よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013年12月

2013年の終わり

いよいよ大晦日ですねぇ。

今日はコミケにサークル参加してきます。なんとか無事に終わるといいのですが……。

全ては終わってからだ!

というわけで意気込みを先に。終わってから二度目の更新をするかもしれません。 

C85:サークルE-LOGOSおしながき

もう一度ちゃんと宣伝します。

サークル【E-LOGOS】
▼C85参加予定
12月31日(火曜)
東地区“ヨ”ブロック-04b 
です。
シフトは、午前が私。午後から赤戌さんが入る予定。

■ 頒布内容
[新刊]
・  「E-LOGOS」Vol.2
 ¥300 (前回¥500としましたが、訂正です) 
・  「ととのがたり。」ノーカット版+レジュメ集 (¥100)
[既刊]
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・ 「E-LOGOS」Vol.1 ¥100

●「E-LOGOS」Vol.2 について
目玉コンテンツは、9月に行った『君と彼女と彼女の恋。』座談会の記録。
参加者は、私と以下の5名。
 KO-SHIN-RYO(

 keropie(

 G-hunter(

 houtengageki(

 pom(


私の交友関係メインだったこともあってか、批評空間系のレビュアーでばっちし固まっている印象。狙ったわけではないんですけどね。ほんと偶然です。ただ、やはり外部に向けて発信をするタイプの人が集まっただけあって、非常に活発な議論が交わされました。

全員に予習をお願いし、レジュメを切ってきてもらうという、割とガチ目な感じでしたので、内容もかなり密度の高いものになっています。その記録を、下のようにまとめたものを収録しました。(※下記の画像には『君と彼女と彼女の恋。』の致命的なネタバレが含まれるので、未プレイの方は閲覧にご注意ください

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※なお、この画像はCM用のサンプルです。実際の冊子内容と細部は異なります。

目玉のもう一つは、今日から始めるゲーム統計学」管理人、つばめ()様に寄稿いただいた論攷、「エロゲー批評空間と上手に付き合うための1つの考え方」。ゲームを買うとき、ユーザーはどんなことを意識するのか。またそのことがゲームの評価にどんな影響を与えるのか。エロゲーを買うユーザーの心理的バイアスを、批評空間のデータを元にしながら分析した意欲的な内容。わかりやすいだけでなく、利用したSQLの紹介などもしっかりしてあって、読み応え十分です。

ご関心を持たれた方がおられたら、是非お立ち寄り下さい。

Vol.2のその他のコンテンツとしては、前号でもやったおすすめエロゲー紹介。同人で採点して、点数の高かったやつを上から順番で載せています。今回は採点方法や掲載形式を大きく変更しました。2度目ということもあって、まだまだ手探り。だいたいこんな感じに仕上がりました。

page003
※この画像はサンプルです。

また、同人によるコラム、論攷も掲載しました。ざっと著者とタイトルだけ。
  • ハミガキ丸: 「夏の残り香はほろ苦い後悔 ~『Air』で泣けなかった男の戯言~」
  • 赤戌: 「『闘神都市』の思い出」
  • OYOYO: 「エロゲーの要・不要論によせて ――エロゲーにエロシーンは「必要」なのか?」

●既刊について
前回思った以上にあっさりなくなったので、ちょっとだけ既刊も追加しました。これを持っていきます。本当にちょっとです(笑)。マンパワーが不足しているので……。今さらでも欲しい、という方がおられたらお声がけください。

●その他の頒布物について
完全に固まっていないというか、いま絶賛作成しているので、確かなことが言えません(爆)。申し訳ありませんが、当日ご確認ください。


以上となります。このギリ直前になって宣伝するずぼらな性格をなんとかしないといけませんね……。

ともあれ3日目、 よろしくお願いします。ご来訪をお待ちしております。もし会いに来てくださったら、遠慮なくお声かけください(不在にしてたらすみません、連絡とれるようにはしておきます)。
OYOYOがどんなやつかみてやろ~という動物園を見に来る気分でお越しいただいても全然だいじょうぶですが、パンダのように可愛くはないので、残念ながら全く面白く無いと思います。あしからずご了承ください。

