突然ですが、私は二次元が好きです。そのうち、二次元の世界にいける気さえする……!

暑さでおかしくなったわけではありませんよ。もともとこんな感じです(爆)。いやまあ、冗談? はさておきまして、エロゲーをやっているとよく、現実と物語(虚構)の関係について考えることがあります。今回は、そんなお話。

なお、タイトルに「1」とつけたように、何回かの分割記事の最初という位置づけになる予定です。といっても予定は未定なので、このまま書かずに終わる可能性もありますが、ひとまず計画としては次のような感じ。

(1)物語の、現実に対する自律性について
(2)エロゲーが物語であるということについて
(3)エロゲーという物語との接し方について

何が何やらプランだけではわかりにくいですよね……。されど、私も全文書いているわけではないので、見通しだけでご容赦ください。何せ思った結論にいたるまでの道筋を最初から説明するとなると、長く入りくんだものになりそうだったので、ゆっくり外堀を埋めてみようかと。

コレを書いてる時点では先々どうなるか本当にわかりませんが、途中でポシャっても大丈夫なように、毎回一定の結論にまでは到達するようなことを言え……たらいいなあ。とりあえず今回は、直接エロゲーとは関係ある部分は少なめ。具体例ではちょいちょいだしますが、基本は一般的に物語やフィクションについて、みたいなスタンスで話を進めていく予定です。

▼エロゲー的なものは現実的か
エロゲーに対して冷たい人からの攻撃というのは、ストレートに「キモッ!」というものから、「恋人つくったら?」という思いやり溢れる助言、果ては「エロゲーみたいなのが犯罪を助長する」というありがたいお説教まで、いろいろなパターンがあります。

私自身は比較的エロゲーマーであることをオープンに話しているので(もちろん、TPOはわきまえて不要な場合は黙っていますが)、エロゲーの話を普通の人とすることが時々あります。また、オタクであってもエロゲーをやらないという人だって当然いる。そういう人からはよく、「現実の恋愛はしないの?」みたいなことを聞かれます。そのたびに、「それとこれとは別」と答えるけれど、どうもわかってもらえない。

こういう「攻撃」の背景には、アダルト産業に対する素朴な蔑視みたいなものが見て取れます。AVというのは現実のセックスの代替物で、普通はできないような特殊なプレイをしたりして喜んでる。エロゲーとかエロアニメになると、更に特殊な趣味を満たす為にやってるのだ、みたいな。だから、「別にエロ目的でエロゲーやってるわけじゃない」のような回答がされ、最終的には「じゃあ、エロっていらないんじゃないの?」みたいな話に発展していくのでしょう。

ただ恐らく、アダルト蔑視みたいなのは表面的な話。根本にはもうすこし、面倒な問題が横たわっているように思います。

面倒な問題とは何か。それは、エロゲーに限らず虚構の物語というものが、現実よりも劣っている、という発想です。AVやエロゲーを軽蔑する人だって、(一部のウルトラ潔癖性の人を除けば)オカズとしてそういうものがあるということは認めている。単なる性欲処理として、現実を慰める手段としてなら、お許しを頂ける。

彼らが本当に軽蔑しているのは、性欲処理という手段であることを飛び越えて、二次元自体を目的にしているような態度でしょう(ロリ規制運動家の皆さんとかはちょっとおいときます)。それこそ「自慰」という言葉が含む負のニュアンスにはっきりとあらわれているように、現実に発展しない自己満足に終始しているということです。物語が明確に劣っているとは言わないまでも、現実であることのほうが価値が高いのだと素朴に考えている人は多い。「物語でみたされるなんて、ただの(程度の低い)自己満足」というわけです。現実の効果として発揮されれば、彼らは納得してくれる。だから、性欲処理という現実の効果はみとめるけれど、それ自体が目的であるといわれると、怪訝な顔をして拒否反応を示すのです。ちょっと言い過ぎかな? でもそんな感じありますよね……。

要は、エロゲーは、ただエロがあるだけで軽蔑されているのではなく、現実ではない偽物のエロ行為をあがめ奉っているから「キモい」と言われる。そうでなければ、「現実の恋愛しようぜ」みたいなことを言わないはずです。たとえばエロゲーをやって実際に恋人ができるなら、だれもエロゲーをやめろとは言わない。エロゲーをやって就職できるなら、推奨されるかもしれません。

