ほうぼうで話題になっている、「iPhoneを使い始めた息子に、オリジナルの契約書を渡したお母さん」の話。
関連リンク:「13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より」
関連リンク:「13歳の息子へ、iPhoneの使用契約書みたよ。父からの秘密の助言書」
賛否両論巻起こっていたので私も読んでみたんですが、まあよくできてますよね。規約が実効性を持つかどうかではなくて、「この家では何が重要なできごとであるか」ということが、規約を通して伝わるようになっています。その意味で、私は教育的なメッセージとしてある程度成功していると思う。実際に機能するかどうかは、神のみぞ知るというところでしょう。
内容云々についてはたくさんの方が議論しておられるので特に新しいことは言えそうにないんですが、私が引っかかりを感じるのは別のところにあります。これ、「親から子へのメッセージ」としてはどうなのだろう、と。
お母さんのメッセージにも書いてある通り、これはまさに「社会へ出ていくための」、「契約書」として書かれています。でも、ルールの内容それ自体はこのお母さんの考え、つまり「家庭の」ことですよね。
何が言いたいかというと、私的な家庭の領域の話を、公的な社会の契約の話につなげてしまって良いのかな? ということです。
むかーし教育学の授業を受けた時にひとつの考え方として紹介されたのですが、家庭と学校は別の空間であるという論があるそうです。家庭には家庭のルールがあり、それは個人のパーソナリティーとして重んじるべきである。しかし、学校というのはそういう個人があつまって集団を作っている社会なのだから、そこでは相互にルールを決めてやりましょう、と。私は、これは結構もっともなことだと思うんですよね。家庭のルールと社会のルールは違っていて構わない。人間というのは公と私の両面で成り立っているのだ、と。
だから、なんというか今回みたいな話は、契約である必要が無いと思うのです。「お前は親が養ってやってるんだから、言うこときけ」とか、それじゃあ自立した瞬間から家庭のルールには従わなくていいのか? という話になっちゃいます。このiPhoneも似たところがあって、じゃあこの子が超売れっ子俳優で、自分でお金を稼いでiPhoneを買っていたら問題ないのかというと、そういう話ではないでしょう。
このお母さんの書いている内容というのは、一応は「子を思う母の」ものであって、社会的・一般的通年ではありません。社会における契約とは本質的にことなる。もっとエゴイスティックな、悪い言い方をすれば押し付けがましい「おうちのしつけ」です(先日の私の記事で言えば、バスを降りるときにありがとうと言うとか)。そして、この子にiPhoneの使い方を云々する根拠というのは、「あなたは私の息子だから」で十分だと思う。十分というか、それ以外は嘘になるというか。
このような「しつけ」が、社会における契約とは別のところで個人を支えるバックボーンになるのでしょう。そういうものを「契約書」にするということは、子どもも「契約」が何であるか誤解する可能性があるし、また本当に伝えたい母からの愛情とかメッセージとかも歪んでしまう可能性があるわけです。
実際、「子どもがこのルールを守るか」みたいな議論がこれを読んだ人の中から起こっていたけど、「契約」だったらその履行性が問題になるから当然ですよね。でも、本質的にはこのルールは、完璧に遵守されることを目指されたものではないと思うんですよね。もっと根本的な、ものの考え方みたいなのを伝えようとしている。そして今回の騒動が浮き彫りにしたのは、「契約書」にしたことでその部分はわかりにくくなったということではないかと思います。
家庭内の関係を「契約」に解消してしまうということで、私的な領域というか、契約なんかとは無関係に成り立っている関係を矮小化してしまうのではないかと、ちょっとそんなことを思ったのでした。繰り返しますけど、内容がいいかわるいかとは別の話として。
私はやっぱり、こういう「契約書」を親から与えられたらがっかりするかな……。
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関連リンク:「13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より」
関連リンク:「13歳の息子へ、iPhoneの使用契約書みたよ。父からの秘密の助言書」
賛否両論巻起こっていたので私も読んでみたんですが、まあよくできてますよね。規約が実効性を持つかどうかではなくて、「この家では何が重要なできごとであるか」ということが、規約を通して伝わるようになっています。その意味で、私は教育的なメッセージとしてある程度成功していると思う。実際に機能するかどうかは、神のみぞ知るというところでしょう。
内容云々についてはたくさんの方が議論しておられるので特に新しいことは言えそうにないんですが、私が引っかかりを感じるのは別のところにあります。これ、「親から子へのメッセージ」としてはどうなのだろう、と。
お母さんのメッセージにも書いてある通り、これはまさに「社会へ出ていくための」、「契約書」として書かれています。でも、ルールの内容それ自体はこのお母さんの考え、つまり「家庭の」ことですよね。
何が言いたいかというと、私的な家庭の領域の話を、公的な社会の契約の話につなげてしまって良いのかな? ということです。
むかーし教育学の授業を受けた時にひとつの考え方として紹介されたのですが、家庭と学校は別の空間であるという論があるそうです。家庭には家庭のルールがあり、それは個人のパーソナリティーとして重んじるべきである。しかし、学校というのはそういう個人があつまって集団を作っている社会なのだから、そこでは相互にルールを決めてやりましょう、と。私は、これは結構もっともなことだと思うんですよね。家庭のルールと社会のルールは違っていて構わない。人間というのは公と私の両面で成り立っているのだ、と。
だから、なんというか今回みたいな話は、契約である必要が無いと思うのです。「お前は親が養ってやってるんだから、言うこときけ」とか、それじゃあ自立した瞬間から家庭のルールには従わなくていいのか? という話になっちゃいます。このiPhoneも似たところがあって、じゃあこの子が超売れっ子俳優で、自分でお金を稼いでiPhoneを買っていたら問題ないのかというと、そういう話ではないでしょう。
このお母さんの書いている内容というのは、一応は「子を思う母の」ものであって、社会的・一般的通年ではありません。社会における契約とは本質的にことなる。もっとエゴイスティックな、悪い言い方をすれば押し付けがましい「おうちのしつけ」です(先日の私の記事で言えば、バスを降りるときにありがとうと言うとか)。そして、この子にiPhoneの使い方を云々する根拠というのは、「あなたは私の息子だから」で十分だと思う。十分というか、それ以外は嘘になるというか。
このような「しつけ」が、社会における契約とは別のところで個人を支えるバックボーンになるのでしょう。そういうものを「契約書」にするということは、子どもも「契約」が何であるか誤解する可能性があるし、また本当に伝えたい母からの愛情とかメッセージとかも歪んでしまう可能性があるわけです。
実際、「子どもがこのルールを守るか」みたいな議論がこれを読んだ人の中から起こっていたけど、「契約」だったらその履行性が問題になるから当然ですよね。でも、本質的にはこのルールは、完璧に遵守されることを目指されたものではないと思うんですよね。もっと根本的な、ものの考え方みたいなのを伝えようとしている。そして今回の騒動が浮き彫りにしたのは、「契約書」にしたことでその部分はわかりにくくなったということではないかと思います。
家庭内の関係を「契約」に解消してしまうということで、私的な領域というか、契約なんかとは無関係に成り立っている関係を矮小化してしまうのではないかと、ちょっとそんなことを思ったのでした。繰り返しますけど、内容がいいかわるいかとは別の話として。
私はやっぱり、こういう「契約書」を親から与えられたらがっかりするかな……。