コミケ1日目

コミケに行ってきました。

初日。ヘトヘトです……。レポート的なものはまた明日にでも。

一緒に回ってくれた方、協力して買い物してくださった皆さま、ありがとうございました(。・x・)ゝ。 

己を知る

今日、バスにのっていた時のこと。

歳末の土曜日のお昼だけあって結構混みあう中、途中で足の悪いおばあさんが乗ってきました。運転手さんもかなり気を使い、「発車しますのでなにかにつかまって下さい」とか、 「お年寄りの方に席を譲ってあげて下さい」のようなアナウンスが流れます。

私はこの時立っていた組だったのですが、実はこのとき、1人用の座席が開いていました。都営バスは多くの高齢者が利用するため、あらかじめ座りやすい席をあけてあったんでしょうね。この辺、都バス乗客の訓練されっぷりは凄いなぁと思います。 

ところが、そのおばあさんは「次の次で、降りますから」といって座らない。私を含め周囲の人 が座席への道を譲ったり、いろいろしても、頑なに座るのを拒みます。かといって足腰が丈夫なわけでもないので、ちょっとした停車・発進でバランスを崩し、手すりにつかまっていてもふらつく。

座席が開いていることが見えない運転手さんは、ふらつくおばあさんの様子を見て、「お年寄りの方に、席を譲ってあげて下さい!」と何度も何度もアナウンス。でも、席は既に開いていて、おばあさんのほうに座る意志が無いのですから、どうしようもありません。ものすごく 気まずい空気が車内に流れます。

結局、短い区間に何度もそんなやりとりがあっておばあさんは降りて行ったのですが……。

気が短いと言われるかもしれませんが、「座れよ!」と思っていました。もちろん、私にはそのおばあさんのことはわかりません。自分が立ったり座ったりでバスの運行が遅れることを申し訳なく思っていたのかもしれない。座るとかえって立つのが大変だから座りたくなかったのかもしれないし、リハビリや何やらで歩く訓練をしていたのかもしれない。或いは、「お年寄りに席を譲れ」と「お年寄り」扱いされたことに、内心腹を立てていたのかもしれない。

しかし、現実として彼女は非常に危なっかしい立ち回りをしていたし、それで転んで怪我でもしたら大変です(実際、そうなりかねない感じはあった)。自分のことを考えても、また周囲の人のことを考えても、2駅だろうがなんだろうが 座るのがベストな選択だったんじゃないかと思っています。

ただ、こういうのって言うほど簡単ではないんですよね。外から見ていると「こうすりゃいいのに」ってわかるけど、当事者になるとなかなか分からない。お年寄りだからどうとか関係なく、自分の力や立場と周囲の様子を考えて身を処すというのは大事なことだし、またそのように自分を客観視するというのが難しいことだなぁと思います。たとえば、スーツのしわとか体臭とかだって、ある意味同じようなことかもしれません。

今回の件について私自身 の振る舞いをとってみても、もっとこうすればおばあさんが座りやすかったんじゃないかとか、直接言えば良かったんじゃないかとか、反省はありますし。まあ、何ごとも一歩ずつですね……。

『MA☆KO HUNTER』応援バナーキャンペーン

先日メールが来て、『MA☆KO HUNTER』応援バナーキャンペーンに当選したとの通知を頂きました!! ありがたや~。声優さんの寄せ書き色紙が頂ける模様。応募自体は旧DTIブログ(こっち)で行っていたので受理されるか不安だったのですが、一安心です。

いやー、当たるものなんですね、これ。『テラべっぴん』のとき、ゆず茶さん羨ましい状態だったのが、今度は自分のところに来るとか、知り合い率の高さがにわかには信じられない感じ。

丁度ブログ移転の時期と重なったので感想をこちらには書きませんでしたが、批評空間さんのほうにはレビューを投稿しておりまして。88点とか、なかなかの高評価つけてます。ご関心あるかたはご覧になって下さい。

 ▼「OYOYOさんの「MA☆KO HUNTER」の感想

なかなか楽しい作品でした。クロックアップさんのこっちのラインは本当に私好みのタイトルが多いんで、予約大安定です。ユーザーはがきもさっさとおくって限定アイテム(冊子等)をもらわないと。

最後、こちらにもバナーを貼って恩義に答えておきます……。ぺたぺた。

『MA☆KO HUNTER』応援中です!

