目下、今年の話題作の一つとなっている『古色迷宮輪舞曲』。しばらく品切れ状態が続いていたのですが、再入荷も始まり入手の機会があったようです。先日『白神子』の話をしていた友人もその機会に購入・プレイしたそうで、ちらちらと感想の言い合いをしました。その時に彼が、「こっちのほうが(『白神子』より)、90年代のエロゲーっぽいけどな」と、そんなことを口走った。これのどこが90年代!? と一瞬ぎょっとなったのですが、話をきくうちに、その言い方が果たして正しいのかどうかはともかく言わんとすることが分からないでもないな、と思いました。

※割とどうでも良い追記:会話をしていた友人であるM氏から物言いがつきまして、曰く「僕は(インターフェースの悪さが)DOS時代を思い出すとしか言って無くて、90年代がどうこう言い出したのはOYOYO君のはずだ」と。どうも私とM氏のクオリアが違っているようです。私の記憶ではこのままなので、訂正はしませんが、一応そういう話があったということだけ。(2012.08.24)

『古色迷宮輪舞曲』というこの作品は、確かに古いかもしれない。ただしそれは、絵柄とかシステムとかそういう問題ではなくて、底を流れる精神の話として。

「古い」と言ったのはむろん、貶したいからではありません。この作品のタイトルは「古色迷宮輪舞曲」(ふるいろめいきゅうロンド)。ですが、舞台となる喫茶店「童話の森」の店主・舞がアンティーク趣味であることなどを考慮すれば、「古色」はむしろ「こしょく」(patina)と読みたくなる。「古色蒼然」や「古色古香」の、「古色」です。古びた建物や焼きものや街並みが、張りつめた美しさをたたえ、匂い立つような色気を孕むことがあるように、古さというのは必ずしも新しいものに劣ることを意味しないでしょう。むしろ、古き良き時代、というイメージで語られることも多いものです。

では、友人や私が感じた、本作の精神の「古さ」とは何か。なかなか言葉にはしづらいのですが、敢えてひとことで言うならそれは、「挑戦的」というのが近いでしょうか。

もちろん他の多くのブランドも創意工夫を繰り返し「挑戦」しているということは理解しているつもりです。「古色」だけが特別ではない。そりゃそうです。ただ、今回は「古色」が売れた理由分析とか作品のレビューのつもりじゃないのでご容赦下さい。「古色」の売れ方とか認められ方、自分の抱いた感想なんかをもとにした雑感みたいな感じで書いていきます。

繰り返しになりますが、90年代のエロゲー的という言い方が必ずしも適当かどうか、私には分かりません。80年代には黎明期の熱気があったのだろうし、2000年以降もさまざまな形で力の入った作品が世に送り出されている。そもそもまだ30年ほどしかないエロゲーの歴史を、10年単位で区切って何か述べるのは大ざっぱに過ぎる、という人もいるでしょう。そりゃあまあ、ごもっともな話です。それに、あんまり90年だ何だと言うと、懐古厨乙、と一笑に付されるかもしれない。

ただそれらを勘案しても、90年代はPCゲームにとって、技術的に激動の時代だった。そのことは事実としてあると思います。

8ビットから16ビットへ、フロッピーからCD-ROMへ、そしてMS-DOSからWindowsへ。プラットフォームが大きく動くということは、それだけやれることが増えるということです。もちろん、客層だって変化する。その中で各エロゲーブランドは、どんなゲームを作ればいいか暗中模索の状態でした。(16ビットは正確にはもうちょっと前ですが、定着し始めたのがこの頃ということで大目にみてください)

けれど、「何をして良いかわからない」ということは、裏を返せば「何をしても許される」空気でもあったわけです。また、まだまだ生まれたてだったこのジャンルにおいては、ぶっちゃけ何をやっても新しかった。そんな事情が重なったこの時代、後のエロゲーに多大な影響を与えるような名作と呼ばれる作品はもとより、あまりの奇抜さゆえに全く後に遺伝子を残すことなく消えていくような作品まで、数々の「意欲作」が雨後の筍よろしく生みだされていました。私がエロゲーを買い始めた頃には、80年代後半から90年代前半のそういう激動の「余震」が、時代依存的な独特の熱気が、思い返すと確かに存在していた。(※1)

