最近、「マンネリ」に感じることが多くなりました。物語に対してもそうだし、論説系の文章を読んでも同じです。自分の書くものがマンネリなのはある種意図的にやってる部分もあるのでまあご愛嬌としても、やっぱりこれはちょっとイカンなぁと思うわけです。

マンネリの何がいかんのか。

1つは、何でもかんでも「前に見たやつだな」という風に考えてしまう自分の頭がいかん。もう1つは、マンネリであることに気づかない、あるいは気づいたとしても「まあそんなもんだよね」で済ませてしまう心がいかん。そんな風に思います。

もちろん、マンネリにも理由はあって、本当に同じようなことが繰り返されているだけ、という可能性はあります。別にマンネリを感じるというそれ自体が悪いわけではない。ただ、私の感じているマンネリというのは、単に私のサボり癖から来ているように思うのです。

これまた以前にちらっと書いた話ではありますが、ここ数年、インプットの時間というのががくっと減った。

 ▼「インプット不足」 (2013年4月14日の記事)

そのせいもあってか、目に入るものを自分の考えの中に押し込めて安心してしまう、ということが増えました。「どうせ~~ということだろう」みたいな。もっと言えば、そういう「押し込め」作業に必死になっている自分がいる。

理由は幾つかあって、たとえば、自分がそれなりに歳を重ねてきたこともあって、わからないものがあると恥ずかしい、みたいな感情を抱くようになった。とにかく何か「説明」ができれば分かった気にはなれるんですよね。また、今述べたことと重なるのですが、ツイッターとかブログとかで発信の機会が増えたため、見栄を張りたいみたいな気持ちがでてきた。見栄を張るというとイメージが悪いのですが、まあ「他の人がスッキリしないこと」に対する理解を、ある程度鮮やかに示すことができれば耳目を集めることができるし、それなりに意味のある発信になるという自己満足があるわけです。他にも、経験値が増えたためにどこかで見たような/聞いたようなことに出会う率が高くなったことなんかもあるでしょうか。

こういう状況を「マンネリ」と呼ぶのがただしいのかどうか、私にはわかりませんが、便宜的にそう呼ばせてください。で、こうなるとまあ後は半ば作業のようにいろんなことができてしまうんですよね。ちょっと手を変え品を変えすれば、新しいことを言っているような気持ちになれるし、外からもそれらしく見えるように誤魔化すことはできる。

でも、最近、昔の自分の書いたもの(ブログとかレビューにかぎらず)を読んで、「あかーん」と思いました。某白髪鬼風に言えば、「まるで成長していない」。

marude

もちろん、同じ問題意識を持ち続けて掘り下げているというのなら良いのですが、全然掘ってる感じがしない。同じ問題を立てて、同じ結論を壊れたレコードのように繰り返しているだけです。1年前、インプットが不足しているみたいなことを言っていたにもかかわらずごらんの有様。むしろ、昔のほうが真剣に問題に対して格闘していた跡が見えるぶん、気持ちのいい文章になってる気がする。

結局、どうすればよかったのか。あるいはこれからどうすれば良いのか。

凝り固まった思考回路を柔らかくするのはなかなか難しく、やはり自然に任せるだけでは限界があるだろうと思います。打開策としてはやはり、自分とは違う考え方、自分が「えっ?」と思う意見について真剣に考えてみるとか、そういうことしかないのかもしれません。

知識を取り入れようとしたところで下手をすればまた「自分の中」で解決してしまいかねない。また、論争的な場にのこのこ出かけてしまうと、どうしても「自分の正しさ」を主張するために相手のあら探しに終始してしまうかもしれない。何か本を読むにしても議論をするにしても、慎重に、敢えて自分とは違う考えにコミットするくらいのつもりで向かったほうがいいのかな、と。そんなことを考えています。

ブログは「余技」なのでそこまで気にしなくても、という人もいるし、また実際その通りだとは思うのですが(プロのブロガーの方は別として)、逆にそういう気軽に始められるところから少しずつ挑戦してみても良いのかもしれません。そうやっていれば、いつかベアトリーチェが私を天界に導いてくれるのでしょうか。

まあ、とはいえあれです。今すぐは無理だし、来年から本気だそう。