よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2014年03月

正直者がバカを見る?

従兄弟の就職活動がうまくいかないようで、荒れまくっています。具体的には、私に(というか私の父に)相談が来るレベルで。で、父が説得というかなだめるのに失敗したので私にお鉢が回ってきました。週末の気が重たいです。

彼がふてくされている理由の1つに、「コネ入社」を使っている人が多いというのがあるそうで……。私はまともに就職活動をしていないし、関西圏の私大におけるコネの重要性というのがいまいち実感としてよくわかっていないのですが、「コネなんて卑怯だ」といったようなことを繰り返しているらしい彼に、同情しつつも、彼自身「コネ」が目の前にあったら飛びつくんじゃないかなぁ、少なくとも私なら利用しちゃいそうだけど……みたいなことをぼんやりと考えてしまい、既に対話は難しそうな予感がぷんぷん。

プラトンの『国家』に、「ギュゲスの指輪」という逸話があります。

ある時、「透明人間になれる」指輪を見つけた牧童ギュゲスが、リュディア国王カンダウレスの妃をこっそり寝とり、そのうえ王を殺害して自分も王位についた。彼自身や彼の子孫は罰を受けることもなく繁栄した、という、だいたいそんな感じ。

このエピソードは、「道徳的な悪をなすことは自己の利益に反する」というソクラテスの教えに対して、「いや、そんなことないんじゃね? 不道徳なことしても、自分は丸儲けすることってあるじゃないか」という反論として、プラトンの兄であるグラウコンが持ち出す話です。

プラトンというか、プラトンの語り伝えるところのソクラテスは、このグラウコンの意見に対して、「結局不道徳なことをすると、めぐりめぐってその人の損になるのだ」と返答する。いかにもプラトンらしい考え方だと思います。しかし、これで納得する人はどのくらいいるのでしょう? 少なくとも、私には難しい。

グラウコンの問いかけというのは、一般化すれば、「みんなのための道徳」と「私だけの利益」がバッティングしたときにはどうするの? という、本質的な問題を突いていると私は思います。 そして、悲しいかな、「正直者がバカをみる」という格言があるように、現実の社会では「みんなのため」を選んだところで必ずしも直接的な利益につながるとは限らないんですね。

こういうのって、いまの私たちにとっても大きな課題なんじゃないかなぁと思ったりします。すこし位相を変えてやると「カルネアデスの板」や「トロッコ問題」などもそうですが、「1人を殺せば100人が助かる」のだとして、その1人が自分だった場合、あなたは死を選べるのか。「みんな」の論理と「わたし」の論理は、どこかで折り合うものなのか、それとも永遠に交わらないものなのか。法律によってルールは作れるかもしれないけれど、それで「納得」はできるのか。あるいは、その法律が拠って立つところの原理原則は何によって保証されるのか。

公民の教科書とかに出てくるような話で言えば、道徳法則という「みんな」のための、つまりは人類に普遍的な法則に従うことこそ人間の「自由」だと考えるカントと、個人の利益を最大限に確保しようとする功利主義者との間に横たわる道徳観の違いというのは、ある意味こうした問題を巡って先鋭的にたちあらわれてくるのだと言えるし、ロールズの「正義」云々を始めとする現代の政治思想の大きなテーマの1つも、こうした全と個の折衝にあるのだと言えます。

偉大なる先人たちに知恵をお借りしたところで、熱くなっている彼に何らかのサジェスションができるかどうかは、はなはだ微妙です。というか、コネがどうのこうのという彼自身の主張は、おそらく彼の不満の全体を表しているわけではないので、まともに話をするなら政治哲学より心療内科の本でも読んで行ったほうが良いのかなと思ったりしているのですが、私の利益と全体の正義ということに対するスタンスは、自分自身、しっかりと考えて決めておかねばならないことだなと今さら反省したので、いろいろ勉強してみるつもりです。 

くにおくん新作!?

