今日電車に乗っていたら、乗ってきたおじいさんに席を譲ろうとした若いお姉さんに、おじいさんが「いらんよ、気ぃ使わんで良い」といって、着席を拒否するという事案が発生しました。

立ち上がってしまっていたお姉さんは、何というか非常に居場所が無い感じ。おじいさんも断った手前今更座ることもできず、まわいの人はもっと座ることができず……。割と混み合った電車の中、ぽつんと席がひとつ空いたまま、妙に重たい空気が次の駅に着くまでの間続いたのでした。

「小さな親切大きなお世話」ではありませんが、「よかれ」と思ってやったことが相手に拒否される、というのは珍しくありません。今回のように特に理由なく断るというのはそれほど見かけないにしても、よくあるパターンとしては、「次の駅でおりるから結構です」みたいなやつ。OYOYOも、何度か洗礼を受けました。席を譲ろうと立ち上がって、「どうぞ」というと、「次の駅ですから……」と言われて座り直すという。凄い恥ずかしいんですよね、アレ!!

んで、こういうのって「空気の読み方」が大事なんだろうなぁというのはあるのですが、たぶん、それだけではない。昔、私の親が言っていたことの受け売りをしますと、「与えるだけではなく、受取るのもまた思いやりである」と。

思いやりというのは一方的なものではなく、相互のキャッチボールみたいなことだということが、上のことばの意味でしょう。言われてみれば確かに、思いを遣る(相手に向けて投げかける)というのは、投げてきた相手に対しても成立つはずです。「どうぞ」という思いやりに対して、「ありがとう」と応えれば、それでお互い気持ちよく過ごせるんじゃないかという気はします。

まあ、よほどどうしても座りたくないっていうんなら話は別ですけど、少なくとも、席譲られてイヤっていう人はあんまりいないでしょう……。

あるいは、もし自分がどうしてもイヤだったとしても、そこでことわってしまうということが、「どうぞ」と言って席を譲る行為自体を、社会全体の中で萎縮させるというような視点は、持っていても良いかなと思います。私たちは小中学校で、「お年寄りがいたら席を譲りましょう」と習うわけですが、実際に勇気をふりしぼってやってみると、断られたり、下手をすると怒り出す人ばっかりだったら、そりゃあ誰もやらなくなります。

「大きなお世話」みたいな態度をとっちゃう人は、相手に一方的な思いやりと配慮を求めているだけかもしれない。席を譲ろうという心意気を見せた人に対して、彼や彼女が報われるような対応を示すということもまた、ひとつの立派な「思いやり」であろうという気がいたします。

思いやりのある社会ってのは、そんなような、相互の配慮によって成立つんじゃないかなぁ。


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