今日、路上タバコが禁止されている某区の道を歩いていると、犬の散歩をさせながらタバコをくわえ、それを火も消さずに道に棄てている若いお兄さんを見かけました。で、それを見て思ったわけです。「こういう人がいるから、喫煙する人は肩身の狭い思いをするんだろうなぁ……」と。

私は、タバコを吸いません。しかし、嫌煙家というわけではない。飲み会の席ではタバコを吸う人の隣にいても問題ないし、友人や家族には愛煙家どころか、チェーンスモーカーがたくさんいます。また、身も蓋もない話ですが、タバコで税金が入るなら、国にとって望ましいことだとも思っている。

しかし、そういう中立的な私をして、先ほどのお兄さんの行為というのは、眉をひそめしむるものがあった。

歩きタバコの実害というのが、どれほどのものであるか、私にはハッキリとはわかりません。赤ちゃんや子どもを連れている人からすれば、「ご遠慮いただきたい」行為なのでしょうが、重要なのは「実害」よりもむしろ、自治体が「路上喫煙禁止条例」を定めているということ。つまり、路上タバコを吸う人は、地域の公共性を損なっているということのほうです。

喫煙者は現在、とかく肩身が狭い。教育機関などでは、もう殆どの場所で喫煙が許されなくなりましたし、公共機関でも同じです。そんな中、すすんで条例を破るというのは、喫煙者を目の敵にする人に、格好の攻撃材料を与えてしまう。条例を知らなかったというのなら、そのこと自体が甘いと言わざるを得ません。

思うに、愛煙家にとって最大の「敵」は、タバコを忌み嫌う嫌煙家よりも、歩きタバコを平然と行うような「身内」でしょう。彼らはタバコを吸う人のイメージを損ない、かつ敵に攻撃材料を提供する。嫌煙家は放っておいても攻撃してきますが、中立に立っているような人々も敵に回る可能性が増えるわけです。

タバコに関しては、嫌煙運動家の中にも「おいおい、それはどうなの?」という人がいて、以前喫煙所に乗り込んできて喫煙者を罵倒していった「反対運動家」の女性がおられました。これはこれで、ルールに基づいて生活している人を弾劾しようというのですから、お話にならない。

タバコに限らず、多くの「論争」において、一番やっかいなのはしつこい敵よりも、足を引っ張る味方である、というのは、古来より通例だったようです。中国の史書を紐解いてみれば、儒の足を引っ張ったのは同じ儒者でした。目をカナンの地に向ければ、イエスの登場もまた、そうした足の引っ張り合いの帰結だった。そんなふうに見ることもできるでしょうか。

現代でも、たとえば「原発反対」や「非実在青少年規制反対」運動で、最も「厄介」なのは、自分たちの立場を強弁するためにデマを吹聴したり、誤った理解に基づいて派手なパフォーマンスをするような人たちでしょう。

戦に臨むにあたっては、まず内憂を片付けることが肝心なのかもしれません。


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