▼イントロ
「リアリティ」、あるいは「リアル」という語が、エロゲーを巡る言説では(それに限らず、かもしれませんが)頻繁に使われます。曰く、「キャラクターの心情にリアリティを感じられなかった」。曰く、「バンド活動の描写にリアリティが無い」。曰く、「リアルな人間像がある」……etc。しかし、この「リアル」あるいは「リアリティ」とは、どういう意味なのでしょうか。私は常々、この言葉に違和感を覚えてきました。一つは、意味が比較的曖昧に使われていることについて。もう一つは、本当に「リアリティ」が価値であるか、ということについて。今回は、そんなことを取りあげてみたいと思います。

といっても、ここはムズカシイお話を専門にする場所ではないし、どこぞの講義室でもありません。なるべく解りやすくするため、ある程度端折ってしまう部分があることはご容赦ください。そして、私の話は長いので、短くコンパクトにまとめることを目指します(笑)。

と先に言い訳をしておいて次へ。

▼「リアリティ」(現実/現実性)という曖昧な語
まず、おことわりから。「現実」というと本当はリアリティとアクティビティの違いがあるのですが、ここは「リアリティ」の話をしますよということでした。よって、以下「現実」と書いた場合は「リアル/リアリティ(超先生じゃないよ!)」を問題としているものと考えてください。

哲学事典を引いても良いのですが、もうちょっと近場で済ませましょう。とりあえずWikipedia先生に質問して頂ければおわかりかと思いますが、「リアリティ」という語は哲学のテーマとして長く扱われてきており、本来は軽々しく口にできないような複雑な背景と意味を背負っています(どんな語も軽々しく口にできるものではないのでしょうが)。とはいえ、「だから使うな」では話になりませんので、簡単にまとめると下のようになります。

(1) 「現象」に対する「現実」。たとえば「空耳」というのは、現象としてはある聞こえ方をしているけれど、実際(「現実」)はそうではない場合を指します。人間の感覚は曖昧なものなので、その感覚に頼らない、いわば《世界の本当の像》。

(2) 「虚構」(フィクション)に対する「現実」。虚構というのは、「現実」を模倣して《表現されたもの》を意味します。ベースにあるのが「現実」で、その派生が虚構、ということですね。単純に本物と偽物、くらいのニュアンスで捉えて良いと思います。ちょっとざっくりしすぎですが。ただし、ここではその「偽物」性が問題になります(後述)。

(3) 「理想」に対する「現実」。あるべきありようとしての理想に対して、そうではない状態としての「現実」です。こうなると「現実」は、単なる事実とは違って克服されるべき問題、理想への障害として捉えられることになります。(1)、(2)に比べると「現実」という語に否定的なニュアンスが強いですね。


とまあ、腑分けしただけでも色々とメンドクサイ雰囲気が漂ってきました。そして実際もっとメンドクサイのは、エロゲーの感想や批評で、それぞれの人がどの意味の「リアル」や「現実的」という語を使っているかわからないということです。基本的に「リアリティ」は肯定的な意味で用いられているため、(3)は余り見かけません。

ついでに、(1)の考えにも脱落してもらいましょう。というのは、個々人の感覚に頼らないような、絶対的な「現実」など存在するのか、という問題があるからです。感覚を超えた絶対的「現実」というと、倫理の教科書などで出てくるプラトンのイデアみたいなのを思い浮かべて頂ければ良いでしょうか。つまりこれ、「世界には本当の姿がある」という発想です。

哲学史的なことを言えば、これに異を唱えたのがカントという人でした。西洋哲学の専門家とかがいたら怖いですね。小声で言い直します。哲学史的なことを言えば、これに異を唱えたのがカントという人でした。有名な、「コペルニクス的転回」というやつです。割と重要なところなので、回り道かもしれませんが少しだけ説明させてください。

