よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

2013年10月

教育は「自殺」しようとしているのか?

本日付けのこちらの記事を読んで絶句しました。

 ▼「国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に」(毎日新聞)

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国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に
毎日新聞 2013年10月11日 07時00分(最終更新 10月11日 09時33分)

 政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。

 同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。

 同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。

 下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。

 私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。

 同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。

【福田隆、三木陽介】

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「毎日新聞の単独インタビュー」で他に比較項が無いため、どの程度正確な内容が書かれているのか定かではありません。しかし、これが本当ならまずいだろうとは思う。

ここで想定されている「廃止」されるべき二次試験がどういうものか具体的にわからないまま書いているから見当はずれなことを言うかもしれませんが、一応国公立の二次試験というのは、センター試験という共通試験では問いきれないような少し突っ込んだ内容を、各大学が自分たちの要求するレベルで改めて問いなおす試験であり、いまそれを「似たようなことしかやってないから」という理由で廃止しようとしている(基礎的な学力の、グレードが高い部分のチェックをなしにしようとしている)のだという前提で話を進めることにいたします。

私は、教育行政に関しては不案内なドシロウトです。しかし、高校・大学と高等教育を受けた身として(学んだことが高等かどうかはともかく、義務教育以上に進学したという意味です)、また現状でも少し教育に関わりのある職場にいる身としては、言いたいこともある。

学力一辺倒批判はもっともです。人物評価、超大事。1発勝負をやめるというのもたいへん結構なことだと存じます。

しかし、だからといって、これまでの学習内容からレベルを下げる必要は無いでしょう。

考える力を重視したいというのは「ゆとり教育」の頃から言われていて、その基本方針自体は私も支持します。しかし、「暗記・記憶だけでなく」というのが「暗記・記憶をやめて」みたいなふうになるのは、どうしてなんでしょうね。「2次の学力試験」を廃止する必要あるんでしょうか。

考える力は確かに大切です。しかし、その力は自然に身につくものではない。学問というのは基礎知識の積み重ねの上に成り立っているものだからです。知識力と思考力とは、決して切り離されたものではない。「学」をことさらに重視した思想家である孔子も言っています。「学而不思则罔。思而不学则殆。」(学びて思わざれば則ちくらし。思いて学ばざれば、則ちあやうし ※学ぶだけで考えなければものごとをハッキリ理解することはできないし、考えるばかりで学ぶことをしなければバカなことを考えてしまう)と。

本を読むにしても、ものを考えるにしても、考えを語るにしても、基本的な知識というのは重要です。さまざまな知識があってはじめて、ものごとを、世界をさまざまな角度から見ることができる。知識の不足はそのまま視野の狭窄に繋がっています。自分の考えを比較することができないのですから。

そして、その「知識」を幅広く身に付けるには、基本的に暗記しかありません。いま暗記教育が役に立たないとかなんだかんだ言っているのは、暗記の問題でも学生の問題でもなく、教える側の問題でしょう。知識は、どれだけあっても多すぎて困るということは無いはずなのに問題が発生しているのなら、教える側が、知識を使いこなすことを伝えられていないと考えるのが自然です。

知識の量を減らせば、使いこなすのは楽になるでしょう。しかし、それに何の意味があるのか。人生の若い時期、一番頭も働いて吸収力もある(と思われる)高校~大学の時期を、無為に過ごす方針に拍車をかけるだけではないのかと思います。

もちろん、勉強(学問)だけが人生ではないというのはその通りです。しかし、それならそもそも高等教育を受けなければ良いだけの話。ここで話題となっているのは、その教育を受け、学問の道へ進みたい(将来企業に就職するにしても)という人が自主的に行く先である「大学」が、どういうスタンスで学生を待ち受けるかという話ですから、勉強(学問)に価値がない等の意見はいったん却下させてください。それをしたいなら、入試制度がどうこうではなくて大学を潰したほうが早い。

