関連記事: コメント返信(2013年4月22日)
先日ツイッターで話をしていたのですが、どうも私たちは最近、すぐに「正解」を探してしまうよね、と。
これは凄く分かります。正直、身につまされる。「正解」という言い方をするといささか抽象的ですが、私的な言い方をするなら、自分の感性に合うものだけを選んで情報をピックアップしてしまう。実際、違和感を覚えたり、あるいは理解できないものからは目を背けたり、拒絶したりすることが、簡単にできるようになった。それこそたとえば、ツイッターのブロックのように。
もちろん、良いことでもあるのでしょう。嫌なことを強制され、逃れられなかった時代のことを考えると、回避し選択する自由があるというのはとても素晴らしいことです。しかし、あまりにそれを極端にやりすぎると、異なる考えは「無かったこと」になってしまう。存在していることは認めるとしても、いてもいなくてもどうでも良いような、事実上無意味な存在に、なってしまう。
たぶん、いまの私たちに欠けている「考える」姿勢って、もともとはそういうところにあらわれていたんじゃないかと思います。異なるものとどう向き合い、受け止めるかというところに。
真面目な思考力や真剣な悩みが若者には無い、みたいな話があるけれど、それはちょっと単純化しすぎでしょう。自分の考えを、深く深く掘り下げようとしている人は少なくない。若くて私なんかよりものしりな人なんて、ごまんといます。
でも、自分とは違う考え方について、それがなぜ相手にとって切実な問題なのかとか、どういう論理で導かれたものなのかということを、じっくりと考える、そういう人は減った。減ったというか、そういうことしなくても快適に過ごせる環境がどんどん整備されていったおかげで、あんまり必要がなくなったのでしょう。
また、これは議論がオープンになって人の目につきやすくなったせいだと思うのですが、議論というものにおいて「勝ち負け」が重視され、相手と戦うときに、結論が本人同士の納得よりも、「賛成者の数の有無」みたいなところで争われるようになった。このことも「考える」機会が失われていった、遠因かもしれません。
まず話の内容より勝ち負けが重視される。加えて、やたらめったらお互いの主張をぶつけあうせいで、相手の議論のいい所ではなく、悪いところを見て叩き合うようになった。結果、とにかく相手を低く低く見ようとして、「相手はこんなつまんない主張をしてるだけだ」みたいなところで話を終わらせてしまう。
相手の主張をくみとらずに攻撃しても、お互いに「あいつは分かってねぇ」で終わってしまう。不毛な争いの始まりです。
相手がどういう話をしようとしていて、それが自分とはどう違うのかをきちんと考える。そういう力もまた必要ではないかと思います。そうすることで、相手も「自分の議論」の欠点がみえてくるし、自分もまた、新しい考え方を身につけることができる。良い事だらけです。
そこまで突き詰めるのは無理でも、自分と違う考え方の人がいるということを「認める」というのは、そういう人の話を無視したり、自分より下であると勝手に見下すことではなくて、その自分と違うという違和感なり不快感なりと最後まで付き合うことでしょう。
よく、「他者」ということばでキレイなことが色々いわれるけれど、実は「他者」性を大事にするとか、「他者」を引き受けるっていうのは凄くめんどくさくて大変で、ストレスのたまることだと思います。だって、自分と全然違う相手が目の前にいるというそのことを、認めないといけないのですから。
そんなわけで、すぐ「正解」を探して、自分の考えの範囲で世界を見ようといういまの私たちの、思考には「他者」がいないし、それはブログやツイッターが目の敵にされる以前に、本だってテレビだってそういうものだったはずです。いまの社会は、「他者」不在の思考を簡単に強化することも可能になっている。
それはたぶん、とても怖いことなんですが、その怖さが既に見えにくくなってしまっているような気がします。折木くんじゃないけど、「慎むべし」ととなえ続けるしかないのかなぁ。
ツイート
先日ツイッターで話をしていたのですが、どうも私たちは最近、すぐに「正解」を探してしまうよね、と。
これは凄く分かります。正直、身につまされる。「正解」という言い方をするといささか抽象的ですが、私的な言い方をするなら、自分の感性に合うものだけを選んで情報をピックアップしてしまう。実際、違和感を覚えたり、あるいは理解できないものからは目を背けたり、拒絶したりすることが、簡単にできるようになった。それこそたとえば、ツイッターのブロックのように。
