ネットで「わかりやすい文章」というのが重宝されています。しかし、それについては思うところがある、というのが私の立場です。自分がわかりやすい文章を書けない負け惜しみのように思われるかもしれませんが、文章というのはわかりやすさゆえに損なわれるものもあると思っている。ただ、それなら文章にとって「わかりやすさ」とは何なのかを、自分なりに説明できないとまずいなぁとは常々思っていました。

そんな折、西林克彦『「わかる」のしくみ』(新曜社)という本を読みまして、納得させられるところがあった。今回の話はその本が元ネタです。

「わかる」ということには、何か絶対的な基準があるわけではありません。「布が破れたので、干し草の山が必要であった」という文章。これはおそらく、「わからない」はずです。しかし、そのわからなさは単語や文法が難しいからではないでしょう。「布」も「干し草」も、一般的にはことばとしてはかなり平易ですし、実物がイメージしづらい、ということもありません。

では、なぜ「わかりにくい」のか。それは、前半と後半の関連が、うまく行っていないことに由来します。「ので」という順接の接続詞が使われている以上、前半は後半の原因でなければなりません。しかし、この文章からではその関連を読みとることができないのです。

ところが、往々にして文章を書いている人は、頭の中でこの「ので」が繋がっている。そういうとき、「書き手にはわかるが、読み手にはわからない」文章ができあがるわけですね。耳の痛い話です。

たとえばこの文章が、「パラシュート」に関するものだったとしたらどうでしょうか。「(パラシュートの)布が破れたので、干し草が必要であった」。うん、これならわかります。いや、正確には何となく「わかる」気がします。

ここまで見てきたように、西林氏が指摘するのは、文章を「わかる」というのは、ある《統一的な文脈》のもとに、その文章のパーツが組みたてられているときに感じる感覚だ、ということです。

もう1つ例を挙げてみましょう(西林氏があげていたものですが)。

日本には梅雨がある。沖縄では五月から、関東では六月から梅雨の季節になり、一ヶ月の間、毎日のように雨が降る。しかし、北海道では梅雨はほとんど見られない。

この文章を読んで、「わからない」ことは無いでしょう。明確に「わかる」文章のはずです。しかし、たとえば「沖縄では梅雨入りが早く、関東では六月になるのはなぜ?」、「どうして梅雨は一ヶ月なの?」、「北海道に梅雨が来ないのはどうして?」のように、質問をされることで一転「わかりにくい」文章となります。

西林氏によれば、こうした問題は一般的に、「わかる」の深さの問題として扱われてきました。つまり、質問するまえの文章は底の浅い文章であり、質問に対して答えられるような内容を書いてこそ深い文章だ、というのです。しかし、本当にそういうことなのでしょうか?

「なぜ」を問うと、「どこまで問えばいいの?」ということが問題になります。正直言ってキリがありません。梅雨の原因は、日本の南にある小笠原高気圧の勢力拡大と、北方にある低気圧がぶつかることで生じる。それを踏まえれば、そりゃあまあ、深い文章を書くことができましょう。ですが、じゃあ「なぜ」気団(気圧)がぶつかると雨が降るのか。「なぜ」この時期に高気圧と低気圧が日本にやってくるのか。訊ねようと思えばいくらでも深くつっこむことはできるわけです。

最初の文章が底の浅い、「わかったつもり」になれるものでしかない、というなら、私たちはどこまで説明を繰り返せばいいのか。その限度は誰にもわかりません。誰かが「なぜ」を問わないところまでというのなら、学者にでもなるしかないでしょう。

そこで、西林氏の「《統一的な文脈》と文章のパーツの関係」という考えが活きてきます。これに基づけば、最初の文章もきちんと「わかる」文章になっていることが「わかる」はずです。ちょっと説明を付け加えると、最初の文章は「日本には梅雨がある」というテーマに対して、「沖縄」「関東」「北海道」という具体例を提示しています。それは一例として本文のテーマに適合しています。だから私たちは、この文章を「わかる」と感じるわけです。 

一方、質問によって明らかになるのは、この「わかる」をもっと多層化することができる、ということです。この場合、「日本には梅雨がある」→「地域によって梅雨の時期が違う」ということから、梅雨のメカニズムを明らかにできる、ということであって、最初の文章の「日本の梅雨」-「具体例」という関係の下に、もう一段重ね、「日本の梅雨」-「具体例」-「梅雨のメカニズム」という《統一的な文脈》を作りだしたのです。

このとき、最初に感じていた相互の連関が崩れ、新たに「わからない」感覚が生まれてきた、ということになります。 

こうした西林氏の議論を参考にすれば、「わかる」かどうかは、自分が「言いたいこと」、「知りたいこと」に対して過不足なく情報を提示し、それをうまく繋げているかどうか、ということ だと言うことができるでしょう。「母に怒られたので、私は買い物に行った」なら何となく「わかる」けれど、「犬に噛まれたので、私は泳ぎに行った」だと「わからない」。「わかる」というのは、内容のいわゆる深さであるとか、知識の正確さとは別の、文章の構造に由来する感覚である、ということです。

もっと言えば、自分が期待している《統一的な文脈》の連関の内容に、かなり左右されます。自分の中に、すんなり飲み込める《統一的な文脈》があらかじめ準備されていなければ、ある文章が「わからない」ということも起こりうる。そういう視点で言えば、ある文章が「わかる」か「わからない」かの責任は、書き手だけではなく読み手にも存在するものだ、ということができるでしょう。

わかりやすい書き方をしろ、わかりにくい文章だからダメだ……というのは、たしかに重要な指摘です。読者への目配せという意味でもそうですし、文章の「人気」を考えてもないがしろにはできないことです。しかし、表面的な文章のわかりやすさというのは、多くの場合単なる言葉遣いであったり、文脈の統一性であったりといった「形式問題」の枠に収まってしまう場合が多い。タイトルに、「「ただしい」わけではない」とつけたのは、「わかりやすさ」が内容と必ずしも結びつくわけではない、というくらいの意味だとお受け取りください。

形式を軽視して良いとは言いませんが、そのような形式問題ばかりを気にして文章を読んだり書いたりするのもどんなもんかなぁと思うのです。

あ、「わかる」かどうかとは別に、説得力が問題となることがあるは言うまでもありません。だた、今回はそこに踏み込む前に、キリのいいところで話を止めておこうと思います。