『White Album2』の「After all」をリピートモードにしながら電車に揺られていて、ふと不思議に思ったのが、この作品でテーマソングや挿入歌を歌っている上原れなさんや津田朱里さんは、作品のどこに位置づくのだろう、ということ。なにげにこれ、無印『White Album』と『WA2』という作品にとって重要な違いじゃないかと思うんですよね。

以下、あんまりちゃんとした話ではないんですがと逃げ道を作りつつ、作品をプレイしたときの私の視点について語ります。

PC版『WA』が最初に出たのは1998年。当然、キャラにボイスなんて入ってませんでした。ヒロインの森川由綺ちゃんやライバル緒方理奈ちゃんがどんな声してるかとか分からなかったわけです。ただ、そんな作品の中で「声」が入る部分があった。それが、歌の部分です(必ずしもゲーム内で歌を歌うシーンで曲が流れるわけではないのですが)。

プレイしてる私としては、作中に出てくるタイトルと同じ曲名であることもあって、「これが由綺の歌ってる曲なんだな!」と信じて疑っていなかったし、今でもそう思っています。歌い手さんはかわるけれど、由綺の出したCDには、最初にゲームで聞いたあの音源が入っていたのだと。だから、アニメになって平野綾さんが声を担当されて、新しくCDが出ても、それは私の中では……ってまあそんなことはどうでもいいや。

とりあえず言いたいのは、『WA』は作中の世界で完結している感じがあったということです。もちろん、長瀬さんが出てきた時点でいろいろ思い出す場合はあるし、緒方(兄)を見た瞬間「なんだこの小室哲哉と久米宏を足して2で割ったみたいな嫌なヤローは」と思ったり、「そういえば広島の緒方調子良いよな……」と野球を思い出したりするかもしれませんが、その辺はまあ主人公(冬弥くん)とのシンクロにおいて誤差の範囲ではある。

しかし、『WA2』ではだいぶ事情がことなります。まず、主人公に声がある。これはOFFにすることが可能とはいえ、「私」と「春希」(『WA2』の主人公)の間の距離をぐっと広げます。そして、挿入歌。随所に挿入される上原れなさんや津田朱里さんの歌う楽曲は、雰囲気作りに非常に効果的であることは間違いないものの、それは作品のどこにも位置づかない音です。別の言い方をすれば、たぶん登場人物たちは聞いてない歌が流れる。その辺りで私はこの作品をTVドラマを見るように――傍観者として――味わうことになりました。

ことわっておくと、私は「だから物語に没入できる『WA』のほうが良い」みたいな話をしたいのではありません。それは誤解です。そうではなくて、この2つの作品はユーザー(というか私)を立たせる位置が違っていたのではないか、というだけの話です。好みの違いはあっても、どっちが良い悪いではない。

まあ『WA2』を担当された丸戸先生はどちらかというとこの手のメタ的な手法が得意なライターさんですので、非常にあっていたのではないかと思います。たとえば作中で自分の作品のネタを積極的に盛り込んだり、「ここがあの女のハウスね」と言わせてみたり、ビンタの応酬を再現してみせたり。そのあたりのこともあって、外側から修羅場を見てハラハラ……という感じが強かった。

いっぽう『WA』は、当時の私のエロゲー経験値の浅さも手伝っていたのかもしれませんが、割と自分のこととして引き受けている感覚がありました。身を切るような、というといかにも陳腐ですけれど、由綺にある「告白」をするシーンではあまりのしんどさに1度PC前を離脱し、1晩寝かせたけどやっぱりダメで、2日経ってからようやく「あああああ」という奇声とともに目をつぶりながら選択肢をクリックした記憶がある。

『WA2』も切ない作品ではあったのですが、選択肢のキツさは、しばらくトイレに立てこもるか、いったんゲームをバックグラウンドにまわしてネットサーフィンすればなんとか次に進めるくらいのものでした。この差というのは、両者の優劣ではなく、作品を見た場所の違いから来ているのだと私は考えています。ついでにいえば、作品の外部展開(声優さんによるラジオや、主題歌ライブなど)が活発になっている昨今、積極的に外へ拡張しやすい『WA2』のような方法が戦略的には向いているようにも思われます。

もちろん、「私」の立ち位置というのは作品の内か外かに完全に(はっきりと)分けられるものではありません。『WA』をやっている時、私は自分がマウス操作をしたりトイレにいったりする「傍観者」であることを意識しますし、『WA2』をやっていて春希に自分が重なることがまるでないなどということはありえない。どうしたって混ざってきます。だからこれは形式的にはグラデーションみたいな話ではあるのですが、単なる程度問題だけでもないかなぁと。

どちらの方法でも作品は面白く味わえましたが、両者に感じた微妙な、しかし決定的な手触りの違いは、その辺りに起因していたのではないかと、そんなお話でした。