カントの行った「転回」というのは、いうなれば視点の斬新な変更です。それまでの認識論では、世界の側に真実があり、人間がそれを認識しているけれどズレる、という発想でした。つまり、モノが正しく見えていない、という場合の正しさは、世界の側にあったわけです。しかしカントは、そんなもん人間にわかる?と問い直しました。そして、わからないだろう、と。わからないのであれば、無いも一緒じゃないか。それならちゃんと認識できる部分について限定して話そう。それが哲学の仕事だ、と、まあそんな感じのことを言った。これはつまり、正しい認識の正しさを、世界ではなく認識主体の側に転換したわけです。以上が、カントの行った「転回」です。超大ざっぱですが、高校程度の知識としてはこれで問題ないと思います。

エロゲーを現象ではなく「現実」だ、真の世界だ、という立場はかなりレアい気がしますし(時々見かけますが)、あったとしてもカント先生が言うとおり、現象を超えた「現実」などというものがありえるのかという厄介な問題が発生します。その判断基準についてもいろいろありえるわけですが、一応私たちの素朴な思考のレベルでは、現象を超えた「現実」には触れられない、と考えて、ひとまず今回はこの立場を斥けます。

ということで残ったのは(2)、虚構に対する「現実」ですね。もともとエロゲーというフィクションの話なので、最初からこれだけ話すりゃ良かったのかもしれませんが、手続きすっとばすと後から知人に色々言われそうなので、形式的にですが手続きを踏みました。一緒に地雷も踏んだ気がしますが、それは気づかなかったことに。

▼虚構は「現実」のまがいもの?
では、いよいよ虚構に対する「現実」の話に参りましょう。その意味で「現実」(リアリティ)を大事にする人というのは、基本的にフィクションを下に見ています。先に挙げた、「キャラクターの心情のリアリティがない」云々を例にとれば一発でお解りいただけないでしょうか。虚構は偽物であり、本物の「現実」こそが重要。それに近いほど虚構には価値がある、という立場ですね。こういう立場で「リアリティ」を使う人というのは非常に多い気がします。しかし、本当にそれで良いのでしょうか?

発泡酒のCMで、「ビールと間違えるくらい美味い」というのがありました。これは、ビールという《本物》に、発泡酒が限りなく近づいている、だからこの発泡酒は凄い、ということだと思います。虚構と「現実」の話と似ていますね。もちろん対応は、虚構が発泡酒、「現実」がビール。

しかし、もし発泡酒好きの人がいたら、怒るのではないでしょうか。俺たちは、嫌々発泡酒を飲んでいるわけではない。ビールよりうまいと思って飲んでいるのだ。何が悲しくて、ビールなんぞと間違えねばならないのだ、と。少なくとも私が発泡酒好きなら、偽物のビールとしてしか扱われていないことに対して怒ります。同じことを、虚構と「現実」にもあてはめることはできないでしょうか。つまり、虚構は「現実」との対関係ではあるけれど、もはやその価値や意味は、「現実」から独立していても良いのだ、と考えることはできると思うのです。

もしも単純に「現実」が良いのなら、虚構はただの代用品です。私たちは「現実」を限られた範囲でしか味わうことができないから、その慰めとして虚構(フィクション)を楽しむ。そういう立場はありえると思います。糖尿の検査引っかかったから、ビールはやめて発泡酒、糖質カットもつけちゃおう、みたいな。しかし、その路線で虚構を褒めれば褒めるほど、虚構そのものの価値は下げていることにもなるのです。「リアリティ」は確かに、一つの判りやすい判断基準として機能しています。けれどそれを振り回した瞬間、虚構は絶対に「現実」に勝てなくなってしまう。私は、そのことが常々不満でした。

