今日、私の近辺でひと騒動ありましたのでその話。さすがにそのまま書くと万が一の素性バレがあるから少々ぼかして書きますが、だいたい次のようないきさつです。

私のいる部署のA氏がオーストラリアに行ってきたらしく、何やらお土産のお菓子をもってきた。それを配っているときに、B氏も誘った。その誘い方が無礼だ、といってB氏がキレた。どうも、「君も一緒たべますか?」のような誘い方をしたらしい。B氏のこたえて曰く、「そんな嫌々誘って頂かなくて結構です」と。そんなアホな。

今回の件はさすがにB氏が短気すぎたし、またそれゆえ、ほとんど回避不可能なトラブルだったとは思います。誰もそんなところに地雷埋まってると思いません。A氏とB氏どちらの肩を持つかと言われたら、A氏です。

しかしB氏の主張を聞いて、まあなるほどそういうこともあるかもしれないと納得するところもありました。私がA氏の肩を持つのはあくまでB氏がキレたからであって、B氏の言い分に全く理がないとも思われない。後でA氏と話をしたとき、A氏も「うん、まあ僕にもちょっと至らないところがあったねえ」と言っておられた。

「~しますか?」という訊ね方は確かに、(自分はどっちでも良いけど)君がやるなら勝手にしても良いよ、という相手の判断だけを訊いているようにもとれます。相手のアクションを待って、自分は受け容れるだけという態度。偉そうと言われればそう見る人がいてもおかしくはない……かもしれない。今回の件で言えば、「食べますか?」というのは別に食べて欲しくもないけど食べるならどうぞ、のように聞こえたということでしょう。

一方「~しませんか?」なら、これはただしく勧誘です。そして「~してくれませんか?」なら、お願いになる。

あ、結果的には幸い周囲のとりなしもあってB氏は矛を収め、この一件は収束しました。ただ、言い方一つで随分と印象というのはかわるものだと痛感するできごとで、妙に心に残った。言葉に敏感な人や、必要以上に神経が敏感になっている人というのは、ひとことにこだわるものだから気をつけなければならないな、とも思います。

少し話はずれるのですが、他人に対して、その人のミスや短所を指摘するときというのは、「言い回し」にもの凄く気を遣います。私はどちらかというと八方美人、全方位謝罪外交でとにかく角が立たないようにしたいタイプなのであまりそういうこと(他人の短所の指摘など)をしないのですが、それでも本当に仲の良い相手には言うことがあるし、また仕事柄どうしても言わなければならない時もある。

そして私は、割と口数が多い――というか、余計なこと言いです。

放っておくとあれこれいらないことを口走り、それが聞く側にとっては不快に感じることもある。たとえば、「いや、君もわかってるかもしれないんだけど、これおかしいよね」と言うと、私としては「わざとやっている」可能性を考慮して気を遣ったつもりが、聞く側にしたらもったいをつけたり、あるいは「こんなの間違えるなんてわざとじゃなきゃよっぽどのバカだよね」と嘲っているように聞こえることもあるようで。なるほど、自分が言われるとそう思うかも知れません。

もちろん対面なら口調や態度、目線なんかもあるから一概に誤解されやすいとは言わないけれど、文字媒体になるとそのあたりの「空気感」の伝達率は急激に落ちる。そのせいで、いらぬ誤解を招いたりもします。しかも内容が、その相手にとって耳の痛い内容なら尚更でしょう。

たとえば、ツイッターをやっていると時々お友達からスパムメールが送られてきたりします。そういう時、何と言って伝えるか。こういうのでも、言い方一つで気まずくなったり、下手をすれば喧嘩になったりということもありえます。

それなら、そんな苦労をして諫言などしなければ良いじゃないかと言われるかも知れません。それはまあその通りなのですが、自分にひきつけて考えてみると、諫言というのはあってほしいとも思うんですよね。