一山あててやろうという野心とか、面白いものを作りたいという情熱とか、人と違ったものを作ろうという個性主義とか。言い方はいくらでもあって、まぁたぶん、どれでも良いでしょう。私自身は全てをリアルタイムに経験したわけではないけれど、熱量を肌で感じる機会には恵まれたのだと思います。そして本作から友人と私が感じたのは、たぶん「そういうもの」。

実際のところどうなのかという客観的なデータ無しに語るので、随分いい加減な印象論ではあるのだけれど、古いエロゲーマーの方と話しをしていると、最近のエロゲーが「停滞」している感じがある、という話を多く耳にします。人によって言葉はさまざまですが、どれも売上的に行き詰まっているというような単純な意味ではなく、ノベル形式や三行ウィンドウで選択肢を選んで文章を読むだけのADVゲームの勢力が強くなりすぎだという感じ。共通するのは、マンネリズムに陥り業界の多様性や推進力が失われつつある、という危機感のように私には聞こえます。

ただの懐古趣味。そう言われればそうかもしれません。ですが、私の感覚に照らしあわせても否定しづらい。今の主流は間違いなく読みもの系のADVで、その生産はさながら自動作用によって成されているのではないかという錯覚を覚える時が、ままあります。

そんな中登場した『古色迷宮輪舞曲』は、非読みもの系のADVとして、斬新なシステムとその難度がまず話題になりました。選択肢を排したキーワード入力、運命量の増減によるシナリオ分岐とは関係のないキャラクターの生死、並行世界の現象を移動してチャートを埋めていく運命図……。ADVでありながらただの読みものではない、というのは、上に述べたような問題意識を持つユーザーにとってなかなか刺激的な、思わず手を叩きたくなるような魅力に満ちています。

けれど、たとえばキーワードの入力ウィンドウは操作しづらく、入力のタイミングは異様に分かりにくく、しかもシビア。また、キーワードが初出のシーンを見ると既読判定がリセットされるのも不親切。(※2)作品を貶したいのでも、評価している方の揚げ足をとりたいわけでもないのであげつらうのは止めますが、とにかく私は本作のシステムがそれほど良いとは思いませんでした。(※3)

しかし、にもかかわらず私は、本作を簡単には切り捨てたく無い気持ちを抱きました。何というか、妙に愛嬌がある作品なのです。

本作を不親切に感じた、あるいは少なくとも洗練されてはいないシステムだと感じた人が少なからずいることは、WEB上に出ている感想を見ていれば分かるでしょう。それでも本作は、口コミで評判が広がり、メーカーの在庫がすっからかんになるくらい売れた。他の人の評価の真意は想像の域を出ませんが、私と似たような気持ちを抱いた人もいたのではないかと思います。実際、「エロゲー批評空間」のレビューの中には、作品の出来映えそのものの完成度は低いという留保をおいたうえで、作り手の「情熱」やPCゲームにおける「意義」といった視点で本作への評価を行っているものが少なくない。それはこの作品が、単に完成度という一点から機械的に切り捨てられることを惜しいと思う、そういう愛着の為せる業と言って良いはずです。本作には、ユーザーにそういう思いを抱かせるような熱が籠もっている。

なぜ本作が売れたのか――私の興味は、そういうマーケティング戦略的なところには無いし、分析する能力も持ちません。注目したいのはむしろ、不満があるのに何となく許したくなってしまうような――不満にもかかわらず楽しいと思えるような、「愛嬌」の部分です。私はそれが、新しいこと、他と違うことを盛り込んでいこうという気概に依るものだと思う。「挑戦的」と最初の方で言ったのは、そういう意味です。何か、「これおもしれーだろ!」とか、「この発想は無かったでしょ、どうよ!」みたいな、新しいものを目指しつつ自分たちも楽しんでいる、そういうノリがある。