もちろん、良いことでもあるのでしょう。嫌なことを強制され、逃れられなかった時代のことを考えると、回避し選択する自由があるというのはとても素晴らしいことです。しかし、あまりにそれを極端にやりすぎると、異なる考えは「無かったこと」になってしまう。存在していることは認めるとしても、いてもいなくてもどうでも良いような、事実上無意味な存在に、なってしまう。
たぶん、いまの私たちに欠けている「考える」姿勢って、もともとはそういうところにあらわれていたんじゃないかと思います。異なるものとどう向き合い、受け止めるかというところに。
真面目な思考力や真剣な悩みが若者には無い、みたいな話があるけれど、それはちょっと単純化しすぎでしょう。自分の考えを、深く深く掘り下げようとしている人は少なくない。若くて私なんかよりものしりな人なんて、ごまんといます。
でも、自分とは違う考え方について、それがなぜ相手にとって切実な問題なのかとか、どういう論理で導かれたものなのかということを、じっくりと考える、そういう人は減った。減ったというか、そういうことしなくても快適に過ごせる環境がどんどん整備されていったおかげで、あんまり必要がなくなったのでしょう。
また、これは議論がオープンになって人の目につきやすくなったせいだと思うのですが、議論というものにおいて「勝ち負け」が重視され、相手と戦うときに、結論が本人同士の納得よりも、「賛成者の数の有無」みたいなところで争われるようになった。このことも「考える」機会が失われていった、遠因かもしれません。
まず話の内容より勝ち負けが重視される。加えて、やたらめったらお互いの主張をぶつけあうせいで、相手の議論のいい所ではなく、悪いところを見て叩き合うようになった。結果、とにかく相手を低く低く見ようとして、「相手はこんなつまんない主張をしてるだけだ」みたいなところで話を終わらせてしまう。
相手の主張をくみとらずに攻撃しても、お互いに「あいつは分かってねぇ」で終わってしまう。不毛な争いの始まりです。
相手がどういう話をしようとしていて、それが自分とはどう違うのかをきちんと考える。そういう力もまた必要ではないかと思います。そうすることで、相手も「自分の議論」の欠点がみえてくるし、自分もまた、新しい考え方を身につけることができる。良い事だらけです。
そこまで突き詰めるのは無理でも、自分と違う考え方の人がいるということを「認める」というのは、そういう人の話を無視したり、自分より下であると勝手に見下すことではなくて、その自分と違うという違和感なり不快感なりと最後まで付き合うことでしょう。
よく、「他者」ということばでキレイなことが色々いわれるけれど、実は「他者」性を大事にするとか、「他者」を引き受けるっていうのは凄くめんどくさくて大変で、ストレスのたまることだと思います。だって、自分と全然違う相手が目の前にいるというそのことを、認めないといけないのですから。
そんなわけで、すぐ「正解」を探して、自分の考えの範囲で世界を見ようといういまの私たちの、思考には「他者」がいないし、それはブログやツイッターが目の敵にされる以前に、本だってテレビだってそういうものだったはずです。いまの社会は、「他者」不在の思考を簡単に強化することも可能になっている。
それはたぶん、とても怖いことなんですが、その怖さが既に見えにくくなってしまっているような気がします。折木くんじゃないけど、「慎むべし」ととなえ続けるしかないのかなぁ。
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以下は僕の個人的な意見なんですが、
考える姿勢が欠けていると、同時に知識を蓄えることの重要性が少々軽視されているんじゃないかな、とも僕は思います。
僕は大学生なので、大学という狭い共同体の内で感じた程度のことしか語ることができませんが、良くも悪くも実学志向に傾きすぎているきらいが周りにある気がしてならないんですよね。
自分はその事を特別に唾棄すべき事態だと考えているわけではありませんが、一方で実用性のないように見える知識を全く必要のないものと見做して、切り捨ててしまうのは、良くない傾向だと感じています。
何故、良くないことだと考えるのかと言いますと、「考える」ことの土台作りを担っているのは、他でもない知識ですから、実用性という基準だけに依って、知識の一部を切り捨ててしまうのは、「考える」という行為自体の質を毀損することに繋がるんじゃないのかな、と思うからです。
学ぶことを放棄することは、自分と違う原理に従って、物事を考える他者と文脈の共有することの拒絶になり得るので、危険なんじゃないかなと、僕は思います。
まあ、こんなことは僕が長々と述べるまでもなく、色々な人が論じていることでしょうけど、折角の機会なのでコメントさせて頂きました。陳腐かつ拙い意見ですみません。