マスコミが、アルジェリアのテロ被害者の方々のお名前を実名報道した件について、侃々諤々議論が巻起こっています。私はこのたびマスコミがとった態度というのはまことに論外で、静かな怒りを覚えるのですが、しかし、実名報道そのものについての是非と、マスコミの態度への是非というのを、混同してはならぬという思いもありまして、実にフクザツな気持ちです。

私は、表現規制問題なんかのときからずっと言っていますが、基本的に「言論の自由」は守られるべきだという立場の人間です。それはつまり、誰かの発言が、「公的な」制度の圧力によって禁止されるということを嫌うということです。

今回の場合で言えば、マスコミが「実名」を流すかどうかを決定できるのは、ひとりマスコミ自身。われわれがその発言を「やめろ」と言ったりするのはお門違いだと思うし、ましてやガイドラインを制定して規制をかけようなどという議論に至っては言語道断。それこそ、逆の暴力というか、表現規制だと思うわけです。もし、「傷つく人がいるから報道するな」という理屈が通るなら、「嫌がる人がいるからエロ同人店に並べるな」という理屈も通さなければならないハズ。それはやっぱり、言論(更に広義には、表現)の自由原理主義者としてはまずいなーと思うわけであります。

しかし、もちろん今回のマスコミの態度は度し難いものがあるわけでございまして、それはそれで批判しなければならない。では、彼らは何をもって責められるべきか。もちろん、遺族の感情を無視したとか、手続きに問題があった(遺族との約束を破った)とか、さまざまなことがあるでしょう。メディア倫理の観点から、さまざまな意見が述べられていることは把握しています。

しかし私は、本質的に最も許しがたいのは、「実名報道」の責任を、死者に転嫁しているという欺瞞であると思います。たとえば報道ステーションでは何をトチ狂ったのかは知りませんが、「亡くなった方の名誉のため」に実名を報道すると言った。なんだそりゃって感じです。

ただし、ことわっておくと、なくなった方の人権を侵害しているとか、そういうレベルでの話ではありません。このあたりは議論のわかれるところではありますが、日本の現在の法律では原則的に死者に人権は認められておりませんので、マスコミが実名を報道するかしないかは、それなりに自由であろうと思われます。実感は措くとして、単に法的な問題として。

だからこそと申しますか、マスコミは、「われわれがやりたいからやった」と言えば良い――というか、そう言わねばならないと思うのです。それこそが、「表現の自由」を有する自らの責任において、言論を発するということです。それなのに、発言の責任を自分以外のところにおしつけてしまっている。「自由」を自分で放棄するつもりなのでしょうか。意味がわかりません。

そのくせ、相手を人間として扱わない(人権のない「モノ」として扱う)というのですから、これはもう、死者への冒涜でしょう。徹底的に。率直に言って、吐き気がします。

実名報道は、死者のためでも遺族のためでも、ましてや国民のためでもなく、マスコミがマスコミであるために行われたものであるべきです。その限りにおいて、マスコミが正当に権利を行使して実名報道を行ったのであると認められるのだと私は思います。

ただし。

こちらにも言論の自由はございますので、その行われた報道の内容については、自由に発言が許されるという前提ですが。

内容については文句を言う。けれど、発言する自由だけはお互いに認める(制度的な抑圧を行わない)というのが、正常に「表現の自由」が機能している場でしょう。だからこそ、マスコミの言説を批判する一方で、マスコミの言論を封じようとしてはいけないと、(表現の自由主義者の)私は思います。

まあ長々喋りましたが、要するに今回のマスコミの対応は死者への冒涜であって内容的にお話にならず、自分たちで言説に責任をもとうとしない報道者としてあるまじき態度をとっており、文字通りの意味で「最低の屑」なわけですが、しかしながら彼らもまた「自由」を保証されるべきではありますので、それを批判する私たちも、やりかたを気をつけないと自分の首を締めることになる(自分で言論を制限するようなロジックを組み立ててしまう)という、そんなお話でした。


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