先日プレイし終えてから色々考えていた『ポケットに恋をつめて』(青空ビスケット、2013年3月15日)の感想を、批評空間さんに投稿した(こちら:ネタバレ無し)。

したのは良いが、なんだか当初の予定と大幅に(これは本当に大幅に)違うものができあがってしまった。ツイッターでB2Fさん(@B2F_ )の勧めもあって、箇条書きにしようかとか(B2Fさん、その節はアドバイスありがとうございました)、あるいは楽しい話に相応しいコント的な文章を書こうかと思っていたのだが、結局いつもどおりか、いつにもまして、嫌がらせのようにくどい説明話である。一応装いはレビューのようにしたし、最低限のことは盛り込んだものの、どこに何が書いてあるか分かりにくい。どんな作品かを知りたくて見るには、明らかに不向きだ。

自分で読み返してみたけれど、正直あの感想を読んだ人が、「どんなゲームか分かった!」というのは、あんまり無いんじゃないかと思う。もちろん感想なり批評なりというのは純粋な「紹介」ではないので、必ずしも内容の説明になっていなくても構わないとは思うが、それにしたって参考になるかどうかも怪しいレベル。

ただ、書きたいように書いたことの後悔はないし、そう思うと今度は言い足りないところも出てきてしまい、今回少し記事として自分なりにまとめてみることにした。自分のために書いていたのがいつの間にか大きくなった形なので、少々読みづらいかもしれず、そこはご容赦いただきたい。

なぜそんなモン投稿するのかと言われれば、一応自分で書いたとはいえ、我ながらグダグダになった感想が、少しはわかりやすくなるかもしれないという期待のため。さきほどは「参考になるか怪しい」と自嘲したけれど、やっぱり私には、あんなのでも一つの「紹介」になっているという自負が、多少はある(でなければそもそも投稿しない)。だから、それは説明をしておきたかった。

という名目と、あとはまあ、実はこういうこと考えてましたとアピってみたいのだとか、そんな功名心みたいなものも汲み取って、生暖かく見守って頂ければ幸いである。

▼奇妙なおもしろさ
『ポケ恋』という楽しい作品の感想を書いていたはずなのに、どうしてあんなことになったのか。つらつら考えていたのだけれど、理由は簡単で、ひとつには私が頭でっかちな性分だから。かといって私だけのせいかというとそればかりでもなく、作品にも原因の一端を引き受けてもらうならば、もうひとつの理由は、あの作品を褒めようと、あるいは面白かったところをあげようとすればするほど、作品をけなし、面白くなかったところをピックアップしているようにしか見えなかったからだ。

たとえば、私が最初に書いていたメモを見てみると、やれ「話がバラバラで繋がっていない」だとか、「ストーリー性が薄い」だとか、「ユーザーへの配慮より登場人物の都合を優先している」「キャラ中心のゲーム(キャラゲー)」のようなことがずらずらと書き並べてある。それは私にとって、間違いなく『ポケ恋』という作品の良さを語ろうとして、苦心した末に出てきたことばだったのだけれど、しかしまあ、どう考えたって「褒め言葉」からは程遠い。

何としてこの溝を埋めようか。そのことを考えながら書いていたら、あんなんになってしまった。我ながらひでぇ話だと思うけれど、実はそれほど特殊なことを言ったつもりも無い。結局のところ、上に挙げたようなこの作品への「賛辞」が、一般的なエロゲーにとっては否定的な意味を持つという、そのような事態がなぜ発生するのか。私の問題意識はそこにあり、それはたぶん、この作品をプレイした多くの人に共有されうるものではないかと思う。「『ポケ恋』って、なんかヘンなゲームなのに、なんで面白いんだろう?」というかたちで。

▼物語の構造と解体
さて、与太話はこのくらいにして本題に移ろう。本題と言い持って少し関係ない引用から入るのが恐縮だが、もう少しお付き合い頂きたい。

かつて更科修一郎は『カラフルピュアガール』誌(2000年くらいのエロゲー雑誌です)の『Kanon』の記事で、こんなことを書いていた。

物語を構築する要素というのは、ウラジミール・プロップの「26のカード」以降、現在では分析され、かなり法則化されている。更に、近代化に伴って、スピリチュアルで曖昧だった物語要素は、更に表層的な記号へ解体され、方程式を組むように商品を作ることができるようになったし、記号の選択と方程式の組み方さえ間違えなければ、ユーザーを「泣き」や「萌え」の状態に導くのも、割と簡単にできる。実際、ほとんどのおたく向けヒット商品&作品はそういう計算の上で作られている。逆に、ヒットしない商品のヒットしない理由とは、作り手の創作性……悪く言えば、偏執的なこだわりがノイズになってしまったケースが大半だったりする。

 そして、全ての事象が表層的な記号へ分解されていくこの状況が、この連載で何度も書いてきた[オブジェクト嗜好]の正体で、別の場所では[ポストモダン]と呼ばれていた状況だったのだ。

