なんか急にブログのアクセス数が3倍くらいになりまして(といっても普段が少ないので騒ぐほどのアクセスではありませんが)、何ごとかと思ったらどうも、先日書いた「エロゲーにとって、エロとは何か」という記事を、多くの方にお読み頂けていたようで、ありがたいやらおそれおおいやら。ツイート数が2桁になっていたの、てっきり表示エラーと思いこんでいたのですが、マジでこんなにツイートされていたんですか。

有識者に聞いたところ、highcampusさん繋がりでerogeNewsさんに拾っていただいて、リツイートされたというお話。リツイートでもツイートがカウントされることをはじめて知りました……。しかし、この記事ぶっちゃけあんまりウケは良くないだろうと思って書いたのですが、わかんないもんです。リツイートされたのは、「ぷっ、こんなバカがいるぜ」という晒しのためだった可能性も高いので何とも言えませんが。どっちにしても、コメント頂いたので嬉しくなり、調子に乗って長文返しちゃうあたりまだまだ私も若いです。

閑話休題、コメントのほうにも更にツイッターで(非公開ですが)コメントを頂きました。毎度のことですがお名前出して良いか確認とって、OKならお出しいたします。内容は、リンクを紹介していただいた「麻枝准とエロ」のお話について。雑駁に言えば、どうしてこれが「批判や批評という行為は意味を失」うということになるのかよくわからないし、そもそも私が書いた批判って妥当なの? もうちょっと説明がいるのでは、という感じ。ちなみに、紹介していただいた記事というのは、こちら(「忸怩たるループ」)。

ご指摘はごもっともというか、多分コメントくださった方はスタンス的に「忸怩たるループ」さんの記事に当然賛成の立場っぽかったので先にことわっておくと、別に麻枝氏のユーザーへの心配り(「麻枝准は第一に客受けを考えている」)を否定するつもりはありません。あと、ここで言われていることの本来的に重要なポイントを、私はそこ(麻枝氏の作家性みたいなところ)だとはとりませんでした。

他の記事をきちんと読んでいないので確たることは言えない(と一応言い訳しておきます)のですが、「エロが不要というなら、ついでにあの口癖も不要なら、そもそも神尾観鈴が少女である必要もないではないか。」というこの一文が、私にはクリティカルに思われます。つまり、作品はただ作品としてあるのであって(観鈴ちんはただあるがままに観鈴ちんなのであって)、そこに要不要の議論はあるべきではないし、それをするのならば、全てをきちんと議論の俎上に載せるべし(恣意的に要素を決めるな)ということが、恐らくは言われているのではないか、と。

私がこの方の立場に非常に同意するのは、この部分。これはつまり、ある作品なり存在なりを、「そのままに」(総体として)捉えるということを意味していると思うからです。

補助線として、私たちが普段やっている読書のようなものを思い浮かべれば良いでしょうか。ある本を読んで、「この本で言っていることは、まとめるとこうだ」とか、「こんな内容だった」と言う。ブログの感想から論文の引用まで、私たちが本を読んだ後に述べるこうした感想は、その本の構造を抜き出すことを目指しています。構造、というのがわかりにくければ、骨組みとか骨格でもいいです。

そりゃあまあ、本そのものを語るくらいなら本を読めば良いのですから、語る以上は骨組みにしよう、というのは当然に思われるかも知れません。けれど、こうした行為の背景には、近代ヨーロッパ的な科学の知の影響が、やはり色濃くあらわれています。……なんか最近こんな話ばっかりしてるなあ。

どういうことか。普遍的なものを志向する科学的な知の前では、ある存在の特殊性というのは基本的に抹消されます。本を、「こういう枠組みの本だった」と述べることで、私たちはその本が背負っている歴史性や何やらを、交換可能なものとして扱うことができる。けれどそれは所詮骨組みでしかなくて、その本の全てではない。

人間ならもっとわかりやすい。「OYOYOというのはこんなやつ」だと骨格だけ説明してみても、実際に会った総体としてのOYOYOには、肉も皮もついているわけでして。骨格標本がOYOYOでは無いわけです。DNA情報のように、どんなに詳細で個別的なデータを見せたとしても、それがデータである以上、その人そのものではありえない。それは「ある人の説明」ではあっても、「ある人の存在」とはなりえない。

