「 二人でいるときの沈黙は、やはり気になった。あまりに沈黙が長いと、なんだか申し訳なくなってしまう。食事が終わって短い会話を交わしたあと、沈黙に耐えられなくなると、わたしは黙って席をはずすか、テレビに集中しているふうに目を凝らすか、横たわって眠いふりなどをする。」

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青山七恵『ひとり日和』、序盤のワンシーンから引用しました。うまいなぁ、と思う。文章が巧いかとかそういうことはわからないけれど、心情描写として、とても丁寧に見える。

ここでの「わたし」の気持ちを説明せよ――そんな問題が「現代文」で出たとしたら、私はお腹を抱えて笑うかもしれません。無粋極まりない。だって、説明できないから、こんなにも丁寧に描いているわけでしょうに。

「申し訳ない」というのは、「わたし」の気持ちではありません。いや、もちろん多少思っていることは思っているのでしょうが、気持ちのすべてではない。また、あくまでこの時の相手(下宿先のおばあさん)に対する感情であって、「わたし」が「わたし」自身に向ける真情としてはふさわしくない。

しかし、「所在ない」だとか「居心地が悪い」のように、何か感情をあらわすことばで言いとってみたところで、引用した上の文章で描かれている感情に、届くとは到底思えません。

以前このブログで、心情描写が直接的すぎる物語の話をしましたが、直接的な感情語というのは、ことばの力が強すぎて、こういう繊細で微妙な心の動きを表現しようとしても難しい。

ここで描かれている「わたし」の感情は、強くてハッキリとしたことばによる規定をすりぬけてしまうようなものだし、そもそも感情というのは本来そういう性質のものでしょう。

ためしにもうひとつ、「わたし」が失恋するシーンを同じく『ひとり日和』から抜いてみます。

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「恋の終わりは予想以上にあっけなかった。わたしが待っていた自然の流れというのは、こういうことなのだろう。言ってはみたが、よく考えてみれば言葉に出すほど最悪でもなかった。悲しくもなければ、憎らしくもない。どちらかといえば、期末試験が終わった帰り道のような気分だ。」

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「悲しい」や「憎らしい」といったできあいを拒否して選ばれたことばには、解放感や倦怠感、諦め、後悔……そんなさまざまなニュアンスが込められている。「期末試験が終わった帰り道のような」ということばには、そんな諸々を想像させる力があります。

感情を、テンプレートで乱暴にきりとってごまかさず、微細なニュアンスを少しでもすくい取る。そういう表現のほうが、読んでいて面白いなぁと私は思います。もちろん、娯楽としてはシンプルなのが良い時もありますけどね。

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