先日の記事(「「他者」無き時代の思考」コメントへのお返事など)に思った以上に反応を頂いて、なんか適当にタイトルつけたの失敗したなぁとか色々考えていたのですが、返信しようとすると字数制限引っかかったりなんだかんだでバタバタしたので、いっそひとつの記事にしてお返事することにいたしました。

というのも、書いているうちにそれ自体具体例なんかが含まれてきて、前回の話をよりはっきりした形でふくらませることができるかなという気になったからです。実際、似たような問題意識が見えるようなかたちででコメントを書いてくださった感もありますし……。

また、どれも興味深いお話で、コメントが思いの外長くなってしまったんですよね。お三方ともコメントありがとうございました。すごく刺激になりました。

◆狐月さん
こちらではお初です。

「特定のキーワードからいい加減に推測して」というのは、私の言わんとした部分とかなり重なります。私自身の反省も含めるのですが、友人に「概念」ということばを多用する人がいて、彼が何を言ってるかよくわからないなぁと思っていたのですが、詳しく話を聞いていると恐らく、「観念」のことを言っていた(抽象的定義と、自分の主観的認識、くらいの違いだと思って下さい)、ということがありました。

このあたりは、狐月さんがおっしゃるところの「知識を蓄えることの重要性」とも関わってくるかもしれませんね。「概念」という語と「観念」という語を使い分ける知識の有無で、意思疎通のしやすさは変わってくるであろう、という。

もちろん、その彼に「ちゃんと一般的定義で使い分けろよ」というのは簡単なのですが、しかし、「概念」という語で主観的な認識の話をしたかったというのは文脈を踏まえれば理解可能であったはずなので、こと1:1のコミュニケーションでは、それを読んだ上で話しをするのが誠実さだったのかな、などと反省した次第です。

大学での学問というのは、実際各大学や学部、そして教授によっても性質が大きく変わってくるでしょうから(私が学んだところなどは、いわゆる「実学」とは大きく隔たっていて、むしろ直接的有用性は不要、みたいな雰囲気がありました)一概には言えませんが、私も実学志向を無用だとは思わない一方、それとは別種の、原理的思考みたいなものは必要であろうという点には、強く同意します。

とりわけ、何か大きな問題が起きた時にそれを学問の力で直接処そうという態度は、ともすれば知や学というものが状況依存のものとなってしまう可能性があり、狐月さんがおっしゃるところの「土台」としての性質を忽せにしてしまうように思われます。

もっとも、最近は予算の問題とかでそんなことも言っていられないのが哀しいところなのだとは思いますけれども……。


ひかり&るなちーさん
またまたコメントありがとうございます!

「議論の中で重要なキーワードなのに、議論してるそれぞれが違った意味合いで論じてる」というのは、狐月さんがおっしゃるところの「知識を蓄えることの重要性」の問題であり、上で私が述べたような内容とも関係あるのかなと思います。というか、やっぱりこのテの話をするとキータームの齟齬とかの話になりますよね、あるある的な(笑)。

「wikiとかで調べて自分に都合のいいまたは感覚的に合った意味を使っちゃって、相手の文脈から相手の使ってる意味合いを想像するのをやめちゃってる」というのは、本当にその通りで、使い慣れている人ほどそのことばに独自の意味をもたせたり、あるいは最初から勘違いで使っていたりということも往々にしてありますし……。

似たような話で以前、「マジックワード」ということばが、辞書と違う、とツッコミを頂いたこともありました。(私は曖昧で中味がなく、どうとでも解釈できる「ジャーゴン」のような意味で使っていたのですが、「人を魔法のようにたぶらかして操ることばだ」のような反駁をうけた)

「相手が取れないようなボール投げて」ってまさにそんな感じで、お互いワイルドピッチで捕れないボール投げ合ってしまったり、あるいは相手のいない土俵でひたすら張り手を出してる文字通りの「一人相撲」とってたり……。仰るとおり、このあたりって初等~中等の教育で、「技術」を教える機会がほとんどないせいかもしれませんね。

教室ディベートとかを、一年くらいかけてしっかり訓練するプロセスがあれば良いのかなとか思いますが、難しいだろうなぁ……。少なくとも全国で義務化とかは無理っぽい感が。


◆lhramtlさん
はじめまして、コメントありがとうございます(。・x・)ゝ。

lhramtlさんのお話は、私が申し上げたかったこととは少しずれている感もあるのですが、興味深く拝読しました。

私の論旨としては、「議論する中で相手の言葉を自分の言葉にわざと直す」というのは、大きな問題ではありません。上記、狐月さんへのコメントで私が書いた例のように、相手が「概念」という語を用いていて、自分の中ではそれは「観念」という語だ、と把握したなら、置き換えて理解するのが良いかなとも思います。

また、「衒学的」というのはそもそもマイナスの用語なので衒学的なのはアカンと思いますが、あることばを別の術語(難解だけど厳密な)に置き換えることは、私は「アリ」だという立場です。そうすること(そうされること)によって、「ああ、この話というのはそういうことばを使う世界で既に議論されている話なのだな」ということが解りますし、その知識をもとに、また話を広げることが可能だと思うからです。

もちろん、lhramtlさんは「自分自身の感覚にあった言葉しか使わず」という態度を批判しておられるので、わざと(あるいは無意識に)とんちんかんな言い換えをすることが問題なのだと思いますが、肝心なのは、もしそのような状態になってもお互い「譲りあう」ことではないかと私は思います。

たとえば今回の私の記事は、「自分がものを考えるときの考え方」であり、自分の心構えとして、常に謙虚であれ(相手の使っていることばがわからなくても、それを文脈から読み取る努力をしよう)、というようなニュアンスで書いています。

その点からすれば、lhramtlさんの「衒学的に語り、難しい言葉を難しく言い簡単なことを難解にする人は何なんでしょうね?相手にその言葉を調べさせないのが大事だというのに」というような、相手に責任を転嫁する考え方とは、やや違うことを述べているつもりです。では、「私の言いたかったことを読んでないから話打ち切ります」で良いかというと、そうは思わない。それはあくまで私の視点であって、lhramtlさんは接点がある、と考えて書いてくださったのだから、その接点を見たいわけです。

lhramtlさんは私の記事から、「文章をねじ曲げて解釈する人」への批判を読み取られた。そして、そのことは私の記事に対して、いくつかの問いを投げかけていると、私には思われました。

まず、相手の文脈を追いかけて読んだ時に、それはどこまで可能なのか(受け手の恣意性を逃れられるのか)。次に、相手のことばと自分のことばが違っていたときに、どうやってその間の溝を埋めるのか。最後に、互いに(あるいは一方が)意図している内容と表現できている内容が食い違っている場合はどうするか、といった問題です。

私は「解釈の配慮」に割と限定した話をしていたのですが、lhramtlさんはそこから拡げて、「相手にその言葉を調べさせない」というような、発信も含めた議論の方法にご関心があったので、このような違いが出てきたのかなと思いましたが、いかがでしょうか。

いずれにしても私としては、いたずらに感情的にならず、「相手は何か自分とは別の大事なことを言おうとしているのではないか」という考えを持ったまま、言説は言説として捉えるという姿勢が求められるような気がいたします。

むろん、相手の言っていることがすべてくまなくわかるなどということは無いのかもしれませんが、だからこそ、最後まで向き合う姿勢だけは棄てないほうが良いのかな、と。



というわけで、長くなりましたがコメントへのお返事を手がかりに、前回の続きのような話でした。

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