よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

巨乳ファンタジーの話

心底どうでもいい話なのですが、「巨乳ファンタジー」というエロゲーがありまして、それの続編(「巨乳ファンタジー2」)が先日発売されました。

んで、シコシコプレイをしていてふと、くだらないことを思いついた。「巨乳ファンタジーの反対は貧乳リアルなのかなぁ」と。巨乳の出てくるファンタジーというより、巨乳はファンタジーだけど、貧乳こそが我々のリアルなのだ、と……。k-pさんのおっしゃるところ、ここにはもっと深遠なメッセージがこめられている(かもしれない)そうですが、そこまでは考えてませんでした。

なんとなく「貧乳リアル」という表現が気に入ったのでツイッターで呟いてみたり、知り合いにドヤ顔で話したりしていたのですが、そうするといやどうでもいいけどちょっとまて、と友人に言われまして。曰く、「リアル貧乳じゃないのか」と。

うわー、ほんとどうでも良いわ。


と思ったのですが、ちょっと真面目に考えてみて、いやそのりくつはおかしい、と。だって「リアル貧乳」というのは「ほんとに貧乳」という意味ですから、それの反対(反対が何かとか、もうそういう話はおいときます)は「偽の巨乳」、つまり「偽乳」(胸パッド)ということになります。それは、「虚乳ファンタジー」であって、「巨乳ファンタジー」では無い。

そう言うと、「巨乳」の反対は「無乳」だとか、いや実は「微乳」ではないかとか色々言われたのですが、更にどうでもいいので割愛。

肝心の作品は、そのうち感想を書きたいなぁと思っているものの、進捗のほうがまだ全員クリアーしていないという状況。前回と比べて成り上がり感は低いですが、なかなか面白い感じです。前作のファンなら購入して損はしないかなあ。

今回は女性陣の大多数がはじめから主人公の味方。前作のように敵を魅力でメロメロにする醍醐味や、あからさまなハニートラップをエロパワーで台無しにするような爽快感はあまりありません。前作はむしろ、ほとんど全員敵だったような気がしてきた。それが何かいつの間にか全部味方になってるというあのスッキリ感が味わえないのはちょっと残念でした。

あと、エルフにダークエルフ、サキュバスに人魚と人外系が多く、しかも最初からゼビアという嫁候補が決まっているので(そのワリにシャハルのEDが衝撃的でしたが)、その辺好みはハッキリわかれそう。私はバリバリOKでしたけどね!

全部終わったら感想書きますが、現状批評空間モードで採点すれば80点近く行きそうな気配はしています。グランドルートを残しているので、どんな形でケリがつくのか、いまから楽しみ。もしかすると今日は眠れないかもしれない……。

などといったところで、本日はこれにて。それでは、また明日。

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レビュー:『烙印の紋章』

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杉原 智則『烙印の紋章』
(電撃文庫、2008年~続刊 イラスト:3)

関連記事 :『烙印の紋章』完結(2012年10月10日)

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【訂正】主人公の名前を「オリバ」と誤って記載していた箇所をすべて「オルバ」へと訂正しました。初歩的なミスでファンの方にご不快を与えていたら申し訳ございません。ご指摘ありがとうございました。(2012年12月14日)
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いま(刊行中の)一番面白いラノベは何ですか? そう聞かれたら「わかりません」と答えます。「ラノベとは何か」などという問いは措くとして、面白いラノベはたくさんあるし、違う面白さを比較することは難しいから。けれど、もしも問いが、いま(刊行中の)一番好きなラノベは何ですか? だったら。私は、迷わずこの『烙印の紋章』の名前を挙げます。……いや、『ソードアート・オンライン』も好きだし、『なれる!SE』も……ってまあ細かいことはいいんです! そのくらい好きということです!

ジャンルとしては、ファンタジー+戦記もので良いと思います(11巻紹介文では「戦記ファンタジー」)。一部に根強いファンがいるとはいえ、昨今の主流は学園もので、ただでもファンタジー停滞の時代。しかも更に人気薄の戦記もの。ファンタジー+戦記の相性がどのくらい厳しいかというと、『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズで一躍脚光を浴びた三上延氏が、ほぼ同時期に書いておられた電撃文庫の『偽りのドラグーン』がわずか5巻で終了していることからも、なんとなく推察できるかもしれません。『偽ドラ』に関しては、巷で騒がれているように実際に打ち切りだったのか否か、その辺定かでありませんが、いまやラノベの主流は現代学園モノ。それはほぼ間違いない。学園ファンタジーならまだ主流派の感じもしますが、歴史小説風の戦記ファンタジーのジャンル的な逆風たるや、少なからぬものがあったのではないかと思います。

そんな中、戦記ファンタジーが10巻以上も続いたというのは快挙と言っていいのかな……。この前全13巻でめでたく完結を迎えた、師走トオル『火の国、風の国物語』もあり、これに並ぶかと期待していたのですが、とうとう今回、11巻のあとがきで、「次巻完結」の旨が告知されてしまいました。・゚・(ノД`)・゚・。うゎぁあああん!!