専門的な学業の道へ進むなら、「知識の量」というのはもっと重要になってきます。

たとえば思想というのは、過去の人がどんなことを言っていて、何を問題にしていたかという理解の積み重ねのうえに成り立っています。それを学ぶところから、より深い考えができるようになる。自分一人でものを考えるのではなくて、先人たちと対話し、教えを請い、時に争いながら思索を深めていくものです。いきなり自分だけで考えてみたって、既に昔誰かが言っていたことを繰り返すのが関の山。別に個人の趣味の範囲ならそれが悪いわけではありませんが、「学問」という体系に寄与することにはなりません。

これは、文系でも理系でもそうじゃないのかな……。「論文」という形で積み上げられる知のほとんどが、先行研究の参照のうえに成り立っているということは、学ぶという作業の基本に「積み重ね」と「参照」があることを物語っているようにも思われます。そしてそのような「積み重ね」と「参照」の結晶を、私たちは「知識」というのではなかったのでしょうか。

毎日の記事にある「知識偏重」批判というのが、どのようなものを意識しているのか、具体的にはわかりません。しかし、「偏重」しているから減らせば良いと言わんばかりの結論案を見ていると、暗澹たる思いがする。問題は「偏重」していることよりもむしろ、蓄えた知識を使いこなす技術を教えられないことであり、だとすればやるべきことは、学ぶ知識の量を減らすことではなく活かす方法を身につけさせることであるはずです。

だいたい、知識もなしにフランスのバカロレアみたいな問題を「考える」ことができるわけ無いじゃないですか……(「解ける」とは言いません。解くものでもないでしょうし)。

詰め込み教育をやれば良いとは思いません。けれど、学ぶということの基本的な作業性から目を背け、いきなり応用的なことばかりやろうとする昨今の「教育改革」の風潮というのは、私はどうも好きになれない。好きではないというのみならず、間違っていると思います。

こういう教育を続けていると、将来若者を「教える立場」に立つ人たちが、学の本質的なところに触れないままで高等教育を終えてしまう可能性がある。そうなったら、学ぶことの基本を、だれが日本社会の中に伝え残して行くのでしょう。大げさな話ではなく、日本の教育は自壊の危機に瀕しているのではないでしょうか。私にはこういった「改革」の動きが、教育を緩慢に殺そうとする動きに思えてなりません。

ああ、文科省が言ってるんだったら「殺そうとする」はおかしいですね。「自殺」のが良いか。


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新田さんマジせくろす。

モバマスの話です。

本日から「新・悪魔っ娘リミテッドガチャ」が解禁されました。目玉のSRは、我らが新田美波さん。

私が何を騒いでるかわかんない人が多いかもしれませんが、まあ百聞は一見にしかずということで、こちらを御覧ください。

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や ば い 。

え ろ い 。

事後だって言われても納得しちゃうね! 昔から「歩くセクロスさん」とか言われてましたけど、もうマジでセクロス。やーばーいーぞおおおーーー。

ぶっちゃけ私は新田さんがいたからモバマスを始めたようなものですので、これはもう、誰が何と言おうとゲットしに行かねばなりません。幸いボックスガチャ(ガチャの総数が決まっているため、全部引くだけのお金をつぎ込めば確実に入手できる)だったので、さくっと投資してきました。

こんなに頑張ったのは、前回新田さんが月末ガチャで出た時(制服ガチャ)以来でしょうか。

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ゲット。

SRの絵が非常に良いのでSR+と別にSRも確保しちゃいましたよ! さすがにフリトレで。

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SR+はこんな感じ。完全に淫魔。ほぼエロゲーである。

月末ではないとはいえガチャの目玉SRだけあって、コスト19、コス比も1000オーバー、能力もそこそこ強めと文句なしのリーダー候補。最近はデバフ系や防御もあがるタイプの特技が重宝されることが多いものの、キャラ愛の前にはそんなもん些細なことですから、固定で使い続ける所存です(とか言いつつのあさんをリーダーにしてそうですが)。

私は新田さんに「俺の嫁」とかいうつもりはありませんけど、なんか応援したいというか報われて欲しいというか、存分にそのエロさを発揮してほしいというか……。これがアイドルを応援するってことなんですね。

