議論を見聞きしたり、論文を読んだりしていると、話の広げ方が上手い人というか、議論の展開の仕方が上手い人というのがいます。そういう人は、たいていの場合、「質問上手」だというのが私の(経験に基づく)持論です。

なんというか、相手の意見に対して「あ、そこ訊くとすごく見通しが良くなるよね」とか、「おお、そこは確かに矛盾してるからどっちなんだろうな」みたいな、「急所」を綺麗にとりだしてピンポイントで突くことのできる人。別の言い方をすれば、「相手の言わんとすることをきちんと整理・理解したうえで的確な意見の言える人」です。

高校で習う小論文ではリード文がついていて、「筆者の述べていることを200字程度で述べてから自分の意見を書きなさい」なんて出題形式がとられますが、この「要約」能力というのが「質問上手」に繋がるちからだと言えるでしょう。

ぶっちゃけ、相手の意見に対してそれとは違う自分の考え方を主張したり、疑問を提出したり、論理の欠陥をついたり……というのはちょっとした訓練で比較的誰でもできるようになります。そして、いまの日本には(マスコミを筆頭に)そういう言説が溢れかえっている。それはそれで必要なことだとは思うけれど、おおむね噛み合わない話をして終わることが多い。理由は簡単で、その「反応」が、もともとの発言者の言いたいことではなく、その言いたいことをダシにして自分の言いたいことを言っているだけだからです。自分自身の反省も込めて。

私の憧れる「質問上手」な人というのは、自分の問題意識ははっきり持ちながらも、それを第一に振りかざそうとはせず、まず相手の意見をきちんと理解しようとする。だから、「この人はこういうことを言いたいのだろう」という推測をします。かつその推測も、不当に低い見積りをしない。

よく、「どうせこんなことしか言ってないんだろ」と相手を軽く見るところからスタートする人がいますが、それだと議論は発展しません。そうではなくて、「この人はこういう意味のあることを言おうとしているのではないか」とか、「この人の言いたいことを拾うと、こういう話ができるんじゃないか」という具合に、可能性を大きく採る。そうすることで、議論は生産的なものになります。

もちろんこれは、どんな意見にもイエスマンであれ、というわけではありません。そうではなくて、たとい批判をする場合であっても、「相手がしょぼいことしか言ってない」と想定すれば、ショボい批判しか出てこないよねという話です。

たとえば、「AだからBになってCだ」という論を展開している相手に対して、「いや、俺はDだ」だとか、「Cなんて意味無いよ」と言ってみても水掛け論にしかなりません。自分の思考としても、新しい着想は出てこない。

話を広げるのが上手な人は、「Cだと言っているけれど、『AだからB』という発言の帰結はふつうEになるんじゃないか」とか、「Cということを言いたいなら、『AだからB』よりは『AだからF』のほうが適当なことを言えるのではないか」のように、批判しながらも(論理のおかしなところを指摘しながらも)内部のロジックをきちんと交通整理して、論者が「言いたいこと」が何であるかをはっきりさせようとする。

あるいは、「Cという結論を言うけれど、この結論は実はXやYやZのようなとんでもない結論とも結びついてしまうから、それをクリアーしないと賛成しづらい」のように、結論そのものが持っている問題点を指摘します。裏返せば、そこをクリアーすれば結論がいっそう魅力的になる、というポイントを示してくれているわけです。決して、たんに「自分の意見と違うから面白く無い」のようなことは言わない。それを言ってしまったら、ものすごく話が膨らませ辛いからです。そういう返し方をされて、話題を拾える人はなかなかいない。いや、中には時々、どんなボールでも拾いまくるスーパーリベロみたいな人もいますけど、それを期待するよりは自分で意見を表明する仕方を考えたほうが早いでしょう。

もちろんこういう意見表明が「善い」局面というのは限られたものではあります。とはいえ私はなんだかんだで言説に携わっている人間として、「善き質問者」でありたい。ひいては、相手の言っていることをきちんと整理できる人間でありたいなぁと思います。理解が間違っていたとしても、理解しようという努力は怠らないというか。まあ、なかなか難しいことではあるんですが。

こういうことを、直観的にスパっとやれちゃう人に憧れるんですよねー。

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