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 最近よく耳にすることだが、もはや画家は確固とした存在理由を失い、これからはアイデアマンかデザイナーとして生きる道しか残されていない、と言われる。本当にそうだろうか? そんなことを言われるのも決して故のないことではないが、複雑な今日の思想状況が、問題をますますややっこしいところへ導いているような気もする。画家のみならず、あらゆる表現者の手からは、確かに従来後生大事にしていた何かが、抜け落ちつつある。テーマの喪失だの、コンセプトとマテリアルの分離だの、意味するものと意味されるものとの関係の崩壊だの、という出来事の背景にある何か――。そしてその何かを表現者の手から奪いつつ、表現者を別な次元に招き入れようとする使者は、恐らく近代技術というコンテクストそのものであるように思う。

[中略]

 さて、以上のような場合の画家および絵画は、果たして何を指しているのだろうか。いろいろなことを考えることも出来るが、なかでも画家は、描くべき対象なり理念を明確に捉え、そのコンセプトをなんらかのカンバスなりマテリアルに、確実に転写実現する者だということ。そして絵画とは、画家に酔って確認されたコンセプトが、ストレートに明瞭な図柄で示された表面である、といった意味合いがなにより大きく浮び上がってくる。ここでは、表現する前からすでに絵画が出来上がっていて、他の要素の作用する余地のないことが分かる。別な言葉で言えば、表現すべきコンセプトが先に完成されていなければ、絵画は成立しないというわけだろう。美術に限らず、近代の表現のあり方に見られるのは、まさしく自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であることは、再言するまでもない。

(李禹煥『余白の芸術』みすず書房)
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李禹煥の言う「近代の表現」思想、すなわち表現者は表現内容を完全に表現に込めているという考えは、同時にそのような表現を味わう者は、表現者の意図を読み取らねばならないという信仰を生み出しました。

前後関係で言えば読者論より前に表現論があった、というのは重要なことだと思います。

表現者は何を表現するのか。自らの思想、あるいは存在そのものを表現する。なぜなら表現とは、その表現者の身体によって直接行われ、その限りにおいて作品とは、決して真似ることのできない一回性を背負う。だから、味わう者はその作品を通して、作者に触れることができるし触れなければならない、というわけです。

こうした「近代の表現」への信仰は、その後さまざまな批判にさらされ乗り越えられ、いまではかなりナイーブ(乱暴、の意味のほう)なことが言われる局面でしか見かけなくなってきました。

ただ、その乗り越え方にも何種類かある。たとえば李氏の場合、作者というのは周囲の環境との相互作用の中で作品を作るから、作者が完全にコントロールして作品に意図を込めることなどできない、ということを言います。作品は作者の奴隷ではない、というわけですね。そして、作品というのは作者の理念が実現されたものではなく、作者がそこで生きている行為そのものだ、というような結論を導いています。

李氏の立場というのは、たしかに作品と作者(の意図、理念)との間の繋がりを断ち切り、その意味で「近代の表現」論と一線を画しています。しかし、作品に刻みつけられた一回性のようなものは抜き難く存在してしまう。これを不徹底だ、という人もいるでしょう。

文学におけるテクスト論であったりというのは、作品の一回性をも抹消するような形で進行しました。そこにあるのはただの文字列であり、読者はそれを自由に読むことが許されている。もっと言えば、作者が誰であってどういう背景や意図を持っていたかなどということは、一切読書行為には関係ない――。

私などは、こういう行き過ぎたテクスト論というのは作品を読者の奴隷にしてしまう行為だと思ってしまいますが、作者という呪縛から読者を解き放つという意味で果たした役割は少なくなかったでしょう。

シミュラークルの話なんかもそうですが、結局こういう「アウラの喪失」みたいな話ってデジタルの手法(デジタル、というと近代っぽいですが)と分かちがたく結びついているところがあります。特に、ワープロやコピー機の類の普及は、作品から「一回性」を急速に奪っていった。

だから、表現することや解釈することについて原理的に何かを考えるのであれば、「デジタル」とはそもそも何かということを改めて考えなおすのが重要ではないかなと思って最近いろいろと読んだり書いたりしてるですが、どうもまだまとまりません。

もう少しまとまったら、また何か書こうかと思っています。

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