けれど私たちは、その「説明」によって、まるで「存在」を理解したかのように錯覚してしまう。あるいは、「存在」が別にあることはわかっていながら、「説明」ができれば安心してしまう。そういうところがあります。

永井均『〈子ども〉のための哲学』という本に、こんなエピソードが書かれていたことを、かつて興味深く読みました。
『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)にも書いたことだが、ぼくはある友人に「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いを出してみた。彼の答えは「両親がセックスしたからだ」というものだった。だが、ぼくが生まれる以前には、二人の男女はまだぼくの両親ではない。その二人がセックスをしたからといって、なぜぼくが生まれてこなければならなかったのか。友人はこの問いの意味を理解しなかった。(p.22)
この問題は、いろいろな切り口から観ることができます。たとえば、現象を説明する自然科学(セックスしたからだ)と、起こりえていないこととの比較で現実を捉える人文諸学との差異を読み取ることもできるでしょう。しかし、この後永井均が説明するように、根本にあるのは〈ぼく〉という存在の〈奇跡〉です。
ある人間がかくかくの性質(物理的であろうと精神的であろうと)を持っていれば、その人間は〈ぼく〉になる、ということ(が発見されるということ)はありえないのだ。なぜなら、〈ぼく〉にはただひとつの事例しかなく、同じ種類の他のものが存在しないからである。だから、そいつが〈ぼく〉であるという事実は、そいつが持っているどんな性質とも関係なく成り立っていると考えるほかはない。つまり、そいつの持っているどんな性質も、そいつが〈ぼく〉であったことを説明しないのだ。(p.58)
少々わかりづらいかもしれません。でも、もとは「作品」の話をしていたわけで、それならそう難しい話ではない。

もし、『ハムレット』(何でも良いんですけど)の構造が余すことなく分析され、時代背景も完璧に説明され、全く同じ社会状況が作られ、シェークスピアのクローンがその中におかれて、そうやったとして、果たしてまったく同じ『ハムレット』は生まれるのでしょうか。あるいは、そうやって生まれた『ハムレット』を、オリジナルの『ハムレット』と呼ぶことはできるのでしょうか。永井は、どちらも「できない」と言うでしょう。ぼくが〈ぼく〉であることの不思議というのは、そういう説明不可能な、存在そのものの〈奇跡〉のことです。「この作品はこういうものだ」とレッテルを貼って、一般化すれば終わるのなら、こんな話は必要ありません。でも、そのような一般化からはみ出す作品の固有性にこそ、私たちは惹かれているはずなのです。

永井は結局、「この先に何かこれ以上考え進められることがあるとは、思えなかった」と言って「考えるのをやめ」てしまう。この〈ぼく〉なるものに説明を与えるということは不可能だからです。近代ヨーロッパの知的枠組みでは、それはすくいだせないものとして残り続ける。そしてまたそれゆえ、科学的な知に慣らされた私たちの中には、「このような話をどんなにくわしくしても、そもそも問題の意味をまったく理解しないひとがいる」(p.59)というのも頷けます。

では、そういった存在の不思議をすくいだすことはできないのか。そう決めつけるのは早計でしょう。先ほどから「近代ヨーロッパ」をくり返してきていることから、なんとなく気配を感じ取っておられるかもしれませんが、たとえば近世以前の東アジアでは、まったく逆で、そうした存在の不思議そのものに触れることが常に目指されてきました。

釈迦の言説をたどりなおす仏教しかり、聖人や孔子の教えと格闘する儒教しかり。手法こそ(現代から観れば)分析的手法を使っているようにみえますが、彼らは釈迦になり、聖人となることを目指していたのであって、決して教えのエッセンスを取り出してそれを乗り越えようとしていたわけではありません。彼らの行き先は、自分の書いているものがまさに釈迦なら釈迦、孔子なら孔子の教えそのものであるというところにありました。

このあたりは、真理がこれから実現されると考えるキリスト教的進歩史観的と、既に真理が体現されていると考えるアジア的歴史観という、洋の東西の時間感覚の差異として頻繁にとりあげられる内容と重なる部分かもしれません。さておき、問題はある人物にしてもその人の思想にしても、あるいは作品にしても、そのものがもつ固有性――具体的な存在そのものの〈奇跡〉に、いかに迫りうるかというところです。

