◆前記事1 「それでもエロゲーをやめない僕へ1 ――物語の自律性」(5/31)

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さて、これまで私は、作品と受け手との固有性が交流する場として物語を考える、という話を続けてきました(ひと言でまとめてしまった)。そのような物語を、以後便宜的にですが、〈物語〉と呼ぶことにします。カッコつきの文字を使うって専門家っぽくてカッコイイですよね!

【審議中】
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……話をエロゲーへ繋げるにあたってさしあたりの問題は以下の三つ。

(1) エロゲーというのは〈物語〉なのか。〈物語〉の要素が一部に入っているとしても、本質的に〈物語〉と見て良いのか。
(2) 〈物語〉の形式というのはエロゲーに限られるわけではないはずだ。殊更にエロゲーだけ取りあげるのは何故か。
(3) もし(1)、(2)をクリアーできたとして、ではエロゲーが〈物語〉だというのは、結局どういうことなのか。

今回はそんなにヤヤコシイ話にする予定もありません。ざっくりと参ります。

まず(1)について。これは、〈物語〉で良いじゃん。え、それじゃダメですか?

だって、エロゲーってまあ言ってみれば観念的セックスをしてるわけですよ。想像とか空想で性交するというのは、これはもう、高度観念世界でしょう。もちろん、シナリオ特化の作品だけじゃなくて抜きゲーも含めて。というか、私的には抜きゲーのほうが観念の度合いが高い気がします。

文学基準で「高尚」なのはシナリオゲーかもしれませんけど、よくよく考えてみると、現実で遭遇したら笑っちゃうようなアヘ顔ダブルピースとか、みさくら語(卑語)とか、触手とか、これを観念と呼ばずして何と呼ぶのか。フツーにオナニーのネタにして性欲を満たすだけなら不要に思われるような迂遠なプロセスを膨大に付属させる抜きゲーを、その使用目的が結局の所性欲解消だからといって使い捨てツール扱いするのは、少々なめすぎです。

もちろん結果的に(*´Д`)ハァハァするのが目的で良いんですけど、その為にどれだけ膨大な労力を使ってプロセスを構築しているか。その差を見ないと、エロゲーにも、同じようにオカズになっているエロ本やエロビデオにも失礼というものでしょう。結果だけで言うなら、サラリーマンってのは会社に勤めてお金を貰う人ですが、そんな表面的で薄っぺらい分類がその労働の本質には何の意味もないことくらい、小学生でもわかることです。

〈物語〉というのは単なる肉づけされたシナリオという意味ではなく、独立に構築された観念の世界でした。そして、性的興奮にプロセスを付けようというエロゲー的な想像力というのは、その時点で既に単なる性欲処理ではない。性欲処理の道具であるとしても、そこには介在する〈物語〉があるのだと言えましょう。シナリオゲーの場合はわざわざ説明しなくても〈物語〉であると言って特に文句はでないと思うので、割愛します。

というわけでエロゲーは本質的かつ必然的に〈物語〉であると言えます、ということにして、次へ。(2)についてですが、これはもちろん、〈物語〉というのはエロゲーだけではありません。ラノベもアニメもギャルゲーも、映画も純文学小説も、ことによっては日記や新聞記事、絵画や音楽の類まで、およそあらゆる創造物は〈物語〉たる資格を有している。別段、その中で特にエロゲーがぬきんでているとか優れた表現だとか、そういうことを言うつもりもありません。

ただ、それはエロゲーに限ったことではない。あらゆる作品がフラットなところに並ぶと私は思います。ひと昔前であれば「文学こそが最高」みたいなノリがあったのかもしれませんが、そういうのは無い。そもそも、固有性の領域に触れうるものということなのだから、人に応じて違いがあって当然だろうと思います。映画でピンと来る人もいれば、文学でないとダメという人もいる。同様に、エロゲーという表現媒体をこそ一番だと感じる人がいてもよくて、その間で優劣はつけないしつけられない。そんなものではないか、と。

そして最後、(3)について。それではエロゲーを、他の〈物語〉から区別するものは何か。エロゲーのエロゲーらしさというか、差異の根源は何か、という話。エロゲーというものについて考えるという意味では、ここが恐らくは重要なポイントになってきます。

