早苗さんのSR、ケツをこっちに向けて誘ってるようにしか見えないなぁ……「ヤリすぎお姉さん」かぁ……なんてエロゲー脳的な妄想をふくらませる毎日を送っております、OYOYOです。

74bd7b37.jpg

アイドルサバイバル・秋の大運動会 上位報酬SR

あ、今回のお話はモバマスとはまったく関係ありません。単にこの、ケツを(正確には腰を)つきだしたポーズを見ていてふと、「謝る前にケツを出せ」という単語を思い出しまして。ご存知の方も多いのではないでしょうか。昔、早瀬悠一郎(ゆーいち)氏が運営されていたニュース系サイトです。

ネタと精度の高い分析とエロが入り乱れるサイト(ブログ)で、更新頻度も高く、読み応えバッチリ。ラグナロクとかドルアーガのエロ絵にお世話になりつつ、世相を斬る系の記事を楽しみにしていました。昨今の、他の人の意見をあつめて煽る系のまとめサイトと違い、一次資料に対して独自の調査や解釈を行ったうえで、その結果といわゆる世論とのズレに切り込んでいくタイプの、「モノを考えたくなる」ブログでした。

ただ、私が読み始めたのはかなり末期(悪い意味はありません。単に時期の話)だったころで、1年ほどで更新頻度が鈍り、結局閉鎖というか自然消滅のような形になり……。非常に残念だったのを覚えています。

その後「謝る前にケツを出せ 避難所(下書き用」のほうにぼつぼつ出てくる情報を不定期に見ていたのですが、「2010-05-03 突然閉鎖した理由ですが、」という記事を読んだ時、ふーむと考えさせられました。

理由を言うと、ゆーいち氏がここでパロっているのが、赤木しげるが自殺(安楽死的な)を選ぶ直前に原田に言ったセリフ(福本伸行『天』)だったせいで、「自殺」を連想したから。何か、「消えていく理由」を書き残すという行為の中に、「束縛から逃れたい」という思いと「消えたくない」という思いの交差を見たような気がして、遺書のように思えたんですね。実際は、そのあとTwitterはじめられてるので活動再開宣言に近いものだったんでしょうけど。

もちろん、実際のゆーいち氏がどうこうというのではありません。ただ、ネット上の人格が消えることを、「死ぬ」と比喩的に表した場合の話です。んで、こういうネット空間から消えるというのはどういうことなのかなぁ。ここに書いてあるように、自由になるということなのだろうか、と。

結局のところ、人は生きている限り何らかの「場」に縛られる存在ですから、完全に「自由」になることなどありえない。してみると、ブッダが「生きることは「苦」(思い通りにならないとか自由ではない、というような意味)である」と言ったのは、見事な把握であるようにも思われます。

ネットゲーの「引退」にしろ、ツイッターのアカウントの「消去」にしろ、ある「場」に所属することによって必然的に発生するしがらみから「自由」になろうとしたとき、究極的に人は、存在そのものを「場」から消してしまうしかないのかもしれません。

しかし、単に自分がいなくなるだけで、存在というのは消えるのでしょうか。

ネットゲーの引退するする詐欺(※引退する/したと宣言して、しばらくすると「復帰しました」と戻ってくること。「詐欺」とついているけどそこまで悪い意味はありません。ただ、廃人ほどその可能性が高いので揶揄する意味合いはありそうです)ではありませんが、存在の痕跡が残っていると私たちはそこに戻ってくることができる(ただ、痕跡が新たな束縛となり、再び場の重力に支配されてしまいますが)。

そう考えると、痕跡まるごと消すなんてとてもできない(誰かの記憶とかには残る)から、ネット上で完全に「死」ぬというのはなかなか難しいかもしれません。発信主体がいなくなっても、亡霊は残り続けているのですから。


このエントリーをはてなブックマークに追加