つまるところ、現実を比較項として出す多くの人は、エロゲーという物語を現実との関係において捉えようとしている。そして、物語は現実に従属すると考えているわけです。上述した通り、ことはエロゲーに限りません。エロゲーほど顕著ではないにせよ、小説でも映画でも、たとえば「役に立たない」のような言い方をされることは多い。

しかし、本当に物語は現実との直接的な対応で扱って良いものなのでしょうか。そしてもし関係があるとしても、それは自明に従属関係なのでしょうか。

少なくとも物語(この場合エロゲーですが、アニメでも小説でも映画でも同じです)を楽しんでいる私の実感からすると、そこに「待った」をかけたい気持ちがあります。

▼物語という虚構
物語というのは、具体的な現実ではありません。言語を通して語られる以上、どれほど細密な描写が行われていたところで、それは現実ではなくて抽象化された観念の世界です。だから、物語は虚構(フィクション)である、というのはまあ、その通りでしょう。

しかし、いくらフィクションだからといって、(ゲームでも小説でも構いません)物語というのは、現実との対応関係のみでその価値が測られるべきではないと私は思います。

もしも物語が現実の下に置かれ、現実との対応関係でのみ捉えられるものであるなら、物語の価値はつまるところ現実に対する効果(=有用性)に存在する、ということになる。でも、何か役に立つから物語を読んでいるのかと聞かれると、私は明確にNOです。教科書や実用書と違い、物語に関しては役にまったく立たなくても、楽しいから読んでいる。

私にとって、役に立つかどうかと、物語が楽しいかどうかは、次元が異なる問題です。だから、現実に恋愛をしているからエロゲーをやらなくて良いという話にはまったくなりません。実際、恋人がいたり家庭をもちながらエロゲーをやっている人もいるわけで、そもそもそういう人にとっては同じレベルの問題で無い可能性はあると思うのですが、どうもその辺は「特殊なパターン」としてスルーされてしまうみたい。

いきなり下世話な話で恐縮かつ特殊な立場を承知で言いますが、セックスと同じくらい二次元ネタにしたオナニーが良いというのはあって良いんじゃないかと思うわけです。AVやエロ本より、二次元が良い。エロ小説のが良い、という立場があるのとは別に、普通にセックスするのと同じくらい妄想も気持ちいい。そういう立場だってある。どうして常に三次元換算しないといけないのか。ニコ動の何万再生というのを、CD何枚売上に換算しないと価値が測れないなんてことはないでしょう? それと一緒で、二次元は二次元、三次元は三次元でいいじゃないですか。

これは単に、二次元と三次元を比較してどっちが勝った負けたというのではなくて、一旦相対化してそれぞれ別のものとして扱うことが可能であるということが言いたいのです。言わせて。お願いします(;´д`)人

いやホラ、実際問題、イメージプレイとかやるわけで。そういう時、私たちが感じている快楽というのは単に肉体的な刺激じゃなくて、精神的な(観念的な)刺激であるハズです。それを突き詰めていけば、観念に特化した快楽というのがあったって別に構わないだろう、と。

真面目な話に戻しますと、言うまでもなく、「現実に役立つ」(オカズになるという意味ではなく)ということは重要な価値です。私たちの空想なり想像なり、そういう観念の産物が現実において意味を持つということの一つのはっきりしたあらわれは、有用性である。そのことは多分、間違いない。

けれど、そこには「この物語でないとダメ」という、固有性の部分は抜け落ちています。ある作品の価値が、現実との関係における役割にあるということは、物語の固有性を無視するということでもある。ちょっと、この辺のことについて考えてみましょう。

▼物語の固有性と自律性
たとえば私たち生きている人間を例にとってみます。人間の価値というのは、有用性にあるのでしょうか。

ベルは「電話を発明した人」であるという評価。これは、社会という現実と結びついた有用性です。このような価値というのは、確かにはっきりしていてわかりやすい。でもそれは、電話を発明しさえすれば、ベルでもグレイでも良かったということの裏返しでしかありません。