またまたご冗談を……とか思ってたらマジだった件。

 ▼「くにおくんが剣と魔法の世界で大活躍!? 『熱血魔法物語』がニンテンドー3DSで配信決定!」 (ファミ通.com)

クーニーヴァルフォードと、リッキーブレイグ。読みにくいわ! マーミ姫って包帯とか巻いてピラミッドの地下に出てきそうな名前なんですけど、大丈夫かこれ。

何というか、作風が一周回って新しい感じですね。もちろん、褒めてます。

これは3DS買わないといけなくなったか……。 

花粉の季節

昨日くらいから、目がゴロゴロするというか妙に痛くて、体がだるくて、のどがいがらっぽくて……。風邪ではなく、花粉症ですね、ハイ。今年は花粉量が少ないと聞いていたのに、そうとうキツいです。いろんなことのやる気とかが一気に落ちてしまいました。

ご存じの方も多いと思いますが、花粉というのは年中飛散しています。花粉症というのは花粉に対するアレルギー反応ですから、人によって「反応」する花粉の種類が違う場合があり、必然、花粉症になる時期も違う場合があります。いるのかどうか知りませんが、可能性としては、一年中花粉症ということもありえるわけですね。

私は例年ですともう少し早くから(1月頃から)症状が出始め、春先にピークを迎えるのですが、今年はあんまり冬場に大したことがなかったので油断しました。

 ▼花粉カレンダー/監修:日本医科大学大学院医学研究科 頭頸部感覚器科学分野 教授 大久保公

マスクでだいぶましになるとはいえ、この時期は仕事効率やらやる気やらがゴリゴリ下がってホントに辛いです。最近は、レーザーで鼻の粘膜を焼いたり(手術療法)、あるいは投薬で根治を目指すという路線(減感作療法)もあるようです。

 ▼花粉症対策、早めがポイント!
減感作療法
花粉症の原因となる抗原(花粉)を、少しずつ増やしながら注射し、アレルギー反応を弱めていく治療法です。
 アレルギーを治すことができる唯一の根治療法ですが、2~3年と長期間続ける必要があるうえ、必ず治るとは限りません。
 ごくまれに、ショックなどの副作用がみられることもあり、注意が必要です。

手術療法
鼻の粘膜の一部をレーザーで焼いて、花粉が付着してもアレルギー反応が起こらないようにする治療です。
 比較的安全に行うことが可能とされますが、粘膜は再生するので花粉症も再発するといわれます。

場合によってはこういうのも考えようかなぁと思ってしまうレベル。マスクはマジで手放せません。

室内でも調子が悪いという人は、これは私もやってみて非常に良かったのですが、加湿器がオススメです。そろそろ暖かくなってきて加湿とかいいかなーと思ってるかもしれませんが、湿度が高いと花粉が飛ばないので、吸い込む危険が格段に減るらしく、私も騙されたと思ってやってみたら物凄い効果で感動しました。

花粉症の同士にはつらいつらい時期ですが、お互い強く生きて行きましょう……。 



見えないものが見えるヤツ。

人間は、視覚や嗅覚・聴覚に頼って世界を認識していますが、だからといって人間の見えるもの・感じるものが世界の全て、というわけではありません。犬や猫は違う世界を見ているだろうし、昆虫だってそうです。

 ▼「ショウジョウバエは人間のガンを明確に感知できることが判明(ドイツ・イタリア共同研究)」 

 嗅覚が発達した身近な動物といえば犬だ。訓練された犬は、麻薬や人のニオイなどをかぎ分けることができると言われており、最近ではガン患者特有のにおいを嗅ぎ分けるガン探知犬などもいる。
 人間のガンを嗅ぎ分けるのは犬だけではないようだ。なんとショウジョウバエにも、人間のガンのニオイを感知することができるという。しかもその精度は高く、異なった5種の乳がん細胞を明確に識別することができたという。

「ニオイ」というとかえってイメージしづらい気がしますが、要するに、ガン細胞の周りに発生する特殊な揮発性分子を判別できる、ということのようです。そんなものがある、というだけでも驚きですが、それを見分けることのできる生物がいるとは……。

よもやハエをガン検査に使うことは無いでしょうが、ハエたちの認識のメカニズムを明らかにできれば、ガン検査や治療に役に立つのかもしれません。

それにしても、ありきたりな感想になってしまいますが、ハエにはどんな風に世界が見えているんでしょう。いや、目の前に居る人間の「誰か」でさえ、私と世界の見え方は違っているかもしれないわけで。そう考えると生物って不思議ですねぇ。

椅子という文化

昨日、海外から来たお客さんを仕事の都合で案内する機会があり(海外系の人の話を何度かしているのでお分かりだとは思いますが、もちろん相手は日本語ペラペラです。私の語学力ではそうでないと無理)、近場の喫茶店で一服しながら話をしていたら、「日本人は、アシカガ将軍でもタタミに座るのが不思議だね」みたいなことを言われました。