もちろん、諫言は耳が痛いものです。でも、それ以上にありがたいことのほうが多い。たとえば上に述べた私のしゃべり方の「短所」というのは、長年の友人から指摘された内容。自分では漠然と思っていても目を背けていたり、はっきりと気付くことができなかっただろうことを、誰かに言われて自覚するというのはよくあります。スパムにしても、もし誰からも教えて貰えなかったら、自分がウィルスにやられたことを自覚せずに過ごしてしまうかもしれません。

そのようなことを思うと、諫言のありがたみも解るのではないでしょうか。どうでもいい人間関係ならともかく、もし誠実に相手と付き合おうと思うなら、ある程度率直に指摘する必要がある。相手をなぶったり叩いて自分が気持ちよくなるのではなくて、自分もできれば言いたくないようなことを、それでもあえて言ってくれる。そういう友達は得難いし、また自分もそうなれたら良いなと思う。

私に諫言してくれた友人の話をすれば、彼は他の人にもなかなか手厳しい――けれど的確な指摘をしては、ウザがられています(笑)。ただ、私は彼を凄く良い奴だと思う。なぜなら、彼はウザがられているのを承知で、自分が思う欠点を伝えてくれるから。それも、感情的な話ではなく、理路整然と(それがまた、言われる側からすれば腹立たしいのだろうけれど)。

私も彼に何とか「お返し」(二重の意味で)をしたいと思い、彼の言い方がキツイ、ということを指摘したことがあります。実際彼も気にしていたようで、「じゃあどういう言い方をすれば良いだろう」と二人して話し合い。その時は結論がでなかったのですが、最近になってなんとなく判ってきた気もします。

1.自分の事情は極力言わない。
まず、自分の話はしない。たとえば、「私は煙草嫌いなので、ここでは吸わないでください」というのは、ケンカを売っているようなもの。「私」のところに一般的な「人」を代入しても通用する場合にのみ、「私」は具体例として使う意味が出ます。

2.指摘を受け容れることのメリットか、受け容れないことのデメリットを言う
その指摘が相手にとってどんな意味を持つのかを明らかにする。おしつけがましいですが、そもそも忠告やら諫言やらする時点でおしつけなので、そこは諦めるしかないですね。逆に説明できるなら、相手にとってはどうでもよさそうな指摘は破棄できるので、いらぬ火種を回避できるかもしれません。

3.指摘することで自分が上位に立ったなどと思わない
これは心構えの問題。やっぱ態度にも出ます。相手にそう受け取られるのはある程度仕方ないにしても、自分はそういうつもりはない、と極力配慮していれば、相手にも伝わることが多いです。卑屈に言う必要は無いけれど、必要以上に挑戦的・高圧的に言う必要も無いよねということ。

4.逃げ道を残す
諫言というのは当然、素直に聞き入れ難い雰囲気になることが多いわけで、それを踏まえた上で「そんなの絶対におかしいよ」のように相手を全否定するともめやすい。「こういう考えがあって、こっちのほうが良いことが多い」くらいに止めておくのが無難です。

だいたい上の4点のうち、2つくらいをクリアーしていればそれほど大きな問題は起きない……と思います。経験上。それくらい心を砕いて、またエネルギーと勇気を振り絞って指摘しても、ただケンカを売っているようにしか受け取って貰えなかったのなら、それはその相手と縁がなかったのだと諦めるしかないとも言えます。自分なりの誠意を、誠意と受け取ってくれない相手というのは馬が合わないということですしね。

まあ何にしても、言い方一つで人間関係が円滑に機能するならそれにこしたことはありません。私としてはその辺で上手く感情と理性をコントロールしながらコミュニケーションをとって行ければな、と。

まとめになるかわかりませんが、自己主張とセットになっていない忠告・諫言をしてくれる友達というのは、本当に貴重。もし周りにそう言う人がいたら大事にするのが良いと思います。的確に人の特性や長所短所を見抜き、しかも「余計なお世話」を焼いてくれる友人ほど得難い宝物は無いのですから。

というわけでいつも通り変なところに着地しておしまい。また明日、お会いしましょう。

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