というわけで、年末に嬉しいお知らせを頂きました。はっぴーな気分で年を越せそう。クロックアップさん、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

年賀状地獄

辛いです……。

知人・友人に出す賀状は、気楽だし、こういう機会がなければ音信不通になってしまう相手もいるので良いと思うのですが、目上の方に対して賀状を送るっていうのは本当にしんどい。

挨拶というよりは顔を売るという側面が強くて、余り親しくない相手でも賀状をきっかけにコネクションつくったり、そういうツールとしては優秀なんでしょうけど、送ることで逆に好感度下がる展開とかもあるから油断できないし、やってられないですわ。

といいつつ、シコシコ賀状書いてます。間に合うんかいな。

山田恵庸『CHARON』の突然の終了に寄せて。

お色気満載なSF漫画、『エデンの檻』の作者・山田恵庸氏が、最近新作を連載していました。その名は『CHARON』(カロン)。多少マイルドになったとはいえ、相変わらずのエロ・グロっぽい感じがたまらなく面白く、風呂敷広げまくって後半大きく羽ばたく助走をしていたように見えたのですが……。

今週(週刊少年マガジン2014年4・5号)、いきなり終わってしまいました。 

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山田先生の前作『エデンの檻』。全21巻で完結。

相変わらず強引にサービスカット入れてくるし、あざといくせに妙にエロいしでたいへん楽しみにしていただけに、何が起こったのかわからず、読みながら変な声をあげてしまいました。コンビニで立ち読みとかしてなくて良かったε-(´∀`*)ホッ。驚いて友人にメールしたら、先々週の、各連載漫画が新春の抱負を語る4コマで予告っぽいことは言われていたそうですね。見逃してた……。

『CHARON』はどんな漫画かと言いますと、まず舞台は2040年の宇宙。地球のいろいろな組織(国連・マフィアなど)の代表者として宇宙船に乗った18人の少年少女が、「神の遺産」と呼ばれる謎のアイテムを手に入れるため、時に協力し、時に争いながら「月」でサバイバルを繰り広げる、という、だいたいそんなような話です。

主人公、九十八密(にたらず・ひそか)の能力が、どう考えてもただのテレキネシスに毛が生えたような内容なのに「神殺し」と呼ばれていたり、物語の序盤に「月で死ぬ」という文字が見つかったりと、金田一少年ばりの伏線が張り巡らされ、さあ何が起こるのか(つか、これ回収できるの?)と楽しみにしていた矢先の、あまりに唐突な終了。死ぬの誰だよ!!

山田恵庸先生といえば、『エデンの檻』で「クンニしろおらぁぁあ!」という名言を残したことでも有名であり、ソッチのほうでも新たな展開がないかと密かに期待していたのですが、残念です。

edennoori02
「2ch全AAイラスト化計画」様より「クンニしろオラァァ」。実際の漫画ではコマを分けてそれぞれの台詞が言われており、単行本では「ク○ニ」と修正が入ったらしい。

今回については終わり方も非常に不自然で、なにせ伏線はほぼ投げっぱなしのジャーマンスープレックス。一応「神」が何者であったかが明らかになったかと思ったら、そこから芋づるで新しい謎をガンガン出してきて、もう完全に終わらせる気がありません。おわりのはじまり。

最終ページには定番の「山田恵庸先生の次回作にご期待ください」といった文言もありませんでした。しかも、巻末の作者コメントが、コレです。

charon
「短い間でしたが応援ありがとうございました。またどこか別の雑誌で会いましょう」

う~む、何があったんでしょうか(笑)。まあ「別の雑誌」つっても、月マガとかヤンマガとかの可能性はありますので、「講談社と喧嘩した」とかいう話につなげるのは早計だと思います。けれども、この書き方や、先ほど述べた連載の終わり方を見るに、「次回作」が週刊少年マガジンになる可能性はほとんどなさそう。

次は、エロゲーの原画・原作とかどうっすかね、山田先生……! (熱い視線)

