七月になったし、お昼間だし、たまにはそれらしいことを書いてみようかな、などと思ったのですが、よく考えると「それらしい」話を意識的に書くには、それを上回る大きなものを捉えてないといけないわけで、そもそも私にはそれが無理。

それならまあ、普段ツイッターやってる感じで、何かワンアイディアを手短に書いてみようかと。普段から話が長い長い言われますし。

で、ちょっと気になっていたので広げてみたいのが、「抽象」と「捨象」の話。

辞書なんかを引くとこの2つ、似たような意味の語として扱われています。

大辞泉曰く。
抽象 【名】スル 事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。→捨象。(反)具象。

捨象 【名】スル 事物または表象からある要素・側面・性質を抽象するとき、他の要素・側面・性質を度外視すること。→捨象

この説明によれば、抽象化の過程に捨象という行為がある、ということで、捨象はプロセス、抽象は結果、のような書かれ方をしています。WEBの世界を眺めてみても、こちらや、こちら、あるいはこちらなどでも色々異同が話題になっていますが、基本的には目指すところは変わらない、という認識のようです。

しかし、辞書的な意味はともかくとして、実際のところ抽象と捨象は全く違う作業であると思われます。

捨象というのは文字通り、象(かたち)を捨てることです。現実というのは非常に複雑な、私たちの認識ではくみ取りきることができないさまざまな相を持っている。そのさまざまな相=象(かたち)を切り捨てて、見えやすい形に整えること。これが捨象のイメージです。たとえるなら、植木の剪定作業のようなものでしょうか。

一方抽象というのは、象(かたち)を抽きだす(ぬきだす)ことです。それは、複雑な相を持った現実の、何らか本質的なもの――という言い方が否定神学的だと言うならば、自分の視点にとって最も肝心と思われるものを選び、その核心だけを取り出すことです。この場合、とりだされたものは全く形が変わっている可能性もあります。

植木で言うなら、「この植木の美しさはこの枝一本で尽きている」と思えばその枝だけを取り出せば良いし、「植木の美しさを言葉にした」でも構わない。古人が、美しい桜を前にその枝を折ったり、あるいは歌を詠んだりしたというのは抽象であって捨象ではない。抽象画が捨象画と呼ばれないのは、単なる慣用の問題ではなく、やはりこの2つの語の意味の異なりがどこかで看取られているからではないでしょうか。

もちろん辞書にこんな意味は載っていないのだから、私の話はアホなことを言っているようにしか見えないかも知れません。それならそれで構わない。笑って下さい。

けれど、私たちの現実の行為として考えた場合、やはり上記のような違いはあると思います。つまり、ものごとを単に整理して見やすくすることと、そのものごとの本質的な部分をぬきだして突き詰めることと。

私はよく、「物語は抽象だ」と言います。これは、私の意識の中では、捨象と使い分けて言っているつもりです。

物語が捨象であるならば、それは劣化した現実でしかありません。そして、物語に単純な現実との対応関係を求める多くの議論は、物語を捨象として見ているように思われるのです。それゆえ、物語を楽しんでいる人というのは、本当は残酷だったり受け止めづらかったりする現実から目をそむけ、都合良くととのえた空想の世界に逃げ込んでいる人だと非難される。

確かにそういう物語もあるでしょう。そもそも、言語で語られるものである以上、物語の世界は現実そのものではありえない。それは認めます。けれど、現実のとある「象」の本質的な部分に極限まで迫った結果、まったく形がかわってしまう場合というのも、ありえるのではないでしょうか。現実にはありえない言葉や行為も、実はある現実の「象」をつきつめた結果、そのような「形」で表現するのが伝わりやすいと思ったからかもしれません。そこには単純な対応関係は無いけれど、ある意味で現実よりも現実らしい、「超」現実的な世界が存在しているのです。

物語の世界は、独立した抽象的観念の世界である。これは物語と現実との単純な対応関係の否定です。物語は現実の写し鏡であって、物語の向こう側に現実があるわけではない。それが全てではないにせよ、感性なり理性なりで捉えられた現実の「象」を、超え出ていくようなものとして物語はある。

つまり、物語を書き、読み、楽しんでいる人というのは、誰よりも現実を鋭く見つめている可能性だってあるのではないか。少なくともそういうものとして物語を考えても良いのではないかと思うのです。

結局物語がどうこうという話になりましたが、今日はそんな感じで。それでは、また明日。

このエントリーをはてなブックマークに追加