彼は日本の禅に興味があって勉強しているそうなのですが、偉い人が地べたに「座る」という文化が非常に不思議だと言うんですね。権力者は椅子に座るというのが、ヨーロッパ文化圏ではスタンダードである、と。

私は西欧文化に詳しくもなければ、社会学徒でもありませんから確かなことはわかりかねますが、なるほど、言われてみるとヨーロッパでは「椅子」というのはある種特別なもの、という側面があるかもしれない。「玉座」だとか「権力の椅子」などと言われる通り、中世画の王や諸侯が豪奢な椅子に腰掛けていることは少なくありませんし、鬼畜王のランスさんも、教皇のアーレスさんも、偉そうに立派な椅子にふんぞり返っていました。

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それを言い始めたらマントもそうじゃないかとか色々ツッコミどころはあるんですが、文化によっては歴史的に、「椅子」が権力の象徴として、重要な意味を持っていたというのは事実のようです。

たとえば、古代エジプト。カイロの美術館には、金ピカのツタンカーメン王の椅子が保存されています。「椅子三昧」さんの「第4話 椅子の歴史 古代 〜エジプト」という記事によれば、「椅子は、王侯貴族が使う家具で、背もたれの有無やその高さ、肘掛けの有無などによって身分の高さが区別されていました。その他大多数の庶民は、床に座る生活を営んでいました。このように椅子は、本来の機能とは別の目的で発展を始めました。すなわち、椅子の持つ機能は「権力の象徴」であり、決して快適な生活を送るための家具ではなかったのです。」とのこと。
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▲ツタンカーメン王の椅子(レプリカ)

別にヨーロッパじゃなくても、中国にも椅子ありますし、同じ東アジア圏、文化をモロパクリしてきた日本なのに、明治くらいになるまで椅子が普及しないっていうのは、言われてみると不思議な気がします。「椅子の文化史」とか、「座り方の思想」とか、研究してみると面白そう。既にあるんですかね。ちょっと本屋でも探して見ようかなと思っています。

ネット中毒

昨晩から今朝にかけて、急にネットが繋がらなくなりました。

原因はルータの故障で、いまは色々やって復旧したのですが、一日にも満たない時間、ネットが使えないことの不便さを痛感するハメに。

ブラウザの野郎が急に、「インターネットに接続していません」とかのたまい始め、ネットに繋がらなくなった後、しばらくすると手がぶるぶる震え、呼吸が荒くなり、気持ちがイライラして、しまいにはキーボードをデスクに叩きつけて繋がらないインターネットへの不満をぶつける……ということは別にありませんでしたが、まあ「日頃やっていることができない」のが不便でした。

まず、「どうしてネットに繋がらなくなったか」 がわからない。Google先生に、「ネット つながらない」とか訊ねてみても、「インターネットに問題が発生しています」というメッセージを壊れたラジオのように繰り返すだけです。ISPの問題なのか、PCの問題なのか、ルータの問題なのか、いったい何が原因でこうなったのかを「検索」できないというのは相当不便でした。

また、他のこと……たとえば簡単な仕事とか、趣味の文章とか、エロゲーの新作情報チェックとか、そういうのをやろうと思っても、大なり小なりをネットに頼っている。「こういう表現っていいのかな?」とか「3月のエロゲーって何が発売されるんだっけ」とか、そういうのをいちいち辞書引いたり、雑誌引っ張り出したりというのは相当手間。ネット不調の理由も、すぐにわからないものかと思ってモデムやらルータやらの説明書を久々に引っ張りだすことに。

ここまで読んで、「携帯(スマホ)使えよ」と思われた方もおられるかと存じますが、実は職場にスマホを忘れてきたんです。それがなければここまで苦労はしなかったのですが。PCもスマホも使えないで長時間家にいるというのは、本当に何年ぶりかというくらい久々。旅行とかですら、このところスマホとか持ち歩いてましたからね……。逆に言えば、月曜にとりにいけば(あるいは無理して今日の朝にとりにいくか、ネカフェにでもいけば)なんとかなるかなという感じではあったのでそこまで慌てていませんでしたが。

で、「あー。ネット無いと不便だな」とか、「ネットに頼ってたなぁ」とか色々思ったんですが、いざネットから離れていろんな作業をしてみると、これが存外楽しい。ネットだと、無駄なく一直線に調べて分かっていたことがなかなか判明しないという、非効率的なところはあるんですが、その代わりに全然気にしていなかった他のことが目に入ってきたりします。辞書ひいてたら、周囲の語が目に入ってくる、みたいな。

