わかりやすさを考えると、ぶっちゃけあんまり良いタイトルだとは思わないのですが、他に適当なのも思いつかなかったので。

「パーナさん事件」なるものに関して色々意見も出揃ってきたし、そろそろいい具合に落ち着いてきたので情報をあつめていまして。その中で、次の記事を読みました。

『パーナさん事件』は現代の口裂け女だ」(「九十九式」2013年7月29日)

「パーナさん事件」そのものについてはまだ考えがまとまっていませんので言及を避けるとして、非常に印象に残ったのが、結びの部分。ちょっと引用させていただきます。

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かくして、現代は「都市伝説が一晩で生まれる時代」となった。この拡散に加担した「パーナさん」達は、動機がイタズラや嫌がらせではなく、彼女たちなりの善意と義憤だから始末におえない。「 まわさないあなたも加害者ですよ。」という不幸の手紙のような脅し文句のついたRTもあった。

警備員の写真を流して誹謗中傷をしたり、青山学院開放という嘘を拡散したりするのは、紛れもなく「悪事」なのだが、彼女たちは自分たちが加害者になっている自覚もないし、おそらく少なからぬ「パーナさん」たちは、これらのデマをデマと気づくことなく、「東京で私たちの仲間がひどい目に遭った」と信じたまま日常生活に戻っていくのだろう。暗澹たる気持ちになる。


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さらっと書いてありますが、「動機がイタズラや嫌がらせではなく、彼女たちなりの善意と義憤だから始末におえない」というのは、まことにその通りだと思う。これは「パーナさん事件」だけにとどまらない、私たちの社会に関する示唆に富んだ問題でしょう。

一般に――はどうだか知りませんが、少なくとも私にとっては、「悪意」は余り怖くない。いや、悪意それ自体は自分に向けられると鬱陶しいし、イヤですよ。ただ、「善意」に比べると薄気味悪さのようなものは感じません。

ストーカーなんかを想像してみると良いでしょうか。悪意を持ってつけ狙ってくる相手より、「向こうは善意のつもりなんだけどこっちからするととんでもない迷惑」みたいなパターンのほうが、私は怖いです。で、その怖さというのは、「何をされるかわからない」という恐怖だと思う。

悪意は、それなりに読めます。もちろんこちらの想定外の、とんでもないことをしてくる可能性というのはありますが、それが悪意ならなんとなく前兆がわかる場合が多い。しかし、善意の場合、まったく読めない。向こうが「善かれ」と思ってやっていることが、こっちには大迷惑なわけですから。

これはまあ、いろんな解釈ができるとは思いますが、今回私が言いたいのは「認識のズレ」ということです。上のようなシチュエーションで悪意に薄気味悪さを感じなくて済むのは、相手も自分も、ある行為を「悪」だという共通認識が成り立っているからです。言い換えれば、自分と相手は同じ土俵・同じ社会の中にいる。

一方、相手にとっての善意が自分への悪意として働くというのは、自分と相手とが、共通の文脈の中にいない、ということです。これが、恐ろしい。気味が悪い。理解できないもの、得体のしれないものを感じ取った時の不安――それはまるで幽霊を目の当たりに見ているかのような――を抱きます。「言ってもわからない」というのが、単なる制度的・世代的な食い違い、あるいは理解不足や能力不足ではなく、根本的に何か違う世界にいるのではないか。そんなふうに見えてしまう。

気取ったことばでいえば、こういうのもまた「他者」(もちろん、大文字の「他者」)に対する根源的な不安、ということなのでしょうか。いや、それは言い過ぎかな。ただ、ある種の「他者」性ははらんでいると思う。日常の中にふと顔を覗かせるような類のものではないにせよ、「うっ」と立ち止まりたくなる。

「九十九式」の書き手の方は、「パーナさん事件」を引き起こした彼女らのことを「始末におえない」と言い、最後に「暗澹たる気持ち」を表明しておられますが、これはある意味、自分たちのロジックに「彼女たち」を引き入れようとする試みだと言えましょう。そこからはみ出るものを、「足りないもの」「劣ったもの」と位置づけることで、自分たちの体系の中に組み入れる。

そのようにしてしまえば、恐らく私が感じているような不安は、消える。消えるのですが、それで良いのか、という疑問も残ります。彼女らに対して感じている違和感を雲散霧消させるということは、彼女らに対する――ひいては(大文字の)「他者」一般に対する冒涜ではないのか。

むろん、「他者」をそのままに受け入れるなんてのはどだいムリな話ですし、現実問題として私たちは「他者」と何らかのかたちで付き合いながら社会をまわしていかなくてはなりませんから、「始末におえない」のような取込み方をするのが適切なのだろう、というのはわかります。

しかし、そうやって無理やり押さえつけようとしていたものが大きな勢力となったとき、社会には軋みが生じ、繕うことのできないほころびになっていく、というのもまた、歴史が証明する事実です。「パーナさん」たちの形成するアジールがそうであるかはひとまず措くとしても、私たちは「見えないもの」の怖さに対して、もう少し敏感であっても良いのかもしれません。

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