巷では、「ノートが綺麗な生徒は成績も良い」みたいなことを言って売り出しているノートなんぞもございますが、多くの人はこれを見て、「ホントかよ?」と思うのではないでしょうか。あるいはもっとはっきりと、「嘘だッ!!」と。

実際、私の学生時代の経験から言っても、またその後関わった教育産業時代の経験から言っても、ノートの見栄えと成績に相関関係は無いような気がします。古代文字だかミミズがのたうち回ってるんだかわからないような文字で、メモ程度のものしかとらないのに成績が良い学生はかなりいますし、それ以上に、やたら綺麗なノートをとるけれどいまいち成績がパッとしない生徒がいる。

確かに、ノートにするということは自らの思考を整理し、わかりやすい形に整えるということです。だから、ノートをきちんととれる人というのは成績が良い、と言いたくなるのは理解できる。ある意味正しいことであるとも思います。しかし、ここで問題なのは「ノートをきちんととる」ことが、「ノートを綺麗にとる」ことと、必ずしも一致しないということです。

「きちんと」というのはおそらく、ノートをとる本人にとって意味のある、わかりやすい形で、ということです。一方「綺麗に」というのは、第三者から見てわかりやすいように、ということ。非常に乱暴に区別すれば、前者は理解力の問題であり、後者は説明能力の問題です。

ノートは自分にとっての思考の整理だから、「自分にだけ」わかれば良い。そんな風に考える人の作ったノートは、おそらく他人から見れば見づらいし、「よくわからない」ことが書いてある。一方、ノートを他人に見せたり、あるいは自分がしばらくたってから見返す必要があるから、忘れても大丈夫なように形を整えておく……という、そういう人の作るノートというのは「リアルタイムの思考」を離れ他人の目を意識した、ぱっと見理解しやすいものになるのではないでしょうか。

前者が掘り下げ型の思考、後者が俯瞰型の思考であると、そんな風に言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、得意な思考の形態が異なっているのではないかと、私は思っています。

ただ、根本的な問題として、ノートをとるのが下手な生徒というのはいます。

ものすごく綺麗にノートをとっていても、そのことに必死になってしまったり(特に女の子に多いのですが、カラフルなデコレーションや細かいレイアウトどりに躍起になって、内容をさっぱり覚えずにノートだけとっている)、あるいは自分でその時はわかっているつもりで箇条書き風のメモを書いているけれど、あとになって見直すと何を書いているか理解できずに往生したり(ズボラな男子学生に多いでしょうか)。

また、そもそもの問題として中学や高校では(最近では残念なことに「大学でも」と言ったほうが良さそうです)、居眠りが多発します。ノートをとるという作業をしていると、かなり居眠りの率が落ちますから、それを防ぐ意味でも「ノートをとれ」というふうに言うのは、一定の効果が見込めることでしょう。

また、言うまでもなく「情報の取捨選択」をするのにもノートは有効です。授業を聴きながら、本を読みながら、「ここは大事だな」「ここはメモしておこう」と思ったところを記録する。極めて有意義なトレーニングです。

そういった場合に、いわば学習スキルの一つとしてノートのとりかたハウツーを言い立てる意味はある。意味はあるどころか、かなり効果的だと思う。それなのに、「ノートが綺麗な生徒は成績が良い」のような不正確でいい加減な言い方をしてしまうと、多くの人にその「良さ」は伝わらず、勿体無いんじゃないかなぁ。

なんか手帳の書き方みたいなのでも似たような雰囲気を感じるんですけど。

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