以前にも書きましたが私は狭量で、しかも結構好き嫌いが激しいタチです。たとえばですが、若かりし頃は嫌いな相手、いけすかないヤツがちやほやされてるのを見たりすると、それだけでイライラした。人間だけじゃなくて作品もそう。いまはだいぶ薄れたものの、かつては気に入らない作品が褒めそやされているのを見ると、わけもなくけなしたくなって、まず否定から入ったりしたものでした。お恥ずかしい話です。

嫌いな云々というのは、必ずしも意見が対立する人であるとか直接被害を受けた人というわけではなくて、なんとなくそりがあわない人であるとか、他の人に対して何か酷いことをしているのを見たとか、そういう場合も入ります。作品であれば、正直なところ結構楽しんだにもかかわらず、この作品がもてはやされるのは許せん! みたいなこともあった。

嫉妬ではないですよ。別に自分と比較して……とかじゃないので。もちろん自分と直接の利害関係が発生するとストレスは倍増しますが、そういうのとは無関係に成立つ話だと思って下さい。

ようするに、たいした理由もなく「直観的に」イヤだというのが抑えられないという話。我がことながら漂う小物臭がハンパない。でも、ありませんかそういうの。「あいつ(あれ)が評価されるなんて、世の中間違ってる……!」みたいに思っちゃうこと。

私であれば、「ああ、これはムリ」と思う人がバイト先にいたことがあります。とにかく差別というか好き嫌いが激しくて、気に入る/気に入らないでえこひいきをするし、自分の価値観を絶対だと思って押し付けて他人の言うこと聞かないし、セクショナリズムを発揮して身内囲いを始めるし……。更に上のスタッフに気に入られて重用されていたんですが、「この人が出世すんのか」と思うと、なんかもうやってられなかった。自分の直属の上司ではなかったけど、ぶっちゃけ呪われろ! くらいのことを考えたこともあります。

そして、現実問題こういう考えを持っていまうと、精神衛生上あんまりよくありません。力づくでその相手をねじ伏せることが出来たら(実際に権力を使って潰すとか)話は早いのですが、それがなかなかそうもいかない。

いかないからどうするかというと、「理論武装」をはじめます。かくかくしかじかの理由があるからあの人(作品)はけしからん。自分の批判は正当である……という感じですね。

こうして、嫌いなことに理屈をつけていくにつけ、自分がヤなヤツになってるなぁと思ったりもする。ですが、よくよく考えてみると、これは単に攻撃のためにあとづけの理論を捏造しているというだけのものではないのかもしれません。おそらく、自分が抱いた「いけすかない」という直観が何処から来たモノなのか、それを辿って見つめなおすプロセスでもあります。

嫌いだから理論ができるのか、先に見えない自分の中の理論があって嫌いになるのか。鶏が先か卵が先かみたいな話だけど、そういう機会(大嫌いなもの、許しがたいものに出会う機会)が無いと、自分の内に潜むものは見えてこないのかもしれません。

「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ」とは、以前にもとりあげた『ハンター×ハンター』ミトさんのセリフですが、これは自分についても言えることでしょう。自分が何に怒り、何を嫌悪するかというところから自分が見えてくる。そんなこともある。だから存分に嫌えというのではなくて、そういう「自分」に出くわした時に、それとじっと向き合うことが大事かもしれないなあと、最近はそんなことを思っています。

もうちょっと膨らませる話にしようかと考えていたのですが、ちょっと収拾がつかなくなりそうだったので、本日はこの辺で。好き嫌い、怒りから批評の話にもっていくのは、また今度にいたします。それでは、また明日。

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