もちろんこれは憶測です。実際は全くかけ離れた拝金主義的欲望や、間に合わせの手抜き企画であるかもしれない。けれど、もしそれだけならわざわざこんな七面倒くさいシステムを組んで出す必要はなかった。普通のADVを出せばいくらでも誤魔化しが効いたし、それが嫌ならどっかのブランドがやっているネタを拝借すれば良かったわけです。でも、そうならなかったという事実はやはり、重く受けとめたい。

何より、本作のシステムは基本的につぶしが効かない。これがヒットしたからと言って、何シリーズも似たようなのを出すわけにはいかないことくらい、すぐに分かります。いやまあ、あと1本2本はアリかもしれませんが、汎用性は明らかに低い。システムをウリにする必要のないADVでこういう設計をすること自体、効率や商売っ気を飛び越えてやっているということなのではないかと。もし打算だったとしても、ここまでやってくれたら満足ですし。

本作の前にYatagarasuというブランドが作っていた『ObsceneGuild』や『闇夜に踊れ』、『テンタクルロード』(処女作の『ココロの住処』はプレイしていません)といった作品もまた、「普通の」ゲームから距離を取ろうというさまざまな工夫が詰まっていました。私がプレイしてきたYatagarasu作品にはどれも、何か新しいものを作ろうという姿勢が貫かれていた。姉妹ブランド48Teの新作はボロクソ言いましたが……。ともあれ『テンタクルロード』までさほど面白いと思わなかったこのブランドの作品を、なおも買い続けたのはそのためです。

ちょっとしたことであっても、「工夫」した新しい作品を出すというのは難しい。考え、作るのに手間も時間もかかるし、そもそも自分が面白いと思うビジョン、やりたいことが無いとなかなかアイディアも出てきません。そのくせ、必死にひねり出して自信満々で送り出しても、ウケる保証は無いときている。自分も文章を査読されることがあるので気持ちはわかるのですが、決められたフォーマットに沿って書くときのほうが、よほど楽です。他と違ったものを書き続けるというのは、簡単なようでいて実はかなりの精神力を要求される。

ただ同時に、それでは自分が面白いとはなかなか思えない。少なくとも、自分が書きたいものを書いている時ほどの勢いは無いし、逆に言えば書きたいものを書いているからこそ、うまくいかないのが悔しくて悩むし、受け入れられないのが怖くて怯えるわけです。フォーマットに沿って適当にこなしていればなんとかなる文章というのは、そういうプレッシャーが無いかわりに、気持ちのノリも無い。書いているうちに楽しくなってくることもそりゃあありますが、まあ基本的には作業のように処理していく感じになります。私はゲームを創ったことが無いので確かなことは言えませんが、およそ創作である以上、似たようなところがあるのではないかと想像します。

だから、敢えてその困難を引き受けるブランドというのがあっても全然驚かないし、むしろ応援したくなる。そして業界を眺めてみると、新しいものを創ろうとして成功した――たとえばエウシュリー、ソフトハウスキャラ、九尾のようなブランドもあれば、見向きもされずに消えていった有象無象もあるわけです。というよりも、圧倒的に後者の方が多いですね。正直、Yatagarasuもそんな消えていくブランドの一つになるかな、という危惧はあったのですが、今回のブレイクによって風向きは変わるかも知れません。否、変わって欲しいと願いたいところです。

ヒットするブランドと消えていくブランドの差がどこにあるか。それは分かりません。良い物を創れば必ず売れる、という世界でも無いでしょう。ただ、「新しいもの」を創ろうとしているブランドが、チャンスを掴み、自分たちのやりたいこと、やってきたことが評価されるというのは、作り手・ユーザーを含めて歓迎すべきことのようにも思います。他にもそういうブランドは、どんどん注目されてほしい。

