書くことが無いわけではないのですが、エロゲーではない話を。

ツイッターにも書いたのですが、ネットにおける「批判」は、ほとんど非難と直結してしまっていて、生産性に欠けるきらいがあると思っています。批判そのものが目的、あるいは批判によって相手の地位なり名誉なりを貶め、自分の溜飲を下げることが目的になっていることが多い。それ自体はたとえばストレスの発散だとか、社会的正義による制裁の代行といった意味合いを含むのかもしれませんが、とくに自分にとってのプラスの価値に転じにくいという問題があります。

これはRTで回ってきたのですが、「もっともらしいことを言ってる奴なんてだいたい何かのパクりだろ」みたいな話。これは、一見すると発言者の公平性を非難しているように見えます。しかし、何かを参考にしたり、影響をうけたりせずに喋っている人のほうが稀です。そうでなくとも、全ての発言に引用もとを付ける必要などない。むしろそこは、読み手こそが、「あの話はこれに似ている」と察するべきところのように思います。

もちろんこれは、まんまパクリなどを肯定しているわけではありません。ただ、パクりがパクりで断罪される必要があるのとは別に、パクられた発言なり論述なりから自分が学ぶことができる可能性は高いはずです。

たとえば、誰かの書いた物やツイートを丸パクリして、さも自分のことのように喋る人がいたとしましょう。その人がやっていることは剽窃ですから、行為自体は糾弾されるべきです。しかし、その人の発言を見て、自分がしょっちゅう納得していたのだとしたら、自分にとってその人は、得難い情報を提供してくれる、たいへんありがたい存在だった、ということにもなります。

盗んだ金を配られたって嬉しくない、というのはその通りですから、これはあくまでも極端な例。しかし、実際問題の知的な営為としては、その人がパクったかパクってないかよりも、その発言から何が引き出せるか、ということを考える方が生産的です。

もう少し踏み込んでみましょう。自分が知っている本と同じようなことを言っている相手がいたとしたら、「おまえこの本からパクっただろう」と言うほうが良いか。それとも、「あなたの弁は、この本のこの話と似ているけれど、自分はこう解釈したし、あなたはこう解釈しているように思う。違いがあるが、どう思うか」と問うほうが良いか。個人の好みによるかもしれませんが、少なくとも私は後者が好きです。そのほうが、発展性のある話ができると思う。「おまえパクリだろ」というのは断罪して優越感を得る以外、役に立つようには思えません。

そのパクった人のためを思うなら、そこで厳しく追及して、いかにパクることにメリットが無いかを実感させる必要もあるでしょう。ただ、それは指導者の立場であって、憎まれてまでそんな損な役回りを引き受ける気にはなかなかなれない。しかも、顔の見えない相手だったら尚更。結局自分にとってプラスになるのは、断罪よりも新しい知識や知見をひろめることであり、考えるヒントを意見の交流から得ることです。ならば、折角得た機会を無駄に費やすのではなく、可能性を少しでも広げるために使いたいのが人情ではないでしょうか。

もともとそんな剽窃する奴と喋っても無駄だという立場をとるなら、断罪するコストも勿体ないのでスルーしてれば良いわけで、余計に積極的に断罪する意義は見出せないように思います。

ネットは集合知だ、クラウドだ、という話があり、さまざまな角度から批判が加えられている様子を見ると、その通りだなと思います。しかし、現状の批判そのものが目的化している様子を見ていると、まだクラウドが社会的に活かされているとは思いにくい。これをいかにして生産的な方向へと向かわせるかが、新しいメディアの課題なのかもしれません。

てな思いつきをつらつら書いてみました。

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