わかるわ。

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イープラス不正アクセス騒動

ライブチケットとかを購入するときにお世話になっている、イープラスさんからメールが来てました。開いて読んで、びっくり仰天。なんか不正アクセス騒動があったとのこと。

フリーターの定義から見る《若者》

余り知られていないかもしれませんが、「フリーター」ということばには、一応定義があります。

1991年、厚労省が「若者の人間力を高めるための国民会議」というのを開催し、その中で定義がなされている。それによればフリーターとは、(1)15~34歳の人。(2)現在就業している者については勤め先における呼称が「アルバイト」又は「パート」である雇用者。(3)女性については未婚者。(4)在学者を除く。(5)現在無業の者については家事も通学もしておらず「アルバイト・パート」の仕事を希望する者。

以上をざっくりまとめると、「15~34歳の男性または未婚女性(学生を除く)で、現在パート・アルバイトに従事している者か、もしくは現在無職であってもパート・アルバイトに就労を希望する者」という感じで要約できるかと思われます。

 参考: ▼厚労省「若年者問題に関する関係府省等の取組・連携の強化について

「パート」や「アルバイト」にもさまざまな定義があってややこしいので、そのあたりはいったん措くことにしましょう。いま注目したいのは、「15~34歳」という年齢の部分。

この定義を鵜呑みにするならば、35歳を超えたらフリーターではないということになるんですね。これは、厚労省がこのときに設定した「若者」の定義にそっています。

行政の「若者」定義というのは場面に応じていろいろと変わっています。それぞれ適当に決めている可能性は無きにしもあらずなのですが、ここで「15~34」が採用されたのには、それなりに時代的な背景が関係していそうな気はします。想像の域を出ませんがおそらく、1991年当時の状況では35歳以上で正規雇用されていない人というのは、あまり想定されていなかった。しかし、現在はどう考えても40歳付近で上記の条件に適う人がいっぱいいる。行政ははたして、かれらを何と呼ぶのでしょう。

91年というのは言うまでもなく、バブル崩壊から「安定成長期」が終焉を迎え、日本経済が長い長い混沌の時代へ突入しようとしていた時期です。15歳~というのは、形式的には義務教育が終了する年だから採用されただけだと思いますが、あとづけの結果的にいわゆる「ロスジェネ世代」(1975年ごろに生まれた世代)や「第二次ベビーブーム世代」(1971年ごろに生まれた世代)を意識させるものとなっています。34歳までというくくりがどういう枠組みから採られているのかはよくわかりませんが、意味としては団塊の世代は含まない、ということだったのではないかと想像します。

もちろん、現実の「フリーター」ということばは35歳をこえていようがアルバイト・パートとして働く人に使われることが多いし、意欲はあっても実際に就労していない人は「フリーター」ではなく「ニート」と呼ばれている。その意味で、厚労省の定義というのはあまり現実に即した内容とは言えません。

ただ、1990年初頭からすでに、30代中ごろの人間も就労者の中で「若者」(若年者)の範囲に入っていた、ということは面白いと感じました。たぶん、「若者」と言われて34歳を思い浮かべる人はそれほど多くはないと思う。実際会社員だとすれば、とても新人の年齢ではありません。しかしこと就労に関して言えば、行政上彼らは《若者》として、つまりはまだ成熟していない人間として扱われているわけです。


間違い電話のありがちな特徴

私の家の固定電話の電話番号、もともとどっかの製造業者かなんかの番号だったようで、しょっちゅう間違い電話がかかってきます。

あんまりにも頻繁で鬱陶しいので常時留守電にしたところ、一ヶ月で20件くらい溜まる。そのほとんどが間違い電話です。とはいえ中に私宛の電話も混ざっていたりするので仕方なく再生して聴いておりますと、面白い「特徴」が見えてきました。

私宛の電話は、ほとんどが客商売のお店(鞄の修理、デパート、服屋など)か仕事先。この場合、留守電にメッセージを吹き込む際に例外なく、「OYOYO様のお宅で間違いなかったでしょうか。わたくし、○○の○○と申しますが……」という感じで担当者のかたは話しはじめます。