しかし、『男坂』を彷彿とさせる(※『男坂』をご存じないという方は、《こちら》をご覧になってください。)、見事な終わりっぷり。なんでこんなことに……と思ったら、その手がかりは、山田先生のプロフィールに隠されていました。Wikipediaによれば、こんなお話が。

小学生時代、友人から車田正美の漫画『リングにかけろ』を読み、影響されて模写したことがきっかけで漫画家を目指す。高校時代に高橋留美子の漫画にも影響を受けて本格的に描き始める[1]。

[1] 西本英雄・著『もう、しませんから。』14巻 135ページ File.349『『エデン』はこうして生まれた!!』より。

おお……おお……。なんという熱い車田スピリット。こんなところ(「未完」)まで模倣しなくてもよかった気がしないでもないですが、これはもう間違いなく車田先生の後継者待ったなしです。しかも純血種。私は車田作品も大好きなので、皮肉ではなく、次回作が楽しみ。

果てしなく遠い坂道を、登って行かれる山田先生を、心から応援しております。 

コミケに出ます。

原稿も揃って出店が確定したので、あらためてお知らせします。

サークル E-LOGOS
日程:12月31日(火曜)
場所 : 東地区“ヨ”ブロック-04b

での参加になります。

内容は、だいたい下の通りです。
(1)『君と彼女と彼女の恋。』の座談会 の記録
(2)2013年下半期 おすすめエロゲーコレクション
(3)論攷・コラム類

今回、論攷には「今日から始めるゲーム統計学」管理人のつばめ様に寄稿いただきました。
タイトルは、「エロゲー批評空間と上手に付き合うための1つの考え方」。
非常に興味深くて面白い内容となっており、必見です。

あと、私を含めた同人がちょろちょろ文章を書いています。
こっちのほうはオマケって感じで!
頒布価格は500円の予定です。

なお、他にもちょっとした冊子を、時間があれば作っていこうかと思っています。まあ、時間があれば……。

というわけで、よろしくお願いいたします。 

「わかる」文章は「ただしい」わけではない

ネットで「わかりやすい文章」というのが重宝されています。しかし、それについては思うところがある、というのが私の立場です。自分がわかりやすい文章を書けない負け惜しみのように思われるかもしれませんが、文章というのはわかりやすさゆえに損なわれるものもあると思っている。ただ、それなら文章にとって「わかりやすさ」とは何なのかを、自分なりに説明できないとまずいなぁとは常々思っていました。

そんな折、西林克彦『「わかる」のしくみ』(新曜社)という本を読みまして、納得させられるところがあった。今回の話はその本が元ネタです。

「わかる」ということには、何か絶対的な基準があるわけではありません。「布が破れたので、干し草の山が必要であった」という文章。これはおそらく、「わからない」はずです。しかし、そのわからなさは単語や文法が難しいからではないでしょう。「布」も「干し草」も、一般的にはことばとしてはかなり平易ですし、実物がイメージしづらい、ということもありません。

では、なぜ「わかりにくい」のか。それは、前半と後半の関連が、うまく行っていないことに由来します。「ので」という順接の接続詞が使われている以上、前半は後半の原因でなければなりません。しかし、この文章からではその関連を読みとることができないのです。

ところが、往々にして文章を書いている人は、頭の中でこの「ので」が繋がっている。そういうとき、「書き手にはわかるが、読み手にはわからない」文章ができあがるわけですね。耳の痛い話です。

たとえばこの文章が、「パラシュート」に関するものだったとしたらどうでしょうか。「(パラシュートの)布が破れたので、干し草が必要であった」。うん、これならわかります。いや、正確には何となく「わかる」気がします。

ここまで見てきたように、西林氏が指摘するのは、文章を「わかる」というのは、ある《統一的な文脈》のもとに、その文章のパーツが組みたてられているときに感じる感覚だ、ということです。

もう1つ例を挙げてみましょう(西林氏があげていたものですが)。

日本には梅雨がある。沖縄では五月から、関東では六月から梅雨の季節になり、一ヶ月の間、毎日のように雨が降る。しかし、北海道では梅雨はほとんど見られない。

この文章を読んで、「わからない」ことは無いでしょう。明確に「わかる」文章のはずです。しかし、たとえば「沖縄では梅雨入りが早く、関東では六月になるのはなぜ?」、「どうして梅雨は一ヶ月なの?」、「北海道に梅雨が来ないのはどうして?」のように、質問をされることで一転「わかりにくい」文章となります。

西林氏によれば、こうした問題は一般的に、「わかる」の深さの問題として扱われてきました。つまり、質問するまえの文章は底の浅い文章であり、質問に対して答えられるような内容を書いてこそ深い文章だ、というのです。しかし、本当にそういうことなのでしょうか?