あるいは、情報ソースを普段使っているものと変えることで、「あ、そういえばこのことは気にしてなかったな」みたいな「発見」もありました。

ネットって凄く便利で効率的なんだけど、それゆえに余計なものが混ざりにくいのかもしれません。いや、ネットって実態としては「余計なもの」が大量に転がっているのに変な話ではあるんですが、あまりにも全体が大きすぎると、全てを渉猟することは不可能に近く、そうすると必然的に受け取るとき大胆に取捨選択をするわけで、その選択スタイルが固まってくると動かしにくいというか、相対化する視点を持ちづらいんでしょう。

「急がば回れ」とはちょっと違いますが、たまには「回り道」も楽しいなぁと思ったのでした。



とか言いながら、ネット復旧したら早速使いまくってますけど。 

小保方騒動と科学の信頼性

STAP細胞を巡る「疑惑」が大きな波紋を広げています。

 ▼「理研調査委、画像同一と認める 小保方氏、論文撤回の意向」 (47ニュース)

STAP細胞の論文に不適切な画像データなど数々の疑義が寄せられている問題で、理化学研究所の調査委員会は14日、論文の画像は小保方晴子研究ユニットリーダーの3年前の博士論文と同じと言わざるを得ないとする中間報告をまとめた。

 同日午後、野依良治理事長らが会見し公表。野依氏は「科学社会の信頼性を揺るがしかねない事態を引き起こし、おわびする」と謝罪し「論文作成過程で重大な過誤があったことははなはだ遺憾だ」と述べた。

 小保方氏と理研発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長ら共著者は、論文取り下げの意向と「心からおわびする」との謝罪を記した文書を発表。


私もSTAP細胞発見の報が流れた当初、この件をブログでとりあげて、これは画期的な発見だとか、小保方さんを珍獣扱いしているマスコミはどうなってんだみたいなことを書いたのですが、よもやこんなオチが待っていようとは……。

ただ、この件に関してはどうも情報が入り乱れているというか、博論の「コピペ」とSTAP細胞の研究はさしあたって別のこと(博論の写真が使いまわされていたにせよ)であるし、たしかに研究の信頼性にとっては大きな瑕疵ではあるものの、マスコミも、熱くなって小保方さんを叩いている人も、ちょっと落ち着きがない。

たとえば、詐欺師の男が新種の昆虫を発見したとして、彼が詐欺師であるからといって新種がなかったことになるわけではない。彼は詐欺師だから嘘を付いているように見えるかもしれないけれど、本当に新種の昆虫がいるのかもしれない。同様に、コピペをした小保方さんの「研究者としての態度」への批判と、「研究業績」とは別のものとして考えられるべきでしょう。今回の件で騒いでいる人が問題にしたいのは何なのか。小保方さん個人への科学者としての資質に対する批判なのか、理研を含む日本の学問分野への批判なのか、甘い査読をしたネイチャー誌への批判なのか、世界に向けて恥ずかしいことをしたという国益的観点からの批判なのか。問題はさまざまにあって、それぞれ少しずつ位相が異なっているので、ごっちゃにせず考えたほうが良いと思います。

ただまあ、小保方さんがメール以外でサッパリ出てこないということが問題をややこしくしているのは間違いないので、とりあえずさっさと会見開くなり何なりはしてほしいかなぁ。

それはともかく、どうも「ネイチャー」が、一度は落としておきながら、二度目にこういう論文を採用してしまったということに対して「ネイチャーもあてにならない」、「科学の信用を落とした」みたいな意見を聞くのですが、私はむしろ、今回の件を通して「科学スゲーな」と思いました。

有名な「ソーカル事件」 を引き合いに出すまでもなく、論文誌の査読というのはそこまで厳密ではありません。「ネイチャー」にどのくらいの論文が送られてきているのかは知りませんが、何十、何百という論文を限られた期限内にすべてきちんと読んで、裏もとって……というのは正直物理的にかなり難しい。加えて、先鋭化のすすんでいる科学の世界では、ちょっと専門が違うだけで論文の内容がちんぷんかんぷんということも珍しくありません。
 