つまり、1.相手の確認 2.自分の所属 3.用件 の順番で名乗るわけですね。最後にはもちろん、連絡先も告げて行きます。

ところが、間違い電話をしてくる人はほぼ100%の確率で、最初の「相手の確認」をしません。「私、○○と申すものですが……」で始まります。こういう言い方をすると申し訳ないけれど、「ああ、間違い電話をして当然だろうな」と思う。確認とかしないんでしょう、彼らは。

うちの留守電の受付メッセージは、どう考えても企業のものとは思えないようなもの。苗字を名乗りこそしませんがおちついて聴けばおかしいと感じるはずだし、そうでなくても留守電で間違った相手に無関係なメッセージを吹き込む可能性を考えれば、「相手の確認」をするのが普通です。

そういうのをすっ飛ばしていきなり名乗る、ひどい人になると名乗りすらせず頭から用件からスタートする人もいます。個人ではなく、聞いている限り発注している企業とかが多いのかな。まあ何にしても、基本がなっていない感じ。

留守電にせずに直接受話器をとっていたころは、自分も名乗らず、こちらが誰であるか確認もせずに「○○の○○について聞きたいんだけど……」と一方的に話し始める人もいました。「どちらさまですか?」と訊くと、某理系の大学関係者だったり、大手企業だったり。「こちら個人宅なんですけど……」と言うと、謝りもせずに無言でガチャンと切る。どれだけ偉いんでしょうね。

連絡が上手く行っていないだけなのかもしれないと理解しつつ、気持ち的には「そんな程度の常識も無いから、電話番号が変わってることに気づかないんですよ」と言ってやりたい。自分に無関係なメッセージを延々聞き続けるのは、正直骨が折れます。

また、電話はまだしも、間違えて届く発注のFAXとかはいちいち連絡してシュレッダーにかけるのホント面倒。もとの電話番号を持ってた企業には連絡したんですけど、結局「連絡が密にとれない相手」だからこうなってるわけで、根本的な解決は無理と言われてしまいました。

電話番号変えるのも面倒だし、しかたがないのでうちの留守録には人間観察のサンプルデータが自動で溜まっていくのだと思うようにして、心を慰めております。

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皮肉なことに

先日の艦これ記事、「ソース見ようよ」みたいに解釈された方が多くおられたようで、感想なども頂きました。勿論間違っちゃいないのですが、微妙に戸惑うこともありまして。

と申しますのも、タンブラーで私の記事が拾ってもらえたようなのですが、その拾われた記事からもと記事(私の記事)に辿ってきてる人ってアクセスログを見る限り1割ほどなんですよね。肯定的な反応が多いみたいなのに。

タンブラーからソースを辿る人が少ないというのは以前にも少し書いたことがあるのですが、ソース見ようという文章を読んでソースを見ないというのは、何とも皮肉な感じがします。

私の記事に力が無いといえばそれまでなのですが(ついでに、タンブラーの引用がかなり長いので文脈を誤読する可能性も低いと思われたのかもしれません)、読んだ内容に反応するのと実践するの違うということなんでしょうか。

いやまあ、浮気モノゲーム大好きな人がリアルでは一途な愛を貫いていたって別段構わないわけですし、いや、それはちょっと違うか。ともあれ理解や納得と実践は違うというか、「そういうもの」なんだと思います。でも実際目の当たりにするといろいろ考えてしまいます。

やはり書く側の反省として、言い方や表現の方法の問題は少なからずあるのだと思う。ことばに力を持たせるには、どうすればいいのかなぁ。

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話題の賞味期限

「人の噂も七十五日」とは昔の格言ですが、最近は七十五日も話題が保つことってあんまり無いかもしれません。

たとえば、2ちゃんねるで個人情報が流出した事件。あれ2013年8月25日ですから、まだ1ヶ月と少ししか経っていないはずなのに、もうほとんど話題になることがなくなりました。実際に流出してしまった人にとっては「良いこと」なのかもしれませんが、やっぱり早いなぁという印象があります。

