私が直接の被害を受けたわけではないのですが、仕事関係でちょっとトラブルめいたものを見かけたので、そこから思ったことなど。

私がこどもの頃、親や先生からよく言われたのは、「相手の気持ちになって」考えなさい、ということでした。これは何も、私がとくべつやんちゃだったとかそういう話ではなくして、一般論として、ということです。

もちろん、このことばの含意は「相手の気持ちを思いやり、あまり酷いことをしたり言ったりするな」ということでしょう。しかし、その意味とはうらはらに、「相手の気持ち」 への理解がまったく逆の結果を引き起こしている場面をしばしば見かけます。それはたとえば、次のような感じ。

上司 「こんな簡単なミスをして! もっと気をつけろ!」
部下 「いや、気をつけてはいたんですが……」 
上司 「嘘をつけ! どうせ、時間があると思ってだらだらしてたんだろ! 直前になって慌ててやりましたというのが透けて見えるんだよ! 仕事も人生もナメてんだよ!」 
部下 「いや、仕事ができないのは仰るとおりですが、ナメてるというわけでは……」
上司 「図星突かれて不機嫌になるとか、そういう態度がナメてんだよ!」

え、これくらい普通? う~ん、まあこの「部下」はミスをしでかしたのだから、「何を言われても仕方ない」のかもしれません。しかし、こういう言い方で注意を受けて、良い気持ちになる人は少ないんじゃないでしょうか。ミスをしたことについてニコニコされても困りますが、素直に「頑張るぞい!」とはならないように思われます。また、そもそもこういういやな思いをしたくなければ努力しろ、というのなら、体罰と大して変わらない話になってしまい、私はですけど、あんまり好きではありません。

もうちょっと言うと、ミスをしたほうが悪いのだから、何をどれだけ言われてもしかたがないというのは、その場で既にできあがった権力関係(ミスをした人とそれで迷惑を被った人の間の立場の上下)を利用したある種の暴力です。もちろん、あらゆる人間関係に権力関係は潜んでいるし、私がいま述べていることも、権力関係をひっくり返してあたらしい暴力を生み出しているといえばその通りかも。けど、そこは分かったうえでそれでも、相手を軽々と傷つけるような暴力は控えるべきではないかと思うのです。

さて、上のような言い方の何が問題なのか。それは、「相手の気持ちになった」ことではないでしょうか。ただし、勝手に。

いやいや、「勝手」ではなく情況証拠からの論理的な推察である? そうかもしれませんが、相手はこういう人で、こういうことを考えていたに違いない――それを決めつけて語る。しかもその決めつけは、相手をかなり低く見積もっている。そりゃあ愉快な気持ちになる人のほうが珍しいでしょう。

相手を思いやるのではなく、「自分の考えた相手の像」を相手に押し付けているのですから(ついでに、その像に向かって怒りをぶちまけているというのが更に残念な感じです)、もともと「相手の気持ちになる」ということばが持っていた意味とは逆の結果をもたらしているのですが、やっている方としては、「自分は相手の気持ちをわかった」と思っているからこそ、こういう事態が引き起こされるわけですね、たぶん。

相手の気持ちを正確に読むのは正直無理でしょう。むしろ、そんなことができると思うことのほうが傲慢です。かといって、相手の気持ちについて考えることをまるっと放棄するのも考えものです。上に挙げたような、自分の考えた像を相手に押し付ける態度を許してしまうことになる。じゃあ、どうするか。

さきの上司と部下の話なら、たとえばこんな風に言ってみたらどうでしょう。

上司 「こんな簡単なミスをして! もっと気をつけろ!」
部下 「いや、気をつけてはいたんですが……」 
上司 「直前になって慌てたように見えるところがあるぞ! 時間があるあると思っていたらすぐなくなるんだから、ミスを見直すためにも早め早めにやるように心がけろ! 仕事も人生も同じだぞ!」 
部下 「はい、わかりました」

実際問題こんな風になるかどうか知りませんけど、同じような内容を伝えつつも印象は違いますよね。叱り方の強弱はあるにせよ、「相手の気持ち」を勝手に決めつけてそれをやる必要はありません。それを超えてまで相手の内面を問題にし、しかも攻撃したいというのはもはや人格攻撃に近く、単に相手をやっつけたいという思惑が勝っている態度であると思います。

そういう態度は、少なくとも問題解決や人間関係にとっては逆効果であることがほとんどです。せいぜい自分のプライドが満足するくらいでしょうか。もちろん、プライドを満たさざるを得ないのもまたある人のパーソナリティーですからそれ自体を否定はできないにしろ、社会的な正当性(今回であれば、相手がミスをしたということ)につけこむかたちでそれを満たそうとするのは、社会秩序と私的なエゴイズムを直繋ぎにする行為であって、あんまり上品ではないなという感じがします。

いや、そんなことを言い始めると、何も言えなくなってしまうではないか、という人もいるでしょう。実際、ここまで私が述べてきたこともまた、他の人の心の中を勝手に決めている部分があるではないかと言われると、その通りです。 しかし、「だから何も言うな」と主張するつもりもありません。そうではなく、自分と相手とが違うかもしれない、ということを意識し続けることが大事だ、と言いたい。

ぱっと見(?)は変なことを言っているように聞こえるかもしれません。しかし、こう言えばどうでしょう。

自分と相手とが違っているからといって「もういいや」と諦めたり開き直るのではなく、違っているのをいいことに一方的に自分勝手に振る舞うのでもなく、届かないかもしれないとわかった上でなお、届かせようという努力をしていく。そういう態度なり考え方なりがコミュニケーションにおいては大切なのではないか。

当然、そこには忍耐とか我慢とか、そういうものが必要になってくる。んでまあ、それはしんどい。でも、本を読むのもエロゲーやるのもコミュニケーションとるのも、そういうしんどい部分ってあると思うし、そこを乗り越えた先に待ってる面白さというのが私は好きです。もちろんただ耐えたから、我慢したから偉いわけではありませんが、私が「良いなぁ」と思う文章や話には、例外なくこの手の抑制が効いているように思われます(詩とか歌みたいなのは別ですよ)。

などと偉そうに申し上げてきましたが、かくいう私もレビューやら何やらで、「作り手の意図」みたいなものに言及したりするので、ブーメランになって返ってくると言われればそうかもしれません。ただ、一応の言い訳としては、解釈のひとつとして提出しているだけで、その解釈が絶対に正しいという立場から相手を断罪する……ということはしていないつもりです。たぶん。

結局、私の見ているものは、所詮ある一部の側面にすぎない。おそらく、対象には私が見えていない複雑さがあるはずです。それを、自分に都合のいい部分だけとりだしていいように扱ってしまうことへの恐怖というのが常につきまとう。だから、一定の留保を置くことになるし、おそらくはそうした留保こそが「敬意」であるとか「思いやり」と呼ばれるものの、1つのかたちではないかと思うのです。