「麻枝准とエロ」の話に戻しましょう。私が、この記事に同意する――などと言うと偉そうですが、この記事の内容に強く頷きたい部分があるのは、いま述べてきたような固有性を志向している部分があるように思われるからです。神尾観鈴という存在の、あるいは『AIR』という作品そのものの固有性を、私たちは取り出したい。オリジナリティ、などということばでは足りない、どうしても観鈴でなければダメだという、その部分をこそ取り出したい。そのように願うとき、私たちはどうすれば良いか。これは、おそらく「こうだ」という結論が容易には出せない問題であり、今も多くの人が考え続けていることです。

批評行為を解釈であり表現だと位置づけた小林秀雄にならうなら、私たちもまた、表現者としてその作品と向かい合うしかない、ということになるでしょうか。私たちの固有性との差異においてしか、その作品(もう相手が「作品」でも「存在」でも構わないことは同意いただけるでしょう)の固有性は捉え得ないのだ、と。もちろん、批評をするばかりが表現ではありません。その作品にインスパイアドされて作品をつくったり、果ては泣いたり怒ったり笑ったりするという反応だって表現でしょう。そうした表現の中に作品と出会っているというのは、まあ納得できる部分が私にはあります。私が今もなお関わり続けている、人文学のある分野もまた、自分の学に特殊な手段を通して作品の固有性を捉えようとしてきたのだし、あるいは思想や哲学というものは本来そのようなものであるのかもしれません。

注意しておきたいのは、作品そのものの姿を取り出すというのは、現にある作品を無批判に受け入れることと同義ではないということ。私が「麻枝准とエロ」の記事にひっかかったのは、その部分です。この記事を書かれた方が実際にどう考えておられたかはちょっとわからない(筆が滑るということはよくありますし)のですが、「どのみち麻枝准は第一に客受けを考えているはずだ」のような言い方をしてしまうと、それはもう、作品そのものを観ることにはならない。作品の背後にある、「作者」という事実を説明するものとして、作品を読んでいることにならないか。そのように考えたからです。

よく言われることですが、たとえば神話を読むときに、何か事実の説明、表現として神話を読む、という手法がいまでも広く行われています。『古事記』はこれこれという豪族の争いがモチーフになっているのだとか、『ギリシャ神話』の神々の争いの結果は、ここの地方の部族が別の部族を征服したことと重なっているのだ、などというふうに。それは、作品という表現をある事実に還元していって、そこに存在している意図や働いている力を観ようと言うもので、作品のイデオロギーを暴露するというきわめて学問的な方法です。そういうやり方自体が悪いとはまったく思わないし、ひとつのあるべき、すぐれた手法だとは思います。

ただ、それはどうしても、ここまで述べてきたような作品の固有性というはみ出しを捉え得ないのではないかと思います。作品を読んで「面白い」と思うことと、何らかの時代性や「作家の意図」を反映しているという対照関係は、おそらく別モノでしょう。ただ、こちらの方はそもそも麻枝准氏の作家性を問題にしておられるので、私のこうした言い方は不当かもしれません。作家そのものと出会おうとしておられるのなら、別の軸の話になりますし。また、作品の固有性に出会うということの意味が、私とだいぶずれている可能性は高いので、以上のような批判はまったく成り立たない可能性がある。まあこの辺は微妙な問題が絡みまくるし、いい加減なことが言えないなと思ったので、あんまり深く触れませんでした。

けれど、「神尾観鈴」というそのキャラと出会うことをもしも目指すのならば、私たちに「麻枝准」という作家の存在は必要ないはずだし、「麻枝准」という作家その人と出会おうとするなら、「神尾観鈴」という個別具体的なキャラクターは最終的には一般化される、ということは言えるのかなと。そして今回とった私の立場は、作家と出会おうとするのではなくて作品と、もっといえば作品の中にいるキャラクターとの出会いを目指していた(その意味でのHシーンというのを考えるつもりだった)ので、「同意しづらい」し、もしその立場をとってしまうと何も言うことがなくなる(一般化されてしまうから)と。まあ概ねそんなことを言いたかったわけです。

と、長くなってしまったのですが、説明になったでしょうか。関係の無い人にはいまいちピンと来ない話が続いてしまった感はありますが、作品の固有性と出会い、それを捕まえるというのはどういうことかという問題というのは、常に私の中にある関心だったので、ちょっと書いてみました。今回具体的な事例から始めてしまってわかりにくくなった向きもあると思うので、どこかで一般化して話をしてみようと思います。(酷いオチですw)

それでは、お付き合いありがとうございました。また明日お会いしましょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加