先日まとめサイト各所にも取り上げられていましたけれど、漫画版『こころ』に載っていたというこのシーン。

Kの墓
Kの墓。

ないわ(笑)。

え~。これ、コラとかじゃなくてほんとにこういう表現なんですかね……。どこぞのスーパードクターの墓かと思いましたよ……。

漫画版『こころ』って幾つか出てると思うのですが、これどの本なんでしょう。たぶん初出ではないかと思われるこちらのツイートには(各種まとめサイトが掲載している掲載元のスレ(こちら)より、2ヶ月ほど早い)、特に言及も無く。


線の感じからすると少女漫画っぽい? 榎本ナリコ氏のバージョンとか、イースト・プレスの「漫画で読破」シリーズのとかあるので、ちょっとわかりません。ネタにしたし、機会を見つけて調べてみます。

いやあ、それにしてもシュールです。

「K」が本名かどうか以前に、墓石の表面に「○○家之墓」や法名ではなく、俗名をババーンと載せるとはまた斬新な。しかもそれが「K」ですからね。全方向ノーガードすぎてツッコミが追いつきません。

というか、真面目に考えてこういう表現(つまり「K」が固有名であるかのような表現)をしてしまうことは、やっぱり問題含みの気がします。漱石の『こゝろ』という作品に、固有名詞がほとんど出てこない(「先生」の奥さんは「静」、お母さんは「お光」という名前がありますが)。「語り手」である「私」は、作品冒頭で、こう言っています。

「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」

これは、「遺書」において親友を「K」という「よそよそしい頭文字」で呼ぶ「先生」との対比がとられているわけで、「K」という呼び方を「先生」がしているときには、死した親友とすら距離をとるある種の突き放した「よそよそしさ」が含まれていなければならないのだと思います。

語り手と、語り手の語る内容と、事実の関係というのは、小説が持つひとつの特殊な「技法」であって、漫画や映像にするのは凄く難しい。そもそも漫画だと、《語り手》と《語られる私》とをわけるのも困難ですしね。そのあたりをどう処理するかが腕の見せ所。果たしてこれは、上手くいっているや否や。

まあ、「先生」の悲嘆と悔恨の頭上に「K」という文字が佇んでいるこの漫画版の図柄は、「先生」自身の感情と理性の乖離を用言すると同時に、そのシュールさゆえに私たちをかえって物語への没入から引き離し、「よそよそしさ」を描きとっている……と言えなくもないのかもしれませんが、さすがにネタ臭が漂いすぎて、いろいろ台無しの気がする。単に現実離れした印象を与える効果にしかなってないような。そのへんは受け取り方次第なのかもしれませんけど。

Kの位牌
Kの位牌。

やっぱりないわ~(笑)。

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