他との違いでいえば、エロゲーというのは恋愛や性行為の描写を通して観念世界を樹立しようとするものだ、ということになるでしょう。暴力描写で観念を立てようとする作品もあれば、音でやろうとする作品もある。そんな中でエロゲーと呼ばれる作品群は、その名の通りエロによって〈物語〉になろうとする/なりえている作品のことだと言えます。若干循環論法っぽく感じるかも知れませんが、表現の手段がそのまま内容にもなっているので、そんなモノだと思ってください。

これはもちろん、以前「エロゲーにとって、エロとは何か」の記事で述べた、作品側からのエロの分類とは異なっています。〈物語〉が受け手との固有性の交流だと述べたとおり、ここには必然的に受け手が前提される。ですから、今回の議論はさしずめ、エロゲーユーザーにとってのエロゲーとは何か、という話になっていると言っても構いません。

そしてユーザーの側の視点に立てば、暴力や友情や音楽や、そういう色々な表現の中からエロによる〈物語〉を選んだということになります。性行為というのが自分の〈物語〉にマッチしていたのだ、と。そのことがどういう意味を持ちうるのかということは、現状、はっきりしたことは言えません。言えたら、エロゲーのエロというのがユーザーにとっていかに重要かを語ることができるのでしょうが、うまくアイディアが出ない。もしかするとそもそも出し得ない(固有の領域の話だから)のかもしれませんが、それでも何とか突き詰めて考えてみたいとは思っています。難しいこと考えずに万事オーライで良いじゃないか、というのも勿論アリですが。

ともあれ、ユーザーとしては性行為というのがマッチした。そしてこの理屈は、一応作り手には関係のないことです。エロゲーからエロを抜いた作品を世に送り出そうが、エロゲーを作っていたブランドがギャルゲーブランドに方針転換しようが、そちらに別の〈物語〉のあり方を見いだしたというのなら当然の話で、何の問題もない。

けれど、私は〈物語〉が作品とユーザーの固有性の交流の場だと言いました。つまり、エロゲーに〈物語〉を見る私は、とりわけエロという表現を通して、何か自分の 股間  魂に触れる部分を見いだしていた。それを作品の側が簡単に乗り替えることができるというのなら、作品にとってエロというのはその程度のものだったのだな、と思って少し寂しくなるだけです。また同時に、別にエロゲーじゃなくてもいいや、と違う表現にシフトできるユーザーがいることも当然だと思います。そういう人にとっては、エロゲーはそもそも〈物語〉ではなかったか、あるいはエロではない他の所に〈物語〉を見いだしていた(だからエロが無いところにも〈物語〉を見いだしえた)というだけの話でしょう。それは、その人自身の問題であって、私が関知すべきことではありません。

ただ、私自身はエロゲーなりエロなりというのを重要なものとして見ているので、そこに価値を感じないと言うのは構いませんが、必要以上に罵倒されたり、攻撃されるとなると、やはり抵抗したくなります。そして他人から何と言われようと、いまのところは、エロゲーこそが私にとって一番の〈物語〉であるし、しばらくこの確信は揺るがないだろうと思う。結局のところ私は、「それでもエロゲーをやめない」人間なわけです。

お、ようやくタイトルと繋がりました。やれやれ良かった……。書き始めた段階では右往左往してどうなることかとヽ゚~(∀)~゚丿。3つの記事を続けて書いたことでちょっとまとまった内容にはなったかな? 自分の内面と関わることを書こうとしているし、そういうのはどうも苦手なので他の方に興味を持っていただける記事になっている自信はあまりありませんが、自分の中の考えを進めることには一応成功した感があります。え、気のせいだ、って? ですよねー。

そろそろエロゲーの作品についての話もしたいし(いやあカーラさんマジエロいっすね!)、明日もシリーズのタイトルにするかはわかりません。まあもうここまで来たら後は何書いても繋がるでしょう。あまり先のことは考えずにひっそりダラダラと続けていくことにします。

それでは、今日はこの辺で。また明日お会いしましょう。

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