恋愛で言うなら、社会的に立派な人物(地位がある、お金がある)だから好き嫌い関係なくおつきあいする、みたいなのを想像してみると良い。そのレベルにすると、途端に「むぅ……」ってなりません? ロマンチストを気取る気は無いけど、私的な好き嫌いと有用性との違いというのは、およそこんな風にあらわれてくる。

先日書いた記事、「作品と出会うという話」の一つのテーマは、私たち自身や作品の持つ固有性(記事の方では〈奇跡〉という言い方をしています)という問題についてでした。社会的な意味や価値というのは、他人に説明できるものです。それは確かに重要だけど、交換可能なもの、相対的なものに過ぎない。

一方で私たちは、そういう社会的な意味や価値に還元できない絶対的な価値や意味(固有性)を持っているのではないか。その話はまさに、いま述べているような事柄との関係で重要な意味を持ってきます。

「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いに、「両親がセックスしたからだ」という答えではすくいきれない含意がある、という永井均の話を引用した後の展開で言いたかったのは、人間に固有性があるのと同様に、作品にも同じことが言えるのではないか、ということでした。もう少し突っ込んで言えば、そのような作品の固有性との出会いの中で、私たち自身の固有性もまた浮かび上がってくる。だから私は、有用性だけでは作品を見ずに、作品の固有性も拾い上げたい。

以下、作品を物語とほぼ同義のものとして扱いますが、ある物語が「現実の恋愛を鮮明に描き取っているから、実際の恋愛にも役に立つ」とか、「恋で傷ついた心を慰めてくれる」と評価したとして、じゃあそれ以上に上手く描いた別の物語が出てきたらどうするのでしょう。もとあった物語の意味や価値は乗り越えられたのだから、骨董品的な意味はあるとしても、実質的には無価値なものとなったのでしょうか? うんそうです、と言う人もいるでしょう。でも、そんなことはないという立場もありえるのではないか。

同じ機能をもっていれば、Aという作品でもBという作品でも構わないというなら、マルチとセリオとミルファとイルファの要素を完璧に盛り込んだ新型HMXが出れば、彼女たちはお払い箱になってしまう。

そういう理屈が必ずしも間違っているとは言いません。技術の進歩というのは必然的にそういう軌跡を描くことになる。けれど、まったく異なる次元の問題として、作品の固有性に根ざした価値があっても良いのではないでしょうか。少なくとも、同じようなジャンルの作品の中でどの作品が好きだとか、似たような属性のキャラだけどこのキャラじゃないとダメだとかいうことに血道を上げて議論しているエロゲーマーの実態としては、有用性だけでは満足できない。

私には、他の誰とも違う「わたし」だという意識がある。そんな私たちの生が、有用性だけで判断されるというのも、何か寂しい気がする。同様に物語にだって、「この物語でなければならない」部分というのがあるはずです。同じ骨組み、同じ主題の話であれば何でも良いわけではなくて、セリフの一つ一つ、行動の一つ一つに対して好き嫌いはある。そういう、物語の「細部」というのは固有性を認め、固有性において物語を楽しむところにあらわれてくるものです。そして、物語をそのような固有のものとして楽しむ人というのは、少なからず存在しているハズです。

つまり、物語は現実に対して従属してばかりいるわけではなく、そこから独立した自律的領域も持っている。

▼自律した領域の物語
推測が続いて話が煩雑になったので、少し整理しておきます。

現実が良いか、観念(物語)が良いかという二項対立は、お互いが同じ次元で競合するという全体に立った質問です。そして多くの場合、現実が勝利する。物語というのは現実の意味に還元できる限りにおいて(たとえばストレスが解消される、知識が身に付く、社会問題を考えるきっかけになる等)意味や価値を認められることになります。

しかし、物語を楽しんでいる側の実感にひきつけて考えると、物語の良さというのは必ずしも現実との対応において、つまり何かと交換可能な価値として測定されるものではないのではないか。生身の人間に存在の固有性があるように、物語もまた現実から自立/自律可能な虚構としての独自の固有性をもっており、それを楽しんでいる人もいるのではないか。そういう話をしてきました。

