のこういう感覚が一般的なものだとは言いませんが、しかし罪を罪として考えていない場合はともかく、そう認識した人がその罪に対する適切な裁きを受けていない場合、どこかすっきりしない気持ちを抱く、ということはあり得るのではないかと思います。
『金田一少年の事件簿』の「悲恋湖殺人事件」という回で、沈みゆくボートから少女を突き飛ばすことで自分は助かった甲田医師が、その後のことを振り返ってこんなふうに言っています。
「私はあの時背負った十字架の重さから逃れようとして ずっとあがきつづけてきた。……(中略)……あの時の悪夢から逃れることはできなかったんだ」
彼は「緊急避難」の考えにもとづいて刑事罰はうけなかったし、またそのことが誰にも知られないよう情報を保護されていました。つまり、彼の犯した罪はいわば「なかったこと」になった。けれど、彼はそのことから逃れることはできなかった。
そうして、少女を殺した相手が誰かわからなかったことで、少女の兄は復讐心をこじらせて殺人鬼へと変貌することになります。
これは、「罪」と「罰」に関する重要な側面を切り取ったエピソードであると思います。つまり、罰というのは単なる処分や犯罪に対する抑止力だけではなく、罪を犯した人が社会的に許されたり、あるいは自分自身を赦すというプロセスを発動する機能を担っているのではないか、ということです。
意味のない仮定ですが、もし甲田医師が何らかの処分をうけていたら、彼は社会的に非難されたかもしれないけれど罪の意識にさいなまれることなく「再出発」ができたかもしれないし、少女の兄も殺人鬼になることはなかったかもしれません。
私はここで、緊急避難の考え方がよくないとか、犯罪者の名前はすべて晒せとかそういうことを言っているのではありません。罪を「清算」した人間がみんな真人間に戻るわけでもないですしね。むしろ再犯とかの可能性がありますし。
ただ、罪というのはどこかしらで赦されるべきであると私は思うし、その赦しのために罰があるのだとしたら、今回の件が「今更の」自首だったとしても不思議はないなぁと。
あと話がぶっ飛びますけど、ネットの「炎上」って罪と罰はあるけど赦しの落とし所が見えないのが怖いですよね。あれは罪人を赦して再び社会復帰させるためではなく、抹殺して供養するための儀式という感じがする。それも、手厚く葬ることはせず野ざらし放置で(笑)。
いやまあ、ネタとして消費し尽くして、飽きたら見向きもしなくなるというのは、考えてみると実はかたちをかえた「赦し」のプロセスなのかなぁ。ちょっとわかんなくなりました。おいおい考えてみようかなと思います。
最後に、私の1000円盗んだ話と、フィクションの犯罪と、今回発覚した実際の殺人とを安易に結びつけるべきではなかったかもしれませんが、そこはご寛恕ください。