最近よく、このツイートに賛成、という意見が回ってくるのですが、果たしてそうだろうか、とやや懐疑的な気持ちで眺めています。ちなみに、ツイート自体は結構前のものだったのですね。最近のなのかとおもっていました。

さて、例の如く引用。
「大学時代アホみたいにバイトしてたけど、これって親が高い金を払って買ってくれた時間をバイト先の会社に安く売ってたのと同じだと気がついた」 っていう社会人の言葉にはっとする俺

以上のような内容ですね。言いたいことは、もちろん分かります。親の金を貰って大学に行っているんだから、本来の目的通りちゃんと勉強しろ、他のことにうつつを抜かすな、というニュアンスなのでしょう。ただ、それならそういえば良いわけで、あえて上のツイートのような言い方をするというのは、それが普通に言うよりも効果的で、しかもうまいと思えるからでしょう。

ここで、親の年収はいくらで時給換算するといくらだから、時給何円以上のバイトなら大丈夫じゃないか、などとピントのずれた話をするつもりはありません。ただ、このツイート、私としては凄く引っかかる。この内容を、あんまり素直に受け入れたいとは思わないのです。そのことを、少しだけメモ的に書いておきます。

表面的なことを言えば、バイトでもらえる給料だけが、バイト先の会社からの報酬なのかな? というところが引っかかる、というだけです。

そもそも、バイトで得られるのは金銭だけでは無いはずです。はず、と付けたのは当然人によりけり、職によりけりという面があるからですが、基本的にはバイト現場での交流や、バイトでの経験というのがある種の「報酬」として与えられます。

ただ、それが将来役に立つのかと訊かれたら、正直、分かりません。ただ、役に立たないかどうかも、分からないはずです。

もちろん、バイトなら大学に行かなくてもできるのだから、大学に行きながらバイトというのは意味がない、という人がいるのはわかります。が、大学生でないとやりづらいバイトがあるのも事実だし、また大学には大学の良さが当然あるわけで、バイトと大学どっちもいいとこ取りしたい、という可能性もあります。「アホみたいにバイト」というのが、大学に行かないくらい、ということなら色々考えますが……。

ともあれ今回は、そういう個別的な事象をいったん離れた上で、一歩話を進めてみたい。件のツイートが前提にしている考え方というのは、「バイトというのはそもそも無駄なものだ」ということです。これに対して、「いや、バイトは役に立つこともある」とか「立たないかも知れない」という返事を返すのは、結局ただの水掛け論でしかないでしょう。けれど、言いたいのはそういうことではない。ここで私が問題にしたいのは、経験の良し悪しというのは、あらかじめ決まっているようなものなのか? ということです。

きっと良い経験になるよ、良い経験になるからやってみなさい、そんなことをしても無駄だ――そういうありがたい忠告や進言というのは、この世界に溢れています。でも、良い経験になるかならないかなんて、先ほどから言っている通り、最後になるまで分からないわけです。そしてその「最後」がいつかを決めるのは、自分です。だから、最後まであきらめなければ、いつか良い経験に「なる」かもしれない。あの時の、あのことがあったから今の自分がいる、そう振り返る日が来るかも知れないわけです。

私が先ほどのツイートを受け入れたくない、と思ったのはこの辺が原因で、親ならまだしも何処の誰かもわからない社会人に、「勉強しろ」といわれて(しかも余り妥当ではない喩えで)、ほいほい従っちゃうことのほうが問題に思えるのです。はじめから無駄と決まっていることなんて無い。無駄に「なるかならないか」ではなく、無駄に「するかしないか」ではないのか、と。

半ば言いがかりじみた物言いであるとは思いますし、私が見落としている含蓄があるのかもしれません。そうであれば是非ともご教示いただけると嬉しいです。ただやはり、私としては、「これって親が高い金を払って買ってくれた時間をバイト先の会社に安く売ってたのと同じだと気がついた」 のなら、その後で、「なので、無駄にならないようにこの経験を活かすべく頑張る」とかいうほうが、好みといえば好みなのですが。

もっともこのツイートの後があったかもしれず、そこでの内容を読んでいないので、的外れなことを言っていたらごめんなさい。ただ、私の近隣で目にするこのツイートの解釈は、上のような内容(大学行け)だったので、ちょっと違和感を持ったのでした。

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