自由意志はわれわれを、われわれ自身の主人たらしめるのであり、かくて、われわれをどうやら、神にも似た存在とするのである。 (デカルト『情念論』)
ここでデカルトが言う「自由意思」に代表されるようなものとしての「自由」は、「自己決定権」や「自己責任」のような語が前提とする自己の意思の自由、現代日本に生きる私たちが善いものと考える自由と、それほど隔たったものではありません。自らのことを自らで決断する力。具体的には、自律的な個人による民主的な社会というのが、こういった「自由」の目指す先にはあるのでしょう。「自由」の実現を否定的に見るという人は、そんなに多くいないと思われます。

けれど、そうした普遍的に見える価値も、実はそれほど自明ではないのかもしれない。たえず公式見解や既存の価値に疑問を投げかけることを知識人の使命であると考えたE.W.サイードならば、次のように言うでしょう。すなわち、「今日の世界では、疑問の念をもたずに権威に隷属することが、活動的で道徳的で知的な生活に対する最大の脅威のひとつなのだ」(サイード『知識人とは何か』)と。

「神にも似た存在」というデカルトのことばがただしく指し示す通り、「自由」は理性にこそ存在し、理知的で自律的な個人こそが優れた存在であるという立場は、ヨーロッパキリスト教文化の強い影響下にある思想です。そこでは、世界は神によって創造され、世界の真理は神の「設計図」にこそあり、それを読み解くために人間に与えられた特別な能力が、「理性」です。だから、理性的であることは人を全知全能の「神」に近づけ、何者にも縛られない自由と幸福とが約束されるわけです。それは、きわめて特殊な思想だと言っても良いかも知れません。

東洋に目を転じれば、中国で長い間大きな影響を持った儒教思想というのがあります。儒教の発想というのは基本的に選民による統治思想で、有徳者である聖人君子が民を徳によっておさめるのが理想的な社会というふうに言われます。そうした観点で見れば、民というのは何も考えないほうが良い。君子の徳に恭順する素朴な民が理想です。ヨーロッパの思想からすれば、民の自由意志を奪い、馬鹿にしているということになるのかもしれない。けれど、儒教の真意はそんなところにはありません。

戦乱期に生まれた思想という影響もあるかもしれませんが、儒教は人の幸せを、いのちの心配をせず平和で穏やかに日々を過ごし、お腹いっぱいご飯が食べられること、とします。統治しているとかされているとか、そういうことすら考えず安穏とした日々が送れること。民がそうできるように、君子は立派な統治をしなくてはならない、ということです。もしも孔子が現代日本にやってきて、政治参加を奨励し、「幸せとは何か」などという思想書や、社会をうまくわたるためのハウツー本を読むことに血道をあげる人びとを見たら、あまりの「不幸」ぶりに卒倒してしまうのではないでしょうか。

もちろん私たちには、孔子の昔に戻ることなどできようはずもありません。けれど、儒教的な考えが必ずしも誤っていると言い切ることもまた、できないはずです。キリスト教的自由意志の民衆も、儒教的牧歌的な民衆も、それぞれにある種の幸せのありようを体現している。肝心なことは、それぞれの幸せがどのようなものであり、またなぜその幸せを自分が選ぶのか、そのことを自覚し説明できるということでしょう。

言論の場――すくなくとも、思慮深い言説の場においては、価値というのは相対的な一つの立場の表明であるという認識が共有されています。だからこそ、人は当たり前に思われるような部分をこそ、丁寧に慎重に語ろうとする。自分が当たり前だと思っているまさにその部分こそが、他の誰かにとって最も当たり前ではないことである可能性が高いからです。責任をもって意見を主張するということは、自らの主張を譲らないと同時に、他の人の主張をきちんと認めるということでもある。だから私は、言論の場において必要以上に他の誰かや意見を貶したり、あるいは自らの考えについて謙虚に説明する意思のない人というのは対話をするつもりは無いのだろうと考えます。そういう人がやりたいのは、単なる自己アピールか、そうでないなら穏やかな恫喝にすぎない。「青少年健全育成条例」を巡る「議論」や、シーシェパードによる動物愛護の「主張」を聞いていると、強くそう感じます。

知識人がどうのこうのと言うと、あたかも私が述べてきたことは、浮き世離れしたアカデミックな世界を意識した内容であって、普通の人はそんなこと考えなくても良いように聞こえるかもしれません。けれど、いまや多くの人がブログを書き、ツイッターで呟き、自分の考えを発信している。そういう中にあって、人は「知識人」ではなくとも、「良識人」であることを多少は求められるのではないかとも思います。ネチケットやマナーという意味ではなく、言論・言説を紡ぐうえでの。

むすびにかえて、再びサイードのことばを引いておきましょう。「知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である」。これは、「知識人」は懐疑主義者であるべきだとか、なんでもかんでも批判するクレーマーであるべきだ、ということではありません。そうではなく、己が信じ、立脚する価値をきちんと持ちながらも、常にそれが疑いうるものであるという可能性を忘れない人間であるべきだ、という意味です。言うまでもなく、このサイードのことば自体を鵜呑みにしないということも含めて。

ともすればそれは、どっちつかずで曖昧で、ちっともすっきりせず、玉虫色で腰砕けの発言をくり返しているように見えるかもしれない。また、身を置く側からしても、ニヒリスティックな浮遊感の中に閉じこめられたような苦しみがあるのでしょう。けれど、自分の言説に対し反省的思考をさしむけるところにしか、抽象的な価値にかかわる言説と地上的な実際上の価値との本当の意味での接点は見出せないようにも思われるのです。

と、今日はちょっと真面目な(けれどやや具体性に欠けるだろうなという)お話でした。裏にはこういうことを書くに至った事件というか事情というか、そういうものもあったりするのですが、今回はこんなところで。

それでは、また明日お会いしましょう。みなさま楽しいGWをお過ごしください。

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