本日付けのこちらの記事を読んで絶句しました。

 ▼「国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に」(毎日新聞)

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国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に
毎日新聞 2013年10月11日 07時00分(最終更新 10月11日 09時33分)

 政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。

 同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。

 同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。

 下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。

 私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。

 同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。

【福田隆、三木陽介】

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「毎日新聞の単独インタビュー」で他に比較項が無いため、どの程度正確な内容が書かれているのか定かではありません。しかし、これが本当ならまずいだろうとは思う。

ここで想定されている「廃止」されるべき二次試験がどういうものか具体的にわからないまま書いているから見当はずれなことを言うかもしれませんが、一応国公立の二次試験というのは、センター試験という共通試験では問いきれないような少し突っ込んだ内容を、各大学が自分たちの要求するレベルで改めて問いなおす試験であり、いまそれを「似たようなことしかやってないから」という理由で廃止しようとしている(基礎的な学力の、グレードが高い部分のチェックをなしにしようとしている)のだという前提で話を進めることにいたします。

私は、教育行政に関しては不案内なドシロウトです。しかし、高校・大学と高等教育を受けた身として(学んだことが高等かどうかはともかく、義務教育以上に進学したという意味です)、また現状でも少し教育に関わりのある職場にいる身としては、言いたいこともある。

学力一辺倒批判はもっともです。人物評価、超大事。1発勝負をやめるというのもたいへん結構なことだと存じます。

しかし、だからといって、これまでの学習内容からレベルを下げる必要は無いでしょう。

考える力を重視したいというのは「ゆとり教育」の頃から言われていて、その基本方針自体は私も支持します。しかし、「暗記・記憶だけでなく」というのが「暗記・記憶をやめて」みたいなふうになるのは、どうしてなんでしょうね。「2次の学力試験」を廃止する必要あるんでしょうか。

考える力は確かに大切です。しかし、その力は自然に身につくものではない。学問というのは基礎知識の積み重ねの上に成り立っているものだからです。知識力と思考力とは、決して切り離されたものではない。「学」をことさらに重視した思想家である孔子も言っています。「学而不思则罔。思而不学则殆。」(学びて思わざれば則ちくらし。思いて学ばざれば、則ちあやうし ※学ぶだけで考えなければものごとをハッキリ理解することはできないし、考えるばかりで学ぶことをしなければバカなことを考えてしまう)と。

本を読むにしても、ものを考えるにしても、考えを語るにしても、基本的な知識というのは重要です。さまざまな知識があってはじめて、ものごとを、世界をさまざまな角度から見ることができる。知識の不足はそのまま視野の狭窄に繋がっています。自分の考えを比較することができないのですから。

そして、その「知識」を幅広く身に付けるには、基本的に暗記しかありません。いま暗記教育が役に立たないとかなんだかんだ言っているのは、暗記の問題でも学生の問題でもなく、教える側の問題でしょう。知識は、どれだけあっても多すぎて困るということは無いはずなのに問題が発生しているのなら、教える側が、知識を使いこなすことを伝えられていないと考えるのが自然です。

知識の量を減らせば、使いこなすのは楽になるでしょう。しかし、それに何の意味があるのか。人生の若い時期、一番頭も働いて吸収力もある(と思われる)高校~大学の時期を、無為に過ごす方針に拍車をかけるだけではないのかと思います。

もちろん、勉強(学問)だけが人生ではないというのはその通りです。しかし、それならそもそも高等教育を受けなければ良いだけの話。ここで話題となっているのは、その教育を受け、学問の道へ進みたい(将来企業に就職するにしても)という人が自主的に行く先である「大学」が、どういうスタンスで学生を待ち受けるかという話ですから、勉強(学問)に価値がない等の意見はいったん却下させてください。それをしたいなら、入試制度がどうこうではなくて大学を潰したほうが早い。

専門的な学業の道へ進むなら、「知識の量」というのはもっと重要になってきます。

たとえば思想というのは、過去の人がどんなことを言っていて、何を問題にしていたかという理解の積み重ねのうえに成り立っています。それを学ぶところから、より深い考えができるようになる。自分一人でものを考えるのではなくて、先人たちと対話し、教えを請い、時に争いながら思索を深めていくものです。いきなり自分だけで考えてみたって、既に昔誰かが言っていたことを繰り返すのが関の山。別に個人の趣味の範囲ならそれが悪いわけではありませんが、「学問」という体系に寄与することにはなりません。

これは、文系でも理系でもそうじゃないのかな……。「論文」という形で積み上げられる知のほとんどが、先行研究の参照のうえに成り立っているということは、学ぶという作業の基本に「積み重ね」と「参照」があることを物語っているようにも思われます。そしてそのような「積み重ね」と「参照」の結晶を、私たちは「知識」というのではなかったのでしょうか。

毎日の記事にある「知識偏重」批判というのが、どのようなものを意識しているのか、具体的にはわかりません。しかし、「偏重」しているから減らせば良いと言わんばかりの結論案を見ていると、暗澹たる思いがする。問題は「偏重」していることよりもむしろ、蓄えた知識を使いこなす技術を教えられないことであり、だとすればやるべきことは、学ぶ知識の量を減らすことではなく活かす方法を身につけさせることであるはずです。

だいたい、知識もなしにフランスのバカロレアみたいな問題を「考える」ことができるわけ無いじゃないですか……(「解ける」とは言いません。解くものでもないでしょうし)。

詰め込み教育をやれば良いとは思いません。けれど、学ぶということの基本的な作業性から目を背け、いきなり応用的なことばかりやろうとする昨今の「教育改革」の風潮というのは、私はどうも好きになれない。好きではないというのみならず、間違っていると思います。

こういう教育を続けていると、将来若者を「教える立場」に立つ人たちが、学の本質的なところに触れないままで高等教育を終えてしまう可能性がある。そうなったら、学ぶことの基本を、だれが日本社会の中に伝え残して行くのでしょう。大げさな話ではなく、日本の教育は自壊の危機に瀕しているのではないでしょうか。私にはこういった「改革」の動きが、教育を緩慢に殺そうとする動きに思えてなりません。

ああ、文科省が言ってるんだったら「殺そうとする」はおかしいですね。「自殺」のが良いか。


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