物語には一般化できる部分と、そうでない部分があります。たとえば『君が望む永遠』なら、メインルートは三角関係というシチュエーションとして一般化できてしまうかもしれない。でも、その一般化の中でこぼれおちる部分にこそ、個々のキャラクターは存在しています。水月には水月の、遥には遥の固有の情念がある。私たちが物語を読むというのは、一般化してとりだせる部分を読むだけではなく、一般化しきれない情念を読むことでもあるはずです。

『君のぞ』でいえば、孝之くんが単に人間のクズだ、と言っているだけでは、現実の価値基準を持ち込んでいるに過ぎない。問題は、作品の中でどんな風にクズとして扱われているか、あるいは実は作品の中ではクズではないかということです。だって、『ランス』シリーズのランスは、あれ現実だったらホントマジでクズですよ(笑)。でも、作品の中ではヒーローとして描かれているわけで、それならそのことの意味は、作品の中で考えられなくてはならない。その中に、ランスのランスらしさや、孝之の孝之らしさはあらわれてくるはずだ――私が言いたいのはそんなようなことです。『ランス』も『君のぞ』も、作品として自律した世界を持った物語なのですから。

『ランス』をやって、この主人公クズです、なんてホントにくだらない結論だと思いますが、私からすれば「エロゲーをやったから犯罪に走る」のような話だとか、「エロゲーばっかりで恋人つくらないの?」みたいな質問というのは、物語の自律的な領域を無視しているという意味で同じレベルの考えから出てきている、ということです。

しつこいようですが勘違いしないで欲しいのは、「物語に有用性は無い」と言っているわけではない、ということ。有用性=現実との対応というのは、物語を読む効用として確かにある。けれどそれとはまったく別の評価軸として、固有性に根ざした楽しみも見せてくれるのが物語ではないか、と言っているつもり。

たぶんこれは、物語の一般的な性質というより、ある場合に出てくる問題です。その「ある場合」というのは、読み手が自分の固有性を、物語を通してのぞき見ようとする場合です。

再び私事で恐縮ですが、子供の頃の私は、いわゆるアニメとか小説とかにはまる人間で、そういう物語に触れると、すぐに物語内部に自分を登場させたくなった。といっても、どれかのキャラクターになりたいというのではなくて、自分のオリジナルキャラをその話の中に登場させたいという、いっちゃん痛々しいパターンですね(笑)。

ただ、振り返ってみるとそれは、物語の世界を拡張させようとしていたとも言える。拡張というと何だか偉そうですが、「これで終わるの勿体ないから、まだ続けられるはずだ」とか、「この場面に私がいたら、もっとうまくやれたのに」というように。いまでいう、いわゆる二次創作とかに通じるものがあったかもしれません。

そうやって作られたのは、完全にオリジナルとは言えないにしても、元あった物語とは違う「私だけの物語」です。そんなことをしているうちに、その物語のどこが自分の琴線に最も触れる部分であるかとか、そういうのが好きな自分って何なのかということが、私の中でおぼろげにではあるにせよ形作られてきた。つまり私にとって、私だけの観念の世界の表現というのは、物語という形式をとるようになった。これが絵や音楽の人もいるのでしょうが、私にとっては物語だった。そうして、物語の中に自己を置いてみると、その中の登場人物たちもまた、自分に唯一のしかたで関わる固有の存在のように思えてきた。敢えて理屈をつけると、そんな感じかも知れません。

考えてみれば、個人の内的な世界と、社会という外側の世界がそのままストレートに接続するというのはかなり不自然なことです。現実というのは社会的な(共約可能な)ものであり、観念の世界は本質的には個的な(誰とも共有できない)種類のものなのだから。最終的にはその両者が何らかのかたちで接続するにせよ、単純に引き比べるのはさすがに乱暴だろう、という気がします。内的な世界は、ひとまず外の世界に対して独立している。

そして私にとって物語というのは、その作品の固有性の領域に属するものとして存在した。社会的な領域とはひとまず別の、そっちと直接的な関係が結ばれていなくても何の問題もないことなのです。だから、「現実に恋人がいること」と「エロゲーをやること」とは別の問題だ、という結論になる。ここには幾つかの段階があって、私がうまく説明できていないせいでとてもわかりにくいと思うのですが、似たような議論は大昔からなされていました。