「なぜ」を問うと、「どこまで問えばいいの?」ということが問題になります。正直言ってキリがありません。梅雨の原因は、日本の南にある小笠原高気圧の勢力拡大と、北方にある低気圧がぶつかることで生じる。それを踏まえれば、そりゃあまあ、深い文章を書くことができましょう。ですが、じゃあ「なぜ」気団(気圧)がぶつかると雨が降るのか。「なぜ」この時期に高気圧と低気圧が日本にやってくるのか。訊ねようと思えばいくらでも深くつっこむことはできるわけです。

最初の文章が底の浅い、「わかったつもり」になれるものでしかない、というなら、私たちはどこまで説明を繰り返せばいいのか。その限度は誰にもわかりません。誰かが「なぜ」を問わないところまでというのなら、学者にでもなるしかないでしょう。

そこで、西林氏の「《統一的な文脈》と文章のパーツの関係」という考えが活きてきます。これに基づけば、最初の文章もきちんと「わかる」文章になっていることが「わかる」はずです。ちょっと説明を付け加えると、最初の文章は「日本には梅雨がある」というテーマに対して、「沖縄」「関東」「北海道」という具体例を提示しています。それは一例として本文のテーマに適合しています。だから私たちは、この文章を「わかる」と感じるわけです。 

一方、質問によって明らかになるのは、この「わかる」をもっと多層化することができる、ということです。この場合、「日本には梅雨がある」→「地域によって梅雨の時期が違う」ということから、梅雨のメカニズムを明らかにできる、ということであって、最初の文章の「日本の梅雨」-「具体例」という関係の下に、もう一段重ね、「日本の梅雨」-「具体例」-「梅雨のメカニズム」という《統一的な文脈》を作りだしたのです。

このとき、最初に感じていた相互の連関が崩れ、新たに「わからない」感覚が生まれてきた、ということになります。 

こうした西林氏の議論を参考にすれば、「わかる」かどうかは、自分が「言いたいこと」、「知りたいこと」に対して過不足なく情報を提示し、それをうまく繋げているかどうか、ということ だと言うことができるでしょう。「母に怒られたので、私は買い物に行った」なら何となく「わかる」けれど、「犬に噛まれたので、私は泳ぎに行った」だと「わからない」。「わかる」というのは、内容のいわゆる深さであるとか、知識の正確さとは別の、文章の構造に由来する感覚である、ということです。

もっと言えば、自分が期待している《統一的な文脈》の連関の内容に、かなり左右されます。自分の中に、すんなり飲み込める《統一的な文脈》があらかじめ準備されていなければ、ある文章が「わからない」ということも起こりうる。そういう視点で言えば、ある文章が「わかる」か「わからない」かの責任は、書き手だけではなく読み手にも存在するものだ、ということができるでしょう。

わかりやすい書き方をしろ、わかりにくい文章だからダメだ……というのは、たしかに重要な指摘です。読者への目配せという意味でもそうですし、文章の「人気」を考えてもないがしろにはできないことです。しかし、表面的な文章のわかりやすさというのは、多くの場合単なる言葉遣いであったり、文脈の統一性であったりといった「形式問題」の枠に収まってしまう場合が多い。タイトルに、「「ただしい」わけではない」とつけたのは、「わかりやすさ」が内容と必ずしも結びつくわけではない、というくらいの意味だとお受け取りください。

形式を軽視して良いとは言いませんが、そのような形式問題ばかりを気にして文章を読んだり書いたりするのもどんなもんかなぁと思うのです。

あ、「わかる」かどうかとは別に、説得力が問題となることがあるは言うまでもありません。だた、今回はそこに踏み込む前に、キリのいいところで話を止めておこうと思います。