ツイッターで冷蔵庫に入ってる写真を晒す等の、いわゆる「バカッター」系事件なんてもっと酷くて、下手をすると1週間もたないこともある。雨後の筍のように同じようなのが出てきているから、1つ1つの事件のインパクトが薄まるのは仕方がないのかもしれませんけれども、人ひとりの人生が台無しになるようなところまで追い込んだりしたわりには、ずいぶんあっさりしている。騒いでいた人たちは、数年後とかにでもあんなやついたなぁ……などと思い出すことすら無いような気がします。

「炎上」の炎は激しく、けれどあっという間に鎮火する。あるいは燃料すらなくなるほどに燃え尽きているのかもしれませんが。

もちろん「炎上」案件にかぎらず、いいこともわるいことも、そんなに長続きしない。日々のニュースはあっという間に忘れ去られ、次の話題に移っていく。以前から言われていたことではありますけど、最近とみにその流れの速さが加速しているように感じます。

立ち止まってじっくりと、いろんなことを考えたいなぁと思うのですけど、なかなか難しいですね。


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タグ付き歩行

動画の話ではなくて、クリーニングの話。

今日、クリーニングから戻ってきたズボンをはいて仕事に行ったんですが、お昼にエレベーターで「OYOYOさん、タグついてますよ、クリーニングの」って言われまして。手で探ってみたらマジでした……。ひー。恥ずかしい(*´∀`)。

というか、みんな気づいてただろうに教えてくれよ~~~ッ!

街中でならまだしも、自分のテリトリーである職場でもお昼すぎまで誰も注意してくれなかったというのは地味にヘコみます。みんな全く私に無関心なのか、嫌われてるのか、と……。いやまあ、そんなことはないと思いますけど。……ないよね?

おろしたてのカッターシャツの値札つけたまま出ちゃったり、Tシャツ裏表逆に着て外に出たり、時々大ポカをやらかすので我ながらあなどれません。ドジっ子属性もこんなおっさんでは可愛くないし。まこと救いがたいところです。

まああれですね、朝は慌てずに出られるよう、余裕を持ってとわかってはいるんですがなかなかそう思うようには行かないわけでございまして……。みなさんも「失敗」にはお気をつけ下さい、くれぐれも。

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ながいながいタイトルのはなし

そういえばブログ記事のタイトルって皆さんいろいろ工夫されてるんですね……。とある熟練ブロガーの方とお話をする機会があって、いろいろ新鮮でした。

私は、いわゆる「ブログのハウツー」みたいなのを余り知らないし、ぶっちゃけそんなに興味もありません。ただ、ブログを書き始めたときにあれこれ見たことはあって、基本「記事で書かれている内容がハッキリわかる」、「目を引く表現をする」、「キーワードを入れる」という3つがポイントとして取り上げられていることが多かったように思います。

そういう中で、へぇ……とおもったのはこちらの記事。

 ▼「記事タイトルのベストな文字数は? 8943記事のデータから探ってみた

ビジネス向けのブログ記事やWebページのタイトルの長さについて言及されたものですが、サンプルから「タイトルの文字数を何文字にするといいという明確なしきい値はない」という結論が導かれていて面白い。折角ですから、「~文字くらいが良いのです」と主張している側のエビデンスも見てみたい気がします。

まあそれはさておき、「TwitterやFacebookで共有されるときにはタイトルが中心になるので、多少長くても、タイムラインでざっと見てどんな内容か把握できる説明的なタイトルのほうが良い」というのは実際そうなんでしょうね。確かに、タイムラインに流れてきたブログ記事が「面白そう」かどうかを判断するのはほとんどタイトルですし。

まれにリンクを貼る人のコメントに惹かれて見る場合もありますが、大半の人はコメントを付けずにポストするので、やはり記事タイトルのキャッチーさというのは重要なのでしょう。

ただ、私はそういうのが苦手というか才能がないというか……。まあ今回の記事タイトルを見てもらえばお分かりの通り、あんまり「一発で内容がわかる」ようなタイトルを付けられないタイプです。キーワードくらいは入れますが。