誤解のないように断っておきますが、私は本作が単に、選択肢形式の読みものゲームで無くしたから良い、と言っているわけではありません。ノベル系ADVを創っているブランドでも、ういんどみるやLatte、HOOKのように次々と新しい試みをしているブランドというのはある。読みもの系のゲームか否かということは確かにシステムを巡って大きな議論が期待されるし重要な問題をいくつもはらんでいるところではありますが、そこに問題を落とし込むことは、今回の記事を書いた私の本意ではない。

『古宮迷宮輪舞曲』は、ノベル形式のエロゲーに飽き、ゲーム性重視のものを待ち望む人にとっては福音に見えるかも知れません。けれど本作を単に手法やスタイルの問題に還元しても、本作のもつ可能性や魅力の説明としては足りないようにも思われます。本作に業界の停滞を打ち破り、発展をもたらす力があるとするならば、表にあらわれているシステム故にではなく、その精神故にではないでしょうか。そしてそれは、この作品だけではなくYatagarasuというブランドの底を流れているものと考える方がいいかもしれない。たとえ本作が一代限りのパイオニアで、この後に似たようなシステムのものが根付かなかったとしても、作品の持つ力は変わらない。私はそんな風に思うのです。

というわけで今回は、普段あまりしない作品外在的な(内容とは直接関係のない)ことを喋ってみました。きっかけは、「なんでこれをそんなにプッシュするの?」と訊かれたことで、まあ作品の内容も好きと言えば好きだけど、推す理由はそれだけでも無いかな、と。作品のデキとか内容の話ではないので、だからこのゲームが良いんです! という話では全然ないんですけどね。お薦めする理由でもないし。単に、ブランド好きですみたいな感じでしょうか。

文章を圧縮するためにカットした部分がだいぶあるので、蛇足かも知れませんが以下にちょっと註釈的なことを書いて補足しておきます。

暑い日があと二週間は続くということなので、皆さまくれぐれもお体にはお気を付け下さい。それでは、本日はこの辺で。また明日。

《補足》
※1……たとえば、エロゲーのRPGシリーズとして有名になる『ドラゴンナイト』一作目は89年。『闘神都市』が90年。かの『同級生』が92年。格ゲーというジャンルは『人形使い』(92年)、『V.G. -ヴァリアブル・ジオ-』(93年)あたりのヒットで軌道に乗った感じがある。94年には『愛姉妹』(シーン回想の導入)、『Libido7』(抜きゲー、エロ声CD)、『EVE burst error』(ザッピング)や『学園ソドム』(時間制限)など、その後のジャンルの礎となるような作品が出た。そして、『野々村病院の人々』、『鬼畜王ランス』、『雫』、『Pia キャロットへようこそ!』、『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』はどれも96年。今みると凄いラインアップ……。以前紹介した「パニックドールズ」もこの年。都市経営SLGという一風変わったチャレンジをした『めい・king』(98年)というのもあった。そして、今もトリッキーなシステムが話題にのぼる『書淫』がでたのが丁度2000年のことである。知っているソフトをずらっと並べただけ、といわれそうだが、一応それなりに系統の違いは見えるのではないかと思う。

斬新なんだか奇抜なんだか良くわからない路線としては『あゆみちゃん物語』(実写版)や、まさかのグロ系18禁『ネクロノミコン』(クトゥルー神話が題材です。20年早かった……)。プレイしたことはないが『吉永サユリがやってくる』、絵柄もさることながら工事現場でひたすらクリック連打を強いられる『Theガッツ!』のような(今度新作がでるようだが、やはり多くの人が驚いている)、脳みそのどの回路を使ったらこういうデキになるんだろう? という作品もこの頃は大量に溢れかえっていた。