あ、ちなみにソーカル事件というのは、Wikipediaからですが、以下。

ソーカル事件(ソーカルじけん)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル(Alan Sokal、1955年-)が起こした事件。数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用した人文評論家を批判するために、同じように、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載されたできごとを指す。掲載と同時にでたらめな疑似論文であったことを発表し、フランス現代思想系の人文批評への批判の一翼となった。

こちらは「あえて」うあった話ですが、今回の話と似てるといえば似ています。

で、そういう世界ですから、ミスだって出るでしょう。そのことを問題視しないわけではありませんが、起こるべくして起こったというか、今回のような「事件」が発生してしまうのは、これはもう仕方がないことだと思います。

しかし、世界中の多くの学者が裏とりの実験を行い、違和感を覚え、論文の「誤り」を指摘したわけです。あっという間に内容が検証され、疑義が提出されたのですから。

そう考えると、「ネイチャー」誌という狭いくくりとしてではなく、科学という大きなくくりで見れば、きちんとした「査読」が行われたのだとも言えるわけで、科学が信頼に足るものであるということを、今回の騒動はきちんと世に示したと言えるのではないかなぁ。

名前に関連して困ったこと。

タイトルどおりです。

 1.読めない、書けない、画数多い。 (めんどい)

 2.年賀状送ってくれるけど、ここ数年私の名前を間違えて書いてる。 (対処に悩む)

 3.エロゲーのヒロインが、母親(旧姓)と同姓同名だった。 (気まずい)

 4.同僚の女性がモバマスのヒロインと同姓同名だった。 (笑いそう)

 5.最近生まれた姪っ子が、エロ小説(二次元ドリームノベル)のヒロインと同姓同名だった。  (名前呼びづらい)

こんなの絶対におかしいよ……。 

あいかわらずの。

先日、「2ちゃんねる」の一部掲示板で転載禁止騒動が起こり、あちこちの2ch系まとめサイトに余波が及んでいます。ただ、その「転載禁止」も実効性やら線引やらを巡って内容・評価ともに安定しておらず、これからどういう方向に進むのかよくわからない。

騒動を詳細に見ているわけではないのですが、パッと見た感じ、大きく分けて3つの反応があるように思います。

1.当然の結論。ガタガタ言うな。
2.まとめるのは勝手だろ、堅いこと言うな。
3.まとめ禁止は妥当だけど、2chにも影響が出るだろうから折り合いをつけるべき。

私自身は、正直「どうでもいい」という感じではありますが、あえて言えば「2」に近いかもしれません。まとめサイトのありかた・やりかたに対する不満と、その悪感情を正当化するための理論とは切り分けて考えられるべきだろうと思っているので、まとめんのは別に良いんじゃない? という感じ。まとめることと、まとめサイトで商業利用することとはまた別の話になるでしょうし……。

ただ、それは私がいわゆる「まとめサイトから見る人」(2chのスレに行くのはソース確認くらい)だからという面も大きいでしょうか。というか、「2chは見ないけどまとめサイトは見る」という私みたいなスタンスの人、結構多いですよね、たぶん。下手すると、「まとめサイト」が2chのスレまとめているということすら知らない人も……。

で、私を含めそういう人たちが「退場」したところで、「2ちゃんねる」に大きな影響があるのかっていうと、実際どうなんでしょう? よくわかりません。少なくともその手の依存度低い人が消えたところで、スレの勢いが極端に下がるとかそういうことは無いんじゃないかなーという気もします。ただ、大手「まとめサイト」って一日に何万アクセスとか稼いでいて、そういうのが支えているサービスってあるわけじゃないですか。

たとえば、いま私が使っているLivedoorブログにしても、幾つかの大手「まとめサイト」の存在は大きな収入源になってるわけです。ちょっと古い資料ですが、参考データは以下に。

 ▼「教えて!なぜ、どうしてブログは無料なの?

無料ブログの収入源は広告掲載です・・

毎年宝くじで換金されなかった時効当選金(主に末等金)の総額が220~230億円になります。 2008年の7月に総務省情報通信政策研究所で発表された「ブログの実態に関する調査研究」 では、日本におけるブログの総数が約1690万あり、そのうちアクティブ(更新を続けている)ブログが300万ブログであると発表しました。

また、電通総研が2007年4月に発表した予測によると、インターネット広告費は2011年に7,558億円にまで拡大し、そのうちパソコン向け検索連動型広告が2,265億円と宝くじ時効当選金の約10倍にあたります。