 商品として成立させるために、計算によって整合性を高めると、計算できない要素はノイズとして排除されてしまう。例えば、スピリチュアルな物語要素の代表例である[奇蹟]は、近年は「陳腐なもの」として、扱うことを避ける傾向にある。(N.P.C. Vol.08『Kanon~残された者のために祈りを』 )



プロップって誰やねんというツッコミが入りそうなので、まずはそこから。ウラジミール・プロップはロシア(旧ソ連)の民俗学者であり、構造主義を物語分析に適用した(『民話の形態学』)、文学畑ではそこそこ有名なオッサン。プロップ自身の専門は、民話(むかしばなし)で、彼は民話から抽出した構造が、あらゆる物語にあてはまると考えた。[※1] 要は、神話や民話、あるいは詩のような古典的な文学のみならず、近代の小説も――もっといえば人間が物語を語るということそのものに関して原理的な考察を行おうということであり、そういう物語研究の土台が彼によって作られた、くらいの認識で良いだろう。たぶん。

ともあれここで更科が述べているのは、物語というものの構造があきらかになり、それによって「スピリチュアル」だった物語というのは、まるで工業製品のように機械的に生産可能なものになった、ということだ。あるいは「なってしまった」という否定的なニュアンスを含んでいるかもしれないが、ともあれそこでは、「読み手にウケるか」という結果までも、ある程度折込済みにして物語を作る態度が定着していった。「スピリチュアル」に対して、「マニュアル」とでも言えば良いだろうか。あえて分かりやすさを重視して言い直せば、一点物の、その人にしか作れない(実存的な)「物語」は姿を消し、かわりに大量生産・大量消費の量産商業主義的な物語が生まれた。そしてそれは、物語なるものを分解し、分析の対象としたことによってひきおこされた、というわけだ。

こうした分節化されてゆく物語の帰結=更科が言うところの「オブジェクト嗜好」(「志向」ではない)に関する検討が、どの程度妥当なものであるかはともかくとして、物語を構造的に把握しようという考え方が2000年以降現在にいたるまで、クリエイター・ユーザーを問わず、オタク界隈ではある程度共有されてきたということは疑いのない事実であるように思われる。

それは私のような、頭でっかちなサブカル崩れの人間だけではなく、現場で実際の創作に携わるような人たちの間にも、強固に、そして隠微に共有された信仰だ。実際たとえば、「ライトノベルの書き方」のような本が書かれ、クリエイター志望の人間にひろく読まれ、専門学校でその手法が教えられ……といった制度化の動きは急速に進み、そして今なお残っている。ヒロインは何人が良いだとか、その属性はなんだとか、そういった考え方そのものが既に、セールスを織り込んだ物語の「マニュアル」なのだ。

[※1]……たとえば、『桃太郎』は「主人公の出発」、「主人公の移動」、「敵対者の処罰」……のように要素分解され、その組合せによって物語は作られている。そして、対象が昔話であれ近代小説であれおよそ物語である以上、限られたパーツに分解できる、あるいは物語というのは、パーツの組合せによってつくり上げることができる、というのがプロップの主張の骨子である。七十年代から八十年代にかけて爆発的な影響力をほこったフランス現代思想に深く食い込んでいたこともあって、それなりに日本でもはやった。さすがにリアルタイムの受容がどんなものだったかは知らないけれど、今でも名前を時々耳にするくらいには。

▼構造という名の束縛
プロップの、あるいはその後続いた記号論的な物語読解が主張するような「物語の構造」の発見というのは、つまるところ、「人間のあらゆる言説行為の中に、再現可能な構造を探り出そうという試み」(中沢新一)である。

その構造なるものが具体的にどんなものかについて、ここで詳述は避けるが、物語にそういう構造ないし秩序があると見なすことが、ある種の束縛として機能することは理解されよう。物語は「かくあるべし」という形で規定され、定式化されることによってはじめてその構造が浮かび上がる――あるいは逆に、構造が「発見」されたことによって、物語は秩序化され、縛り付けられた。

けれど、ここでひとつ問うておかねばならない。果たして私たちは、構造を求めて物語を読むのだろうか。

記号論的な物語読解が主張する「物語の構造」とは、普遍的ななにものかだ。どんな物語からでも取り出すことができ、比較可能なもの。物語を人間に喩えるならば、構造とはその骨格標本といったところだろう。なるほど、皮をそぎ、肉を落として浮かび上がったそれは、ある意味でそのいきものの本質といえるかもしれない。だが、私たちが交わり、友誼を結んでいる「誰か」を思い出せと言われて、骨格標本を想像する人間が、果たしてどれほどいるというのか。あるいは、DNAの塩基配列でも良い。それは人間の本質であって、塩基の配列が私たちの形質のすべてを決定しているのだとしても、そのことと私たちが生きている現実とは直接には結びつかない。