明確に「90年代的」という区切りをつけることは難しいし、そもそも意味がないとは思うものの、今とはだいぶ雰囲気を見てとることはできないだろうか。特に、システムとシナリオを連動させる、というのはこの時期多くのブランドが意識したテーマだった。それだけに、マルチシナリオの中で矛盾無く流れが解決できる、といったような整合性・ギミックの巧みさなどに評価が偏ったゲームもあった。

一部の上澄みは別として全体としてはお世辞にも洗練されていたとは言えないし、もちろん平均的なクオリティーは今と比べるべくもない。だが、フリーダムというかカオスというか、意味不明な勢いと活気があった、と私は思う。まあ、本当にただの印象論以上のものではなく、懐古厨のたわごとと言われても仕方がないので、あまり真に受けないほうが良いかもしれない。
※2……私が評判を見る限り、「難しい」と不満が多いのがキーワード。「わかりにくい」というのが運命量。そして「無駄に煩雑」だと不評なのがチャート移動というところ。

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公式HPのシステム紹介。

チャート移動で特に問題視されているのは、「各ブロックの移動には必ずリスタートポイントを通らなければ」ならないというルール。なるほどこのせいで、事象移動が飛躍的に面倒になっている。ちょっと下に図を描いてみたのだが、要するにポイント(1)からポイント(2)に移動するには、「ポイント(1)→リスタートA→リスタートB→ポイント(2)」というふうに、合計3回の移動をしなければならないということである。

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移動のイメージ図。

しかも、リスタートポイントを必ず経由する意味があるかというと、これがシステム的には余り無い。リスタートポイントを経由する移動と、普通のイベントポイント間の移動コストの違いというのは確かにあるのだが、それなら差を織りこんだ移動コストを設定すれば良いだけの話で、ワンクリックで飛べない理由にはならない。これが、リスタートボタンからイベントポイントへ飛べないというのなら、不便さはますもののまだ意図が理解できなくもないのだが。

ドラクエで言えば城と城の間でルーラを一回、その城のある大陸の街に移動するにはもう一回ルーラを使わないといけない、という感じ(距離によってMP消費量が変わるから厳密には少し違うのだが)。それなら最初からルーラの消費MPを倍に、城に行くときは半分で済むようにして一発でどの場所にでも飛べるようにしてほしい。城を経由するワンステップに何の意味があるのか……そう考えればまあ、不満はとても納得できるだろう。

※3……もちろんこれらのシステムにはある種の必然性があり、それを踏まえれば美しい完成度を誇っていると言えなくはない。そのような主張があることは承知しているつもりだし、なるほどと唸らされる部分は多々ある。だが、敢えて踏み込んでみると二つほど看過できない疑問が出てくる。

まず、必然性があるシステムが「ゲーム」にとって必ずしも良いことだとは限らないということ。たとえばの話、剣を振り回してモンスターを倒す行為のリアリティを追求するために、重さ10kgもある鉄製の剣の形をしたコントローラーを振り回さないとクリアーできないRPGがあったとしたら、そこにはなるほどシステム的「必然性」はあるかもしれないが、誰も喜ばないだろう。あるいは、「魔王の賢さを強調したかった」といってアリアハンからアークデーモンが襲いかかってくるドラクエだったら、ユーザーはコントローラーを投げ捨てるしかない。ゲームはエンターテインメントである。このイロハを忘れて「作り手の意図」の名のもとにユーザーに過度な負担を強いてしまっては、身も蓋もない。果たして本作のシステムは、良き「ゲーム」たり得ていただろうか。

もう一つは、この完成度が言うほど美しくもないのではないか、ということ。たとえばキーワード入力のタイミングが異様にシビアなのは、「行人」の視点に沿った話として解釈すれば納得はできる。だが、「行人」に寄りそうならば各人の「運命量」は見えないはずで、そこに齟齬が生じる。また後半、ある事象へジャンプすることが求められたとき、リスタート地点を経由しなければ事象を移動できず、作中では無かったことになる無駄なワンクッションが挟まれてしまう。


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