もし、1日に1千万のブログ記事が発信され、そこに1円の報酬がある広告が掲載されていたとして、1年で36億5千万円になります。無料ブログサーバーを運営し、利用者にどんどん記事を書いてもらえば(頁が増えれば)それだ広告料が増えることになります。

上はアフィリエイトの仕組まで突っ込んだ話にはなっていませんが、とりあえず大きな影響力を持ったブログが寂れていくとすれば、現状のブログサービスシステムに、何らかの影響が出る可能性はあるんじゃないかなーとか思っています。私が前に使ってたdtiblogも、結局ウリになるサイトが出てこなくてサービス撤退しちゃいましたしね。

ただ、今でこそラディカルな話に発展していますが、こういう「まとめ禁止」の話が出たきっかけって、「まとめサイト」の恣意的な編集とかがそもそもだったわけです。

 ▼「2ちゃんねる、一部の悪質な2chまとめブログを転載禁止処置!のまとめ
・第3者に迷惑をかけ謝罪しないまとめブログはアウト
・発言を捏造したまとめブログはアウト
・明確な悪意をもってまとめた、まとめブログアウト
つまり、もともとはまとめるという行為よりも、その「悪質」さが問題となり、嫌われていたわけでして、遠巻きに眺めている私などからすれば、まずはそこのところをキチンと片付けないとだめなのではないかなと。そして、こういうのはまとめる側だけではなくてそれを受け取る側の問題(リテラシーの問題)でもある、というのは何度も繰り返している通り。

たとえば「まとめ禁止」事件後に、まとめサイトに掲載されていた、この記事。

 ▼「朝日新聞 「ダサいといわれる恐怖…自分と、原発に翻弄されるいまの福島が重なった」」(アルファルファモザイク)
天声人語

▼いつか都会には慣れた。ダサいといわれる恐怖を久々に思い出させたのは東日本大震災だ。
かつての自分と、原発に翻弄(ほんろう)されるいまの福島が重なって見えた。
ダサいという言葉に囚(とら)われる心と、福島に原発がつくられた〈土壌〉は一致している、と

※下記リンクより、一部抜粋。続きはソースで
http://www.asahi.com/paper/column.html?iref=comtop_pickup_p
これ、元の2chのスレッドではこうなっています。(引用元
1 :名無しさん :2014/03/12(水)04:09:48 ID:pErrFi511
★天声人語

ダサいという言葉はいまどれくらい使われているだろう。辞書をみると、70年代に登場したらしい。
かっこ悪い、やぼったい、田舎くさいといった意味である。当時の若者にとっては、いわれたくない悪口の筆頭だったように思う
▼この言葉が、去年人気をよんだNHKの「あまちゃん」で使われ、名セリフの一つに数えられた。
主人公アキの親友ユイが、もうアイドルをめざさない、あんなのダサいという。それにアキが反論する。「ダサいくらいなんだよ、我慢しろよ!」
▼あまちゃんの音楽を担当した大友良英(おおともよしひで)さんは、アキのセリフに衝撃を受けたという。
福島の高校を卒業して東京に出てきた大友青年にとって、ダサいは〈切ないくらいの呪縛力を持ったことば〉だった。
岩波ブックレットの新刊『3・11を心に刻んで 2014』に書いている
▼いつか都会には慣れた。ダサいといわれる恐怖を久々に思い出させたのは東日本大震災だ。
かつての自分と、原発に翻弄(ほんろう)されるいまの福島が重なって見えた。
ダサいという言葉に囚(とら)われる心と、福島に原発がつくられた〈土壌〉は一致している、と
▼そこに共通するのは都会へのひけめ、あこがれ、そして対抗心も、だろうか。
だからこそ、大友さんはアキの言葉にはっとし、〈地方と中央の関係を根底からくつがえす原動力〉を見たのかもしれない
▼ドラマの中のアキは東京生まれの設定だが、ずっと方言のままだった。東京発の価値観だけにしたがって生きる必要などないのだ。

朝日新聞デジタル 2014年3月12日(水)付
http://www.asahi.com/paper/column.html?iref=comtop_pickup_p
てな感じ。全文引用を外して、一部引用に編集したんですね。お陰で、かなり意味不明なことになっています。まあもともとが相当意味が取りづらい文章ではあるんですが、全部読めば一応、「東京中心主義」を批判した文脈であることは理解できます。でも、この(まとめサイトの)抜き方にしたら、もっと分かんなくなるでしょという。

