昨今のエロゲーでは当たり前になってきた、複数ライター制度。賛否両論ありますが、どちらかといえば否定派のほうが多いような気がします。とりわけシナリオを重視する層の中には多数。

理由はいくつかあって、たとえば好みの合うライターさんとそうでもないライターさんの差が激しい場合、「前者で統一されていたらもっとたのしめたのに!」という不満が出る。まあこれは当然といえば当然。

あとは、ルート単位でライターさんが書き分けを行なっている場合に、ルートによってキャラクターの扱いが全然変わってきて違和感バリバリだとか。いまでも話題になる『遥かに仰ぎ、麗しの』(PULLTOP)では、本校系VS分校系みたいな内ゲバが局所的に勃発しちゃったりなんかして、そういうナナメ上45度な方向に発展する例もあります。

それを避けるために、全体をコントロールする指揮官が置かれてチェックを入れたりするわけですが、まあ実際問題スケジュールやらメンツやらの問題もからみ合って、なかなか簡単にはいかないところもある。そこで極端な場合、個別ルートに入ると他のヒロインは一切出てこなくなる、みたいな処置がとられたり。そこまでいくと問題は回避できたとしても、それはそれで別の問題の火種にもなり得るので、あちらを立てればなんとやら。難しいところです。

ともあれ、「どうも複数ライター制度は微妙……」と思っているエロゲーマーは少なからず存在するでしょうし、かく言う私も、かつては「ライターは一人に限る」みたいなことを主張していました。

今も、ライターさん一人のほうが好き、という基本ライン自体は変化していないのですが、ただ、最近複数ライターという制度を別の角度から、もっと肯定的に捉えることはできないかな、と思っています。

そう思うようになったきっかけは、とある友人に「なら小説読めば良い」(エロゲーにこだわる理由がわからん)と言われたから。

もちろん彼のことばは極論です。けれどもまあ、その通りだという部分もありまして、「複数ライターはダメだ」というのをどこまでも強く押し出すなら、複数ライターの作品はやるな、という話になるわけです。それでもやってるからには、複数ライターに感じている不満というのは、エロゲーをやりたいという欲求には勝てない。その中でクオリティを求めていくという優先順位の問題にはなるとしても、エロゲーの大半が複数ライターを起用しているいま、それをどのように受け入れるかということも現実問題考えていく必要はあるのだろうという気になった。もっと言えば、私の中ではエロゲーをやめるという選択肢はなかったので、それなら現状を楽しめるように切り替えたほうが生産的だろうか、と。

あと、これは私自身の問題として、「複数ライターの何が問題か」ということを、きちんと突き詰めて考えていなかったというのもあります。

私はよく、「統一感に欠けるので良くない」みたいな言い方をして批判に用いていたのですが、つらつら考えるに、「統一感に欠けることの何が問題か」というところまで煮詰めてはいなかった。自分が不満に思った要素を言語化するときに、「統一感」って言えば何かそれらしくて使い勝手が良いので使ってお茶を濁していただけじゃないか、という反省があったのですね。きちんと対自化していなかったと言うか。

たとえば、「単に読みにくい」だけなのか、「キャラ像が破綻してる」のか、「一部超絶面白い時があるから全部そっちで統一してくれたらもっと良かった」なのか。どれも、複数ライターを起用したことによる統一感の問題と言えますが、内実はそれぞれに異なります。当然、対処法も違う。そこは便利な語にすぐ頼らず、自分が感じた違和感の内実を、きちんと捉えなおしてみようと。

「統一感」のようなことばを使わない、というわけではないです。そうではなくて、そこはもうちょっと厳密に使おうという話。せめて、どこがどう不統一で、その何が問題なのかということはきちんと説明しようと思いました。出すメーカーさん側としては、複数ライター制で問題ない、少なくともそれでひとつ、なにかタイトルを冠するに値する作品になったと思って出しておられるわけでしょうから(納得してないという人もいるのかもしれませんが)、私なりの誠意としてはそこに応答したい。

実際、ちょっと目線を変えてやると、複数ライターを起用することによって広がっている可能性って少なからずあると思うんですよね。

とんでもない力量のライターさんならともかく、普通の人なら4キャラも5キャラも、タイプの違うメインキャラを書き分けるというのは結構骨が折れると思います。1作品だけなら何とかなっても、それが4本、5本となると1人で何キャラ担当するのかという話になる。たぶん無理ゲーです。ライターさんを複数立てるということは、そういう「飽和」を未然に防ぐ効果が、これはたとえばの話ですけれども、あるかもしれない。

また、読み手の側からすれば、次のようなことが言えると思います。ルートごとにキャラの言動がブレているのは、実は付き合っている相手が違うのだから当然なのだ、と。ぷりちーなみやびちゃんとの付き合い方と、シリアナな栖香さんとの付き合い方は異なるはずで、司てんてーの表面的な変化というのは、ヒロインの性質にひっぱられて生じているにすぎない……とかなんとか。

「主人公はヒロインを映す鏡」じゃありませんが、そのヒロインが最も輝きを放つ相手(ヒロインに最も相応しい相手)になるように主人公が表面的な性質を変化させているのだ、というのは、ひとつの解釈としてはありえると思っています。「表面的な」とことわりをつけているのは、全部変わっているのならオムニバスで良いだろうという話になるからで、やはり根っこの部分ではなにか共通する性質があるべきだからです。逆に言えば、(ルートごとに変化している部分というのはその主人公の本質的な部分ではなくて、そこを取り払った後に残るのが主人公の本質なのですから)かえって主人公がどんな存在か、見やすくなるのかもしれません。

また、抜きゲーの場合だともっと端的に、「その道のプロ」が得意分野を分割担当することで、よりHシーンのクオリティが上がるということは考えられます。「ロリならまかせろー!」とか、「触手ビョルビョル」とか。こっちはストレートに影響が出そうですね。

ちょっと長くなってきたのでそろそろ〆に入りますが、言いたかったのはなんというか、「複数ライターの弊害」っていうのは実際にあると思うし、簡単にスルーできるものでないとは私自身も思っているのですが、それはやっぱり作品のもつ可能性の、「最低ライン」なんですよね。

最低の可能性を考えるなら、同時に最高の可能性も一応考えてみて、そのうえで最低を選ぶか、マックス汲み取った可能性を拾うか、両方勘案して平均値をとるかという選択肢が出る。でも、最初から最低しか見ないよ、というのではこれから先、エロゲーを楽しめる可能性を自分で放棄しちゃうというか、そんな気がしたのです。

もちろん理想とする完成度があって、それを追い求める(やはりライターさんは一人であるべきで、そうやって構築された物語をこそ楽しみたい)のも大事だとは思うのですが、もともとグラフィックや音楽といったさまざまな人が関わりあって作られているエロゲーというジャンルにとっては、シナリオもまた、分担で作られるということがそれほど不自然であるとは思われません。

ならばいっそ、複数ライターという制度を採用するからこそ拓かれる可能性に目を向けて、そちらを伸ばしていくという選択肢もあるのではないかな、と、そんなことを考えたのでした。

……まあこんなことゆうても、統一感無くて良くないとか、ブレてて微妙とか、使いますけどね(爆)。

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