たとえば、日本における物語論の先駆者、本居宣長は「源氏物語玉の小櫛」の中で次のように述べています。
みな物語といふもののこころばへを、たづねずして、ただよのつねの儒仏などの書のおもむきをもて、論ぜられたるは、作りぬしの本意にあらず。たまたまかの儒仏などの書と、おのづからは似たるこころ、合へる趣もあれども、そをとらへて、すべてをいふべきにはあらず。大かたの趣は、かのたぐひとは、いたく異なるものにて、すべて物語は、又別に物がたりの一つの趣のあることにして、はじめにもいささかいへるがごとし。
古文なのでアレですが、要約すると、「最近は物語(ここでは特に『源氏物語』)を捕まえてきて、儒教だの仏教だのの教えと合致するかどうか見ようとするヤツらが多いけど、それって全然ダメで、物語には物語の趣ってのがあるんだよ。わかってないねー」みたいな感じです。ここで「儒仏」というのは、当時の社会道徳を形成していた主流概念ですから、わかりやすいところだと昔話を読んで嘘はよくないという「教訓」を得るとか、そういう社会的な有用性にひきつけて物語を考えることを宣長は批判しているわけです。物語が、勧善懲悪と訓戒ばかりだったらつまらないだろう。役に立つ・ためになるから物語を読むというのは、おかしなことだと宣長は考えている。

そんな宣長にとって理想的な「物語の読み方」というのは、自分の体験や想いとひきつけて、「もののあはれをしる」(心がうごく)ことだ、という話になります。昔の日本人は素直に物語を読んでいたのに、中国から儒教だの仏教だの「さかしら」な思想が入ってきたせいで、無理繰り物語を分析してみせて、社会道徳との関係で意味づけようとするみたいな話が出てきたのは実にけしからん、と怒っている。なんか、どっかで聞いたような話ですが気のせいです、多分。

ともあれ宣長は、一旦社会的な道徳や何やらと個人的な情念を切り分けて、個人的な情念の領域を扱う表現として「物語」を考えようとした。私は宣長ほどラディカルに、物語は個人的な情念を扱うのがその本質だと言うつもりはありませんが、そういう固有性「も」扱いうるものだと思います。現実との対応だけで物語を測ろうとするのは、そういう側面を切り落としてしまうことになる。

宣長は、「物語では現実でやったらさすがにマズい犯罪でも、かっこよく描いても良い」と言います。もし現実と物語とが素直にリンクしているなら、犯罪行為を描いた物語というのはゴミクズということになる。でも、実際には物語の中で、任侠や悪党というのはヒーローとして活躍したりもする。現実は現実、物語は物語できちんとわけて考えるのが当然でしょ、というわけです。むしろ物語というのはそうやって、独自の観念世界を創るところに良さがあるのだ、と。

私はこの辺りまったくその通りだと思います。私たちの「固有性」と繋がった観念的な世界というのは、直接的には外側の現実、社会的な領域とは切り離されていても問題がない。現実で犯罪をしたら、そりゃあダメにきまっていますが、観念の中でするぶんには構わない。そこを切り離して考えないから、たくさんの馬鹿げた議論が噴出する。『レイプレイ』事件をはじめ、エロゲーやったから犯罪に走るとかのたまっている人たちに是非とも読んで頂きたい部分なのですが、まあそれはさておき。

日本においては、そういう固有性にかかわる部分を担う表現として、物語が選ばれてきたということもあったわけです。ちょっといくら物語論の草分けとはいえ宣長先生は古すぎたかもしれないので、もうちょっと最近の人を召喚してみると、吉本隆明は、エッセイ「批評眼について」のなかで、こんなことを言っています。
そもそも、いい作品、悪い作品というのは本来ないはずですが、それでも、しいていい作品とそうでない作品を見分ける方法というのはあります。文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。それは、たとえば小説の中に書かれている事件がいま風で面白いということとはちょっと違っています。いまの事件を書いたら、それはそれで面白いかもしれないけれども、しかし、その作品が、これは俺にしかわからない、みたいなことをきちっと読者に感じさせるものかどうかは別の問題となります。作品がいいか悪いかは、中に出てくる事件の面白さやよさだけではないということが言えます。(吉本隆明『真贋』)
吉本は、「俺だけにしかわからない」と感じさせる作品は一人一人の「俺だけ」に届いているという意味で人間の普遍性を掴んだ最高の作品であるとし、次点には、時代を同じくした人間にはよくわかる作品を挙げます。エッセイだけにぱっと見論理性は見あたらない、ただの印象論にも見えるのだけれど、私には何となく、吉本が言いたいことがわかる気がします。「俺だけにしかわからない」ということで吉本が言わんとしていることもまた、物語と読み手の持つ固有性の問題でしょう。

