何やらTwitterでの「クソリプ」云々が盛り上がっているようで。ちょっとだけ思うところを。

ことば自体は前からよく聞きましたが、爆発的に広まったのはこの辺のツイートの絡みなんでしょうか。



ことの発端はもはや藪の中といったところなのですが、その辺は今回私の興味関心ではないのでいったん措きます。

タイムラインの流れなどを見ていた印象では、それまで何となくみんなが抱えていた「噛み合わない会話」みたなものに対して、「クソリプ」という名の器が相応しいんじゃない? みたいな流れから、みんなが「あれもクソリプ、これもクソリプ」と同意していってる感じでした。 

上記ツイートのような「分類」や、その前後にあった「クソリプ」関連の拡散したツイートを拝見した限り、「クソリプ」と呼ばれるものは要するに「俺が返答に困るもの」程度の意味だったんだろうと思います。それが「分類」のほうがひとり歩きして、「なぜクソリプやクソリプを送る奴が悪いか」みたいな話が混ざり、「クソリプ送ってくるやつはこれが気に入らない」みたいなところに落ち着いていったように見えた。

私は、「クソリプ」が何であるかみたいな定義問題はどうでもいい人です。ただ、その言い方によってコミュニケーションを断ってしまうというのは、いささか寂しい。

だいたいの会話において、意思疎通がバッチリできていることなんて希でしょう。「いい天気ですね」「そうですね」だけの会話でも、二人の間で「いい天気」の意味が違っているかも知れない。文脈を追いかけるには限界があるし、微妙な齟齬というのはどうしたって出てきます。

私が思うに、コミュニケーションというのはその食い違いを埋めていく作業でもあると思うのですが、最初から「あわない」ということを理由にはねのけてしまっては、交流の可能性が消えてしまうでしょう。

また、「クソリプ失礼します」のような枕をおいてリプライを送ってくる人がいるが、クソなら送る必要がないので、その枕自体が既に「クソリプ」、のような話もありました。これはぶっちゃけ、贈り物の際に「つまらないものですが」と言って渡す、みたいな一種の儀礼的要素が大きい発言ではないかと思います。つまり、コンスタティブなことばの意味よりも、パフォーマティブな意味のほうに比重が置かれている。そこは汲みとるほうがいいのかな、と。「大草原不可避」みたいなネタやテンプレートを巧みに操るネット民は、そういうの得意じゃないかと思うけど、どうなんでしょうね。

たしかに答えにくいリプライというのはあるし、こちらの意図を全く汲んでいないと思われる発言もあるし、そういう人に限ってこっちの話に聞く耳持たないし……みたいなもどかしさを感じることはあります。だから、来た球全部を打ち返さないといけない、とはとても言えません。でも、自分が打ち返せないところに来たのは全部ボールだ、と見送ってしまうのは寂しいし、自分だって誰かと会話するときはボール球を投げることがあるわけじゃないですか(自分がどんなにストライク投げてるつもりでも、相手から見たらボールという可能性はある)。それこそ、この記事自体が「クソリプ」なわけですよ。

「クソリプ」ということばである種のコミュニケーションを総括するのは良いとしても、それを留保なしに悪いことであるということにして(「クソ」という時点で良い感じはしませんが)、「クソリプ乙」のようなひとことで閉めだしてしまった先には、画一的で貧相なコミュニケーションしか残らないような気がしてなりません。あるいはそれこそが心地よい、ということなのかもしれませんが、私なら逃げ出したいかな……。

きわどい球とかちょっとしたボール球くらいなら思い切って振ってみると案外綺麗なヒットが打てることもありますし、「クソリプ」を過度に厭がらず怖れず普通に会話していこうと、少なくとも私は思っています。