先日、「他人を怒らない人は、優しいのではなくて自分に自信がないだけだ」といった話が、職場でありまして。だから、われわれはもっと自分に自信を持って怒るべきなのだ、と。また、怒ることは相手への期待の裏返しでもあるから、実は怒るほうが優しいのだ、とか。つまり、しっかり怒ることができる人=自分のことをきっちりしていて、他人にも愛情を注げる人、ということのようです。

似たような言説というのはネットにもたくさんあり、たとえば「怒りは(優しさではなく)無関心」のような記事はしょっちゅう見かけます。たとえば下の記事とか。

 ▼「怒らない人って一見良い人そうに見えるけど、実際は最低の人間
 ▼「怒られているうちが華 愛の反対語は憎しみではなく無関心

いろいろ読んでみた限り、「怒りとは相手に「関心」があるから生じるのだ」というロジックは、マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心」という発言を敷衍したところから生じている模様。ただ、怒りについて何度かこのブログでも(旧DTIのほう)取り上げてきた通り、やっぱり私は、簡単にそういうものだとは言い切れないんじゃないかという立場をとりたい。 

社会学や児童心理学で昔教わったところによると、そういった学問の分野においては、「怒り」というのを問題解決行動の一貫と見なすようです。つまり、何らかの問題が発生して、それに対して解決の意欲があるからこそ「怒り」が生じる、というわけですね。好き・嫌いというレベルにしてしまうとちょっとショボいですが、これならわかります。たしかに、「怒り」は関心のあることにしか向けられないのでしょう。

しかし、それなら今度は、問題解決の手段として「怒り」が妥当かどうか、ということが問われなければならないと思います。痴漢はその対象への性的関心の表明ですが、痴漢をすべきだ、とは誰も言わないでしょう。それと同じように、 「怒る」ということが関心の表明であるということと、「怒る」ことが妥当な行為であるということとは、まったく別の話です。そして私は、関心の表明として「怒る」ということには、相当の覚悟が必要だと思うのです。

諸々のことを考えると、簡単には怒れないよね、ということを昔、高校の先生が言っていた。その先生は傍目にも非常にきっちりした人で、能力も高く人格者であり(いまは教頭になっておられます)、生徒・教師・PTAからの信頼も(たぶん。PTAは妄想です)厚かったのですが、そういう人を以ってなお、他人を怒るときには覚悟がいるという。「相手のために怒るならいいけど、自分の発散のために怒ったらダメだ」ともおっしゃっていました。

もちろん、怒らない理由というのが単純に怒ることで他人から嫌われるのが嫌だとか、そういうパターンもあるのでしょう。それは確かに、顔色を伺っているだけ、という感じがしますね。

しかし、怒らない人、あるいは怒れない人というのの中には、怒る前に自分のことや他人のことを考えてしまう人、というのも少なからずいると思う。それを「怒ることができるくらいきちんとしていれば問題ない」と切って捨てることもできるかもしれませんが、なかなかそんな完璧超人にはなれません。そりゃ、自分のことは完璧にこなしたうえで他人に厳しいならかっこもつきますよ。でも、自分のことさっぱりなのに他人にだけ厳しいとか、やっぱりかっこ悪いじゃないですか。怒りを露わにするまえに、どうしてもそういうところで歯止めがかかるってのはあるはず。

他人に対して「怒り」を表明するとき、良識ある人ならば、自分のことを棚に上げて……ということはなかなかできません。自分が誰かに同じような目を向けられた時に、果たしてその視線に耐えるだけのことをしてきただろうかとか、自分が発した非難がブーメランになって帰ってこないかとか、そういうことを考える。また、相手にどんな事情があったんだろう……というようなことも頭をよぎるでしょう。

そう考えると、軽々しく怒らない人というのは、自信がないとか無関心であるというよりは、やはり一定以上の思慮や自制心を持っているというふうに考えて良い気がしますし、長くお付き合いを続けていくならそういう人のほうがやりやすい気はします。

自制心強すぎて、付き合いが浅くなりがちっていうのはありますけどね。