それよりなにより、タイトルとしてつけられている「ダサいといわれる恐怖…自分と、原発に翻弄されるいまの福島が重なった」というのは、「天声人語」からの正確な引用ではありません。「…」の部分は「中略」で、語尾も変更されているうえに、これは「天声人語」の筆者ではなくて、その中で引用されている大友良英氏の文章です。で、「まとめサイト」はそこだけを前後の文脈関係なしに抜いて掲載してる。タイトルとあわせれば、「天声人語」がむちゃくちゃなこじつけをしているように読めてしまうように思われます。

もともとのスレッドが誤読を誘いやすいところへ、更に誤読しやすいような引用をする。実際、この記事についたコメントなんかを見ても、元記事(あるいは「天声人語」を)読んでないんじゃないかなーというのがいっぱいついてる。

この「天声人語」のクオリティは、言ったら悪いけどかなり低いと思いますが、そのことと恣意的な編集によって嘲笑することとは別でしょう。もともと「難あり」だったスレッドを、更に誤解されやすいようにまとめているように、私には見えます。んで、こういうのをやるというのが良くない、という話だったんじゃないのかなぁ。

今回の「天声人語」の一件は、わざとなのかどうなのか微妙なラインだとは思いますが、デマやら悪意ある編集やらというのがもともとの問題であると考える場合、「まとめ禁止」というのは対症療法的な意味は持ちえても、抜本的な解決には繋がらないように思われます。

じゃあどこからどんな風に手を付ければいいの? と言われても、これといった名案があるわけじゃないんですけどね……。


 

叱責は誰がために。

人間関係で「叱る」というのは意外と難しく、友人同士であっても、あるいは親子・先輩後輩のような上下関係であっても、ややこしい感情的な問題を誘発させることがしばしばです。

 ▼「予習しないことに立腹の高校教諭「土下座しろ」」 
 新潟県立三条東高校は7日、英語科の男性教諭(50)が授業中、予習をしてこなかったことに腹を立て、1クラス40人の生徒全員に土下座をするよう指示していたことを明らかにした。
 
 同校によると、教諭は5日、5時間目の英語の授業で、予習してきたかどうかを聞いたが、誰も挙手しなかったため「土下座しろ」と叱った。その後、別室に一人ずつ呼び出して正座をさせ、理由をただした。土下座をした生徒もいたが、教諭はやめるように言ったという。同校の調査に対し教諭は「本当に土下座をするとは思わなかった。不適切な発言だった」と話しているという。
 
 5日夕、頭を踏みつけるなどの土下座の強要があったとする匿名のファクスが届き、同校は6日、教諭から事情を聞いていた。
 
 7日に問題のあったクラスで記名式のアンケート調査を行ったが、土下座を強要されたり、頭を踏みつけられたりしたと回答した生徒はいなかったという。
 
(2014年3月8日07時50分  読売新聞)
叱る=叱責するというのは、単に怒りをぶつけるというのではなく、相手の行った悪い言動について反省を促すとともに、それが繰り返されないよう是正するという意味があるわけですが、つい「イラッ」とした感情のほうを優先してしまうことが多い。この例なんかは、その典型ではないかと思われます。

土下座させることの意味は何なのか。「屈辱的な姿勢」をとらせることで、より強い反省を促す……という理屈をこじつけることもできますが、せいぜい建前でしょう。そのポーズを見た自分が溜飲を下げられる、という程度の意味しかないのではないでしょうか。それを、学校教育の現場で、教育、あるいは指導として行ってしまうというのは、やはりよろしくないと思われます。個人的には理念の入る余地が無いぶん、殴るけるといったもっと暴力的な体罰と同じくらいか、それ以上に質が悪い。

教育、指導の一貫として行うなら、何が悪く、なぜ・何のために、そして誰に対して謝罪が必要なのか、ということを考えるという作業が求められるのではないでしょうか。単に怒ってる人に頭下げりゃいい、というのは、処世術ではあるかもしれませんが、学校教育ではない。

よく、「申し訳ありませんでした」となんでも謝る新人さんに、「お前、何で謝ってるかわかってるの?」みたいなプレッシャーをかける上司の図がありますが、まさにそれを考えるということこそ、社会の中で自分がどういうポジションにいるのかを「反省」するということであり、学校教育というのはそのような意味での社会性、対人コミュニケーションを訓練するものだと思います。

ついカッとなったのかもしれませんけど、そのことを忘れたら、学校教師としては失格じゃないかなぁ。 
《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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