「ケータイがなかったあの頃。待ち合わせは、ときめきだった。コーヒーは、うまかった。」

覚えておられる人もおいででしょうか。キリン・ファイア「昭和喫茶」のキャッチコピーです。


昭和喫茶
昭和喫茶。



先日たまたま入った喫茶店で、この懐かしい缶コーヒーのキャッチを見かけまして、「ああ、良いなぁ」と思ったんですね。なんというか、わかる感じ。少なくとも、全く論外とは思わない。

そりゃあ勿論、携帯があったほうが便利だし、正直いまとなっては携帯の無い生活は考えられません。便利だからというよりは、社会の要請として、携帯があって困ったときはすぐ連絡をとれるというのが望ましいことになっている。そのこと自体を、否定はしません。

ただ、「待ち合わせは、ときめきだった」ってのは、思い返すとそうだな、と。一定以上の年齡の人でないと、携帯持たずに待ち合わせとかしたことないかもしれませんけれど……。

女の子との待ち合わせみたいな洒落たシチュエーションじゃなくても、友人とか家族とか、そういう人と待ち合わせをしているとき、携帯があるとどうしてもすぐ連絡とれる。で、とれると「見えちゃう」んですよね。

たとえば、ああ寝坊したなとか、約束忘れてたなとか、連絡無いってことは大変なことが起こったかまだ寝てるかだなとか、色々。で、このある程度ハッキリと「見えちゃう」というのが、趣がない。待ち合わせの、あるいは待つということの、本質的な受動性みたいなのが薄められている感がある。

それが、いいことなのかわるいことなのかはわかりません。実際問題、「見えない」ことが楽しいわけじゃないので(むしろイライラしたり、不安になったりすることのほうが多いです)、「趣がない」なんて言っちゃうとさも昔のほうが良かったという懐古主義に誤解されるかもしれないけれど、「見える」ことでストレスは減ったし、スケジュール通りの動きはやりやすくなった。

ただ、何でもかんでも自分のコントロールに置くのではなくて、自分にはどうしようもない部分で進行していることを、ただ待つっていうのも、それとしてまるで無意味とは思わない。「まだ来ないな……」とやきもきしながら待っている間に、相手のこととか自分のこととかをあれこれ考える時間というのは、苦痛ではあるけれど、心が激しく動いている。そのことをして、「ときめき」と言うのなら、凄くわかる気がするんです。それは、携帯のメールで「まだ?」「ごめん、20分遅れる」というやり取りをすれば終わってしまっては手に入らないものでしょう、確かに。

「見えない」のはしんどいけれど、「見えすぎる」のもやっぱりしんどいんですよ。実際、携帯を家に忘れたりすると、その日一日謎の開放感に支配されますもん。「やった、これで今日連絡こねぇ!」って。……家に近づくと、「凄い大事な連絡来てたらどうしよおおおお」って開放感の100倍くらいの不安にさいなまれるんですけど。

ま、そんなわけでたまには「見えない」のもアリじゃないかなーとか。

携帯がなくなればいいとか、待つのが楽しいとか、そういう話ではありません。ただなんとなく、私たちはいろんなものを便利に便利にしてきたけれど、そのせいで自分のコントロール下に置くことのできないものを受け止める機会を、失いつつあるのかなという気がしました。

昭和喫茶コピー
「昭和喫茶」のキャッチフレーズ。

期待も、いらだちも、そういう自分ではもうどうしようもないものを受け止める時の心情というのは、全部含めて振り返った時、私にとってはなるほど、「ときめき」だったと言えるかもしれません。コーヒーの味はともかくとしまして。

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