※勿論、宣長の意識においての仮想敵は儒仏的物語解釈であり、吉本の場合はおそらく(この時点ではもうそこまで意識されていないかもしれませんが)、マルクス主義文学論みたいなのがアンチにいるので単純に同じことを言っているというつもりはありません。ただ、どちらもともに現実に物語が従属する(マルクス主義文学論の場合は、たとえば農村の実態を描いたものが素晴らしい、革命に寄与するものがすばらしいという風に、先に現実の価値が確定されていて、それを物差しにして測っている)という意味では述べてきた内容に合致するだろうと考えて引用しました。また、先人の引用をしたのは、別に知識をひけらかしたかったわけではなく(多少権威を借りようという狡い意図はありますけどね、そりゃ)、物語の読みに限らず、日本的な思惟のあり方についてかんがえるとき、個的内的な世界と社会的外的な世界との対立というのは、割とずーっと問題になり続けているのだということを言いたかったということがあります。

作品との関係にそくして言えば、固有性があらわれる端的な場面というのは、「これ面白い」とか「これ最低だ」のような、心の動きがあらわれる場面だと思います。泣けたり、怒れたり、笑えたり、抜けたり(エロゲーなら)。そんなとき、私たちは作品を通路にして、自分の固有性とも出会っている。そして自分の固有性を通して作品を見ることで、作品の固有性にも触れ得ている。

そんな風に物語を読んでいるときが一番楽しくて、そうさせてくれる物語こそが最高じゃないか、吉本がそう言っているのだとすれば、私はまったくもってその通りだと思うわけです。

▼次以降へのフリ
さて、少々長くなってきたのでこの辺で一旦話を切ることにしましょう。ただ、ここまで読んでくださった方には幾つかの疑問というか、もやっとした感じが――幾つかどころではなく全然意味わかんねぇよ、という感じかもしれませんが――あるはずです。

私が言ってきたのは、物語を固有性をもつ表現として、自分自身の固有性との関わりの中で楽しむ人もいるはずだ、ということでした。そしてそのような人にとっては、物語というのは現実とはひとまずは別の、現実との対応関係において考えられる必要のない価値が読み込まれているのではないか、と。

しかしそれなら、そのような固有の領域に属する価値なり物語なりについて、私たちはどのようなことを語り得るのか。また、どのようにその面白さを掴みだしているのか。そういう問題があります。つまり固有のものとしての物語との関わりをどう扱うのかという問題。そしてもう一つ、エロゲーについて語りますといって始めた以上、エロゲーと物語との関係はどうなっているの? という問題があります。エロゲーも物語ですから、物語の中にエロゲーが含まれるのは構わないとして、エロゲーを第一義的に物語と見なして良いか、というあたりのことは、改めて考えられなければならないでしょう。

ただ、それは次回以降の課題とすることにして、今回はこれで筆を置きたいと思います。長くなるから分割にする予定で書き始めたのですが、結局それでも長くなってしまった……。できれば最後まで書ききりたいですが、あんまり退屈だと申し訳ないし、かといってわかりやすく書けるか不安。

今回は(今回も)ぐちゃぐちゃした書き方になったのですが、いつも以上にわかりにくいと思います。すみません。理由は、私の能力不足が第一で、次にはやはり分けて書いているためかなあ。結論までいけば、問題が何であったかもう少しハッキリするとは思うのですが……。まあ、頑張って最後まで書ききるようにします。

記事についてはちょくちょく加筆修正を加えると思いますが、ご容赦ください。なお、予定については固まったものではないので、これおかしいとか、ここ意味わからないとかあれば(そしてご親切にも指摘する気が起きれば)言ってくださるとありがたいです。

それでは、また明日。

このエントリーをはてなブックマークに追加