怒らないなことは自信の無さや無関心のあらわれなのか

先日、「他人を怒らない人は、優しいのではなくて自分に自信がないだけだ」といった話が、職場でありまして。だから、われわれはもっと自分に自信を持って怒るべきなのだ、と。また、怒ることは相手への期待の裏返しでもあるから、実は怒るほうが優しいのだ、とか。つまり、しっかり怒ることができる人=自分のことをきっちりしていて、他人にも愛情を注げる人、ということのようです。

似たような言説というのはネットにもたくさんあり、たとえば「怒りは(優しさではなく)無関心」のような記事はしょっちゅう見かけます。たとえば下の記事とか。

 ▼「怒らない人って一見良い人そうに見えるけど、実際は最低の人間
 ▼「怒られているうちが華 愛の反対語は憎しみではなく無関心

いろいろ読んでみた限り、「怒りとは相手に「関心」があるから生じるのだ」というロジックは、マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心」という発言を敷衍したところから生じている模様。ただ、怒りについて何度かこのブログでも(旧DTIのほう)取り上げてきた通り、やっぱり私は、簡単にそういうものだとは言い切れないんじゃないかという立場をとりたい。 

社会学や児童心理学で昔教わったところによると、そういった学問の分野においては、「怒り」というのを問題解決行動の一貫と見なすようです。つまり、何らかの問題が発生して、それに対して解決の意欲があるからこそ「怒り」が生じる、というわけですね。好き・嫌いというレベルにしてしまうとちょっとショボいですが、これならわかります。たしかに、「怒り」は関心のあることにしか向けられないのでしょう。

しかし、それなら今度は、問題解決の手段として「怒り」が妥当かどうか、ということが問われなければならないと思います。痴漢はその対象への性的関心の表明ですが、痴漢をすべきだ、とは誰も言わないでしょう。それと同じように、 「怒る」ということが関心の表明であるということと、「怒る」ことが妥当な行為であるということとは、まったく別の話です。そして私は、関心の表明として「怒る」ということには、相当の覚悟が必要だと思うのです。

諸々のことを考えると、簡単には怒れないよね、ということを昔、高校の先生が言っていた。その先生は傍目にも非常にきっちりした人で、能力も高く人格者であり(いまは教頭になっておられます)、生徒・教師・PTAからの信頼も(たぶん。PTAは妄想です)厚かったのですが、そういう人を以ってなお、他人を怒るときには覚悟がいるという。「相手のために怒るならいいけど、自分の発散のために怒ったらダメだ」ともおっしゃっていました。

もちろん、怒らない理由というのが単純に怒ることで他人から嫌われるのが嫌だとか、そういうパターンもあるのでしょう。それは確かに、顔色を伺っているだけ、という感じがしますね。

しかし、怒らない人、あるいは怒れない人というのの中には、怒る前に自分のことや他人のことを考えてしまう人、というのも少なからずいると思う。それを「怒ることができるくらいきちんとしていれば問題ない」と切って捨てることもできるかもしれませんが、なかなかそんな完璧超人にはなれません。そりゃ、自分のことは完璧にこなしたうえで他人に厳しいならかっこもつきますよ。でも、自分のことさっぱりなのに他人にだけ厳しいとか、やっぱりかっこ悪いじゃないですか。怒りを露わにするまえに、どうしてもそういうところで歯止めがかかるってのはあるはず。

他人に対して「怒り」を表明するとき、良識ある人ならば、自分のことを棚に上げて……ということはなかなかできません。自分が誰かに同じような目を向けられた時に、果たしてその視線に耐えるだけのことをしてきただろうかとか、自分が発した非難がブーメランになって帰ってこないかとか、そういうことを考える。また、相手にどんな事情があったんだろう……というようなことも頭をよぎるでしょう。

そう考えると、軽々しく怒らない人というのは、自信がないとか無関心であるというよりは、やはり一定以上の思慮や自制心を持っているというふうに考えて良い気がしますし、長くお付き合いを続けていくならそういう人のほうがやりやすい気はします。

自制心強すぎて、付き合いが浅くなりがちっていうのはありますけどね。 
《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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