だからこそ、「現実」的であることを価値と見なさない立場もあるだろうと思うのです。肯定的という意味では、この記事の最初のほうで棄却した(3)の立場と似ていますが、厳密には違います。「理想」は「現実」の延長であり、まさにあるべき「現実」として虚構と「現実」の立場を入れ替えただけにすぎません。ビールが発泡酒になるべきだ(健康に良いんだから!)みたいなものです。私が言っているのはそうではなく、虚構の世界・フィクションの世界が「現実」から独立して、それ自体として別の価値を持つことができるのではないか、ということです。発泡酒にはビールとは異なる、発泡酒独自の美味しさがありえるように。

まったく同じではないにしても、『無限煉姦』のところで書いた、東浩紀の議論などは、実はこの虚構性を巡っての議論を含み込む射程を持っています(大澤真幸『虚構の時代の果て』などとの関係)。これ以上は単に私の立場表明ですし、更にややこしい話になるので一旦筆を置きますが、私たちが「リアリティ」というときにどういう意味合いで使っているのか、まずはそのことに自覚的であるべき。そしてその言葉を用いることで、無自覚に前提されてしまう立場(「現実」>虚構)があるということも意識しておいて良いのではないでしょうか。

▼「リアリティ」を読み・使うために
くり返しますが、「リアリティ」を使うなとか、そういう話ではないです。一つの判断基準として優れた物差しですし、現実の代用品としての「物語」を求めている人は多いでしょうから。ただ、そうでない立場の人がいるということも覚えていて欲しい。

また、書いてある感想や批評を読むと、あきらかに「そうでない立場の人」なのに、「現実性(リアリティ)」とか「現実的(リアル)」という言葉を使ってしまっているがゆえに、感想や批評が妙な具合にねじれてしまっている方を少なからずお見かけします。あるいは、分け切れていないせいでごちゃまぜに評価してしまって内容が分かりにくくなっていたり。

クリエイターさんの発言でもそうですね。「リアリティを追求しました」とかいうのを、文字通りに取らない方が良くて、作品内世界の整合性をとりました、くらいのニュアンスの場合がすごく多いような気がします。「理想の恋人を、すごくリアルに描いたんですよ」なんて言われると、何が言いたいのか解らなくなってしまう。その人にとって理想こそが大事なのか、リアルなことが大事なのか、その二つは矛盾しているのかしていないのか、ぱっと判断できないんですね。

たぶんそう言うときは、読む側が「どういう意味の「リアル」なのか」を斟酌して読めば良い。語りの技術としても、読みの技術としても、「リアリティ」という語に注意すると色々はっきりスッキリするんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?

今回はそんな感じで。
文章の乱れは適宜修正していく予定です。

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【2012年1月31日追記】
この記事を書くきっかけになりました、めざましさんの「めばえ」感想を紹介させていただきます。
 → めざましさんのレビュー(ネタバレ無)

めざましさんはここで、《現実》と《理想》という対立を取りあげておられます。《現実》と《理想》が別々の価値を主張する(《現実》は現実主義を、《理想》は理想主義を唱える)一方、一般的には《理想》のほうがエロゲーユーザーには重視される、というのがここで言われていることでしょうか。これはつまり、私の言ってきた、「現実」から独立した「虚構」というものが、めざましさんの《理想》と対応するように思います。

以下、コメント欄の内容を簡単にまとめることになりますが、めざましさんのご感想を、めざましさんのおっしゃっておられる路線で更に貫徹するなら、《現実》の体現者が莉子、《理想》の体現者が杏奈だった、ということになるように、私には思われました。だからこそ、リアリティという標語が取り下げられたのかな、と。実際、杏奈はあんな姉さんいないだろっていうアンリアルな感じでしたし(笑)。

そんなわけで、大変面白く読ませて頂いたレビューでした。しっかり考えられたうえで書かれ、しかもその考えのプロセスを追い掛けられるレビューというのは良いですね。しかも、作品やキャラへの愛に溢れていると、これは読むのがとても楽しい。めざましさん、楽しい感想をありがとうございました。でも私は杏奈派ですが

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