私たちが目指すのは常に目の前にいる誰か――常に、肉も皮もある、総体としてのその人である。

物語とて同じこと、構造を抽出され、分解され、分析された諸要素が、私たちの求める物語そのものであるということは、恐らく無いだろう。『浦島太郎』の、「漁師が亀を助けて竜宮城に行って戻ってきたが、禁忌を犯して老人になる話」という要約をきかされたところで、そこには私たちが生身で触れた「浦島」の姿は無い。「浦島」は、物語の文体や表現、句読点のひとつひとつに偏在し、ただ総体としてしか姿をあらわし得ないのだ。

昔話を読んだ時に感じるあの興奮を、「主人公の帰還」の如き抽出要素から、私たちはおよそ感じ取ることができない。私たちが物語から受取る享楽というのは、常に構造の外側にも(あるいは構造を取り出すことによって削ぎ落とされ、排除されたような細部にも)またひとしく宿っており、取り除いた瞬間に総体としての力は失われてしまうのである。

かくて私たちは、物語そのものからは程遠い「物語の構造」に縛られたまま、その中で物語を求めてあえいでいる。

▼構造の内破と総体性の回復
私が『ポケ恋』から感じたのは、構造という軛から物語を解き放とうとする力である。

それが具体的にどのようなもので、またどこからそう感じたかについては、批評空間のレビューをご覧いただきたいが、敢えてまとめるならば、物語の諸要素を細分化し、それらを再構成することによって、構造を用いながら構造が保っていた秩序を破壊する試みが、そこにはあったように思われるのだ。その試みが意図されたものであったか、はたまた偶然の産物であるかを、ここで問うことはできないけれど。

物語を読むことで私たちが求めていたものは、物語の構造ではない。少なくとも、そのように思う人たちは少なからず存在する。私たちは、ただ物語という経験に惹かれるのだ、と。そう信じる人に向けて、新しい物語を紡ぐこと。私たちが生きてきた、物語という制度を内破させ、想像力を拡げていくこと。それこそが、『ポケットに恋をつめて』という風変わりな作品が示し得た境地である。そのように言うことは許されないだろうか。

物語は構造によってではなく、ただそこに生きる人びと(キャラクター)によって成り立っているのだと、既存の物語という制度を組み替えることで『ポケ恋』は振舞ってみせる。このときキャラクターは、制度化/秩序化された物語の世界を、内側から突き破る力となるだろう。そして、自由になった物語は、キャラクターのもとでその総体性を回復するに違いない。総体性とはつまり、物語の世界が自律的に駆動し、常に構造化から逃れているということ。要するに、キャラが勝手に動きまわって書かれている以上の物語を内部から生成していくような、想像力の源泉としての力である。

今後も続く可能性となるのか、あるいは一代限りで途絶えるのか。それは私には分からない。ただこのような作品に出会えたということが、そしてこのような作品が現にあったという事実が、物語に縛られたこの世界を生きる人にとって、いくらかの、慰めとなるかもしれないとは思う。

▼物語のはじまり
私はこの記事のはじめのほうで、「どうしてあんなことになったのか」と書いた。今更ながら振り返れば、私が感じていた書きづらさの正体は、本当はきっと、ここにあるのだと思う。つまり、物語の構造化を破ろうという試みを前に、その「構造」を取り出そうとすることは、この作品の本質的な部分を、どこか決定的に損なってしまうのではないかという懸念があった。ただひとこと、「面白かった」とだけ言えばそれでこと足りる、そういう作品だと言われればそうなのかもしれない。しかし同時に、この作品から受け取った違和感を、何か形にしてみたいという気持ちもぬきがたくあった。

とりあえずやってみた感想としては、ぐるぐる回った挙句しょうもないことしか言っていないという挫折感と、またこういう内容について、私のようにまわりくどい説明的な形をとらず、しかも私よりずっと端的かつ鮮やかに示すことができる人はたくさんいるはずで(私の頭のなかですぐに2、3人の名前が挙がるくらいには)、そういう人に任せりゃよかったなぁと思うものの、そもそも「そういう人」がプレイしない可能性もあるわけで、ならまあ紹介役くらいにはなれていたら良いなぁという、割と卑屈な思いがあったりする。

ともあれ、言いたいことはほぼ尽きた。いや、本当はまだある気がするけど、これ以上は蛇足だ。

ゲームが終わる時、私はなんとも言えない名残惜しさと、それでもきっとまだ彼らの世界は続いているのだろうなという妙な安心を同時に感じた。「ポケットに恋をつめて」というタイトルは、文法的にはこの後に続く文章を、内容的にはどこかへ出発していくイメージを、想起させる。だからたぶん修次たちの物語は終わるのではなく、ゲームが終わったところから始まるのだ。この作品で描かれていた「恋」をポケットにつめて、私はもう少し、彼らとの物語を楽しんでみたい。

……普通のレビューは、別途ちゃんと書こうかなと思っています。なるたけ楽しい紹介文を。

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