一応ダメなりにちょっとひねってみたりすることはあって、たとえば自分では比較的いろいろネタを使ってるつもりだったり。今回はこれが元ネタ(ながいながいペンギンのはなし)。ちなみにこのタイトル自体が、カレル・チャペックの「ながいながいお医者さんの話」から採られています。

そんなん誰もわからねーよって言われそう。でもまあ良いんです。自己満足。ただ、もし知ってる人がいたらニヤッとできると良いなぁくらいで。

個人的な好みを言えば先程も申し上げた通り、あんまり長くて説明的なタイトルが好きではありません。嫌いってわけでもないんですけどね。この辺が難しくて、どう言えばうまく伝わるか……。

実際問題長くて説明的なタイトルというのはやっぱり閲覧の時に参考になったりはします。なるんですが、タイトルがそこで止まってしまう。見るキッカケにはなるけれど、見終わった後にタイトルに戻ってくることが無いとでも申しますか。

ここからはちょっとビジネス用ブログとかの話から離陸して、ラノベのタイトルとかのほうが分かりやすいかもしれません。ひと目で内容が分かってしまうタイトルというのは、読み終わったらある意味無用になってしまいかねない。逆に、最初よくわからない、もしくは何の飾り気もないように見えたタイトルが、物語を読み終わって戻ってくると鮮やかに色づいて見えたりすることがあります。

ゲームなんかでもそうで、プレイを終えた後に「ああ、このタイトルってそういう意味だったのか……」って諒解感が訪れる作品がある。そういうのが楽しいんですよね。そして、説明的で入り口としては目を引きやすいけど読み終わった後意味のなくなるタイトルより、多少わかりにくくても読み終わった後、そこで立ち止まって考えるようなタイトルのほうに好きの比重が高い。そんな感じ。

自分がそういうタイトルつけてるとは言ってませんよ(笑)。私のは単に思いつきとノリで適当に決めているだけです。

ただ、記事にしろゲームやラノベにしろ、タイトルってやっぱり内容の一部だと思います。『ドラゴンクエスト』が『姫がさらわれたので王様に頼まれて勇者の俺が助けに行くぜ』みたいなタイトルだったら、終わった後の味わい深さが違っていたんじゃないでしょうか。

エロゲーでいえばたとえば、『螺旋回廊』なんかはプレイ前タイトル見ても「なんじゃそりゃ」だったのが、プレイ後「おう、なるほど螺旋回廊……」ってなりました。他にもいっぱい「名タイトル」ってあるけど、それは例外なく物語の余韻を、タイトルが引き受けているものだったように思います。

あ、Mielさんとか(こんな感じ)くらい開き直ると逆に楽しいかもしれません。

物語にしろ記事にしろ長くて説明的なタイトルが悪いとは思わないし実利があるのもわかるけれど、私がどうしてもそこに一抹の寂しさを感じるのは、「読み終わった後」の感情を受け止める力が薄くなっているからなのかなぁと、そんなことを考えたのでした。

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ファンタジア文庫丸戸先生のサイン会当選してた話

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当選通知来ました。

ヽ(=´▽`=)ノ

良かったです。まあ1人1口しか当選しないということもあり、20口くらい送りましたからね……。逆に当選してなかったら泣いてました。

このサイン会は、2013年10月12~13日に開催予定の「ファンタジア文庫25周年祭」と同日開催のイベントで、サイン会会場となる店舗でファンタジア文庫を購入した人に応募券が配布され、応募者の中から抽選で参加できるようになるというもの。丸戸史明先生の『冴えない彼女の育て方』はとらのあなでした。

なので、とらのあなでこれまで気になっていたけど読んでなかったシリーズ(『だから僕は、Hができない。 』とか)をオトナ買いしまくった次第。まあお陰で面白いシリーズとかにも出会えましたし、イベントに感謝です。

……しかし、WA2アニメ化を控えたこのタイミングで、丸戸先生がとらのあなかぁ……。leaf繋がりかとか邪推したくなるけど、たぶん関係ありませんよね。

心配なのは、知人・友人の中で何人かまだ当選通知が届いていない人がいるということ。一緒に行けたら良いのですが。

ともあれ当選していてよかったです。楽しんでくるぞ!

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《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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