言語学に「プロトタイプ意味論」という理論があるそうです。私は専門外なのでおそらくは不正確な言い方になりますが、要するにことばとその意味というのが1:1で対応するのではなく、ある典型例(プロトタイプ)からの距離を測るものさしにすぎない、という考えです。

たとえば、「歩く」とはなにか、「遊ぶ」とはなにかというふうに、あることばの定義をきちんと考える。自動車は「走って」いるけれど、「歩いて」いるとは言いません。その違いは何か――。こういうのは、ことばと意味が1:1対応しているという発想です。けれど、そんな「ことばの本質」みたいなものは存在しない、というのがプロトタイプ意味論です。私の説明だけでは不安なので、書籍から引用もしておきます。

カテゴリーの中心的な成員、つまりプロトタイプですが、人間が用いるカテゴリーというのは、これを中心として、類似性などによってプロトタイプと結び付けられた周辺的なメンバーによって構成されている。これが、認知言語学が提示する新たなカテゴリー観なんですね。「鳥」というカテゴリーは、たんなる鳥の集合ではなくて、鳥らしい鳥を中心としてペンギンやダチョウを周辺的なメンバーとする、そういうものとして捉えられることになります。  (『言語学の教室』 中公新書)

この本で、「嘘」について次のような話がありました。

(1)事実でないことを言う
(2)発話者自身が事実でないと思っていることを言う
(3)聞き手をだます意図がある

この3つすべてを満たすものが典型的な「嘘」であるとして、この3つの条件のうち、どれが欠けると「嘘」と言い難くなるか、という実験をしたそうです。ふつう、嘘とはなにかという「定義」を聞かれると「事実ではないことを言う」ことだ、という返事がかえってくるし、辞書にもそう書かれている。ところが、「プロトタイプ」としては、(1)の条件が抜けても「嘘」だと判断されることが多いという実験結果があるそうです。

たとえば、「このツボは室町時代の価値あるツボですよ」といってガラクタを売りつけたつもりだったけれど、実は本当に室町時代の貴重なツボだった、というのが(1)を除外した例でしょう。これは、事実を言ったけれどやっぱり「嘘」だというわけですね。

もちろん私たちはことばに厳密な意味を「持たせる」ことができるでしょうが、実際のコミュニケーションの中で使われていることばというのは、「60%嘘だけど40%は嘘じゃないと言えるんじゃないか……」みたいな判断が行われているかもしれない。

そうすると、そもそも単語単位でことばを考えるのではなく、文章の中におかれていることばを場面に応じて考える必要がある、ということになるのでしょうか。いろいろ面白いなぁと思って読んでいました。他にも言語論に関するいろいろな話が載っていて、「言語の創造性」の話なんかを読んでると、いろいろ考えてみたいことが出てきて時間がどんどん経ってしまった。

末尾には文献リストなんかもあり、自分でより奥深くに進みたい人にも良いと思います。興味深い本だったのでご紹介がてら。