言い回しが複雑で漢字率が高く文字がぎっしりで効果音ほとんど無しと、文体はかなり硬派。しかもイラストの男率が異様に高かったり(今回のカラーページなんか、キャライラスト6枚中女性キャラ2人でした。この辺が師走トオル先生との違いといえば違いですか)、ヒロインがサッパリ出てこない巻があったりと、ある意味でラノベのお約束を完全スルーした潔い内容でしたから、いつ打ち切りが来るか、ファンとしてはヒヤヒヤ。意外と長持ちして安心していたら、やはり油断大敵というべきか、とうとう、来るべき時が来てしまいました。

打ち切りなのかどうなのかはわかりません。あとがきに散りばめられた、「打ち切り」だの「敗者は無言で去るのみ」だのという言葉からは打ち切りなのかなあ、という気もするし、公開プロットを見ると一応想定していた最後のところまでは(三国同盟)行くから、納得の終了なのかなあ……とも思える。その辺ボカしてかいておられます。まあ、実際のところどうでもいいといえば良い。打ち切りだろうが何だろうが、素晴らしい作品があればそれで良いのです。それは真理。しかし、これで終わりというのはいかにも勿体ないし残念です。

世界が広がる余地はまだまだあったし、とても味のある新キャラが複数、11巻にして登場。キャラも世界も深みを増してきていただけに、もちろんこれまででも高い完成度を誇っているのですが、もう少し、オルバやビリーナの活躍を見ていたかった。そんな思いが止まりません。打ち切りなら勿論ここからバカウレして撤回になる可能性は低いですし、著者がここで終わる、と決められたなら余計に、これ以上話が続くとは考えにくい。『烙印の紋章 Second Season』とか出てくれないか……という秘かな期待が叶う可能性は低そう。

とはいえ、完結せずにいつの間にか消え去っていく多くの名作たちと比べると(十二国記とか、皇国の守護者とか、続きはいつでるんでしょうか……)、きちんと「終わり」を迎えられるのは、作品としても読者としても、はるかに幸せなことかもしれません。

そんなわけで、今回は2012年6月8日に発売された最新刊、『烙印の紋章 XI あかつきの空を竜は翔ける(上)』の感想がてら、遅すぎるステマを展開したいと思います。作品全体については12巻発売の際にあらためて行うつもりですが、この面白い作品がまだ現刊本として入手しやすい間に、興味をお持ちの方に伝われば良いな。そんな風に考えて今回の記事になりました。


メフィウス皇国の皇太子ギルは皇子であることを盾に取り、傍若無人な振る舞いを続けていた。ある時、近衛兵の娘・ライラに「初夜権」を行使しようとしたギルは、父親によって殺害されてしまう。その場に居合わせた野心家の貴族・フェドムは、皇子が死んだ事実を隠蔽。秘かに目を付けていた、ギルにそっくりな奴隷剣士・オルバをギルに仕立てあげ、権力の中枢へ食い込もうと画策する。こうして、奴隷オルバは「ギル・メフィウス皇太子」としての生活を送ることになるのだった。

というのがあらすじ。スズキヒサシ『タザリア王国物語』と、ちょっと似ていますね。ヤンデレの姉妹が出てくるのもそっくりです。病み方はちょっと違いますが。

まあこの皇子になった奴隷のオルバが、大活躍します。敵国の陰謀を潰し、そこの姫を婚約者として迎えいれる。一方で、奴隷剣士たちを「近衛兵」として側近に迎える大改革を行い、自ら「仮面の騎士」として闘技会で優勝してみせたり、ついでに仮面をつけたまま「皇子の側近」を名乗って、戦争では獅子奮迅の活躍をする。

ところが、そうして活躍をすればするほど、父親である王・グールから疎まれて暗殺されそうになります。さすが独裁者。息子でも自分以上の力を持ちそうになったら容赦なし。で、オルバは辛うじて難を逃れるけれど、普通に戻ると殺されるだけだということで、皇子は精子不明ということにして、メフィウス皇国と敵対関係にある西方の連合国へと逃れます。(第一部)

一旦ギルをやめて「仮面の剣士」に戻ったオルバは、正体を明かさずに、西国へ行きますが、そちらでも大活躍。んで、西のほうの姫様にも惚れられちゃったりなんかしちゃったりしてよろしくやっていたら、どうもメフィウス本国のほうで不穏な動きがある、という話になって、それじゃあ戻らないといけないということで、今度は西の兵を率いてメフィウスへ迫ります。(第二部)

そこで一旦正気に返る。これまではギル皇子として振る舞わなければ、という強迫観念に駆られて必死に走ってきたけれど、自分が「オルバなのかギルなのか」と悩むようになります。自分はギル・メフィウスでは無い。けれど、自分をギルと信じて付いてきている部下や婚約者がいる。自分はどうあるべきなのだろう、と。そうして悩んでいたところ、今度は東から大国アリオンが侵略戦争を仕掛けてきた。これは内紛をしている場合じゃないぞ、というところで現在の話になっています。

▼ ※以下、11巻のネタバレが少しだけ含まれます
11巻は、オルバくんの見せ場が満載。「われわれの戦いにおいて、失ってはならぬものがひとつだけあるとしたなら、それは何だと思う」という問い、大義のために戦う姿勢を示し、グール皇帝との直接対決で弁舌爽やかに皇帝を論破したかと思えば、怒濤のような感情の奔流を見せつける。

後世の歴史家がなにをいおうとも構うまい、しかしいま、いま、おれたちは、人心、民心を失うわけにはいかないのだ

うーん、カッコイイですね! こう言い切ってとある決断を下すオルバくんは、もうかつて無いくらい輝いている。本作では時々、歴史の視点と実際にその現実を生きている人間の視点の違い、みたいなものが言われて、俯瞰的な歴史の視点によって切り落とされてしまう、実際に生きている人々の情念のようなものを描き取ろうとするところがあります。歴史ものの王道といえばそうですが、今回も随所で効果的にそんなエピソードが挿まれていて、キャラクターの哀切がうまく表現されていたと思います。

ただ、本巻のメインはやっぱりヒロイン二人だったかな。

一人は婚約者のビリーナ王女。ツンデレだけに素直に好きだとか愛してるとかは言いませんが、じっとギル(オルバ)のことを考え、あるいは本人よりも深く彼のことを理解しようとする一途な想いが輝いていました。もう一人は、ヤンデレ王女のイネーリちゃん。彼女はギルの義妹で、オルバが偽物として振る舞っていることを知る数少ない人物ですが、今巻でついに、オルバの秘密を知ります。その時のイネーリたんの反応たるや。

イネーリは身体に火がつけられたと錯覚するほどに熱い、これまでにないほどの怒りを感じた。と同時に、その肉体を駆け巡った熱には、一種異様なまでの心地よさもが含まれていた。」

エロゲーだったら間違いなく、ひとりエッチのエロシーン挿入です。オルバしか見えない、という意味では、彼女のほうもまた、オルバに惚れてる。オルバから受けた屈辱を晴らそうという、相当にどす黒い想いですけど。

その愛と見分けの付かない執念が、今回炸裂。多段式爆弾なのでまだあと1、2発来るのは間違いないですが、とうとう来たか! という感じ。なんかヒロイン候補が他にも1人、2人いたはずなんですが(ホウ・ランとか)、完璧にイネーリたんにくわれちゃいました。図式は完全に、ツンデレvsヤンデレ。

この後、オルバくんなりギル皇子なりがどういう活躍をして、王国がどういう着地点を見つけるか、とても気になるし楽しみですが、果たしてオルバの恋の行方もどうなるか、見所満載過ぎてちょっと困ります。ホントに次の巻で全部終わるんでしょうか……。『ホライゾン』くらいの分量で、倍の値段になってもいいから、細かく全部描いて欲しいと心から願う次第です。

本当はこのあとアリオンとの戦いや、魔導国家の行く末などの話もあったのではないかと想像するのですが、どうやらそのあたりは見られずに終わりそう。このまま続けば『デルフィニア戦記』のように傑作長編たりえたと思うだけに残念です。繰り言で申し訳ない。完結はめでたいことと頭では理解しつつ、でもホントに勿体ないなぁ。・゚・(ノД`)・゚・。

ともあれ、面白い作品であることは間違いない。最終巻がいつ頃になるか、どんな内容になるか、期待したいと思います。

それでは本日はこの辺で。また明日、お会いしましょう。

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2012年12月14日 追記(2)
頂いた非公開コメントへのお返事です。まずは投稿者さま、コメントをありがとうございました。十分な内容であるかはわかりませんが、以下、回答を記載します。

名前間違いのご指摘に関しては以前も誤記載しており、お恥ずかしい限り。読んだり口にするときはちゃんと言えてるハズなのですが、何故か書くと……。ともあれ感謝です。

さて内容のほう。非公開コメントなので全文抜粋はできませんが、要旨は以下と読みました。
1.私の作品に対する「説明」が「明らかに間違」いである
2.細かな読解不足
 ・皇太子として戦うことに必死になったのは第三部から。それまでは復讐の手段。
 ・オルバの悩みは自分を見失ったからではなく、自身の出生が枷になることを知ったから
3.もっとオルバやキャラの心情や動機の変化についてよむべき
 ・「いくらなんでも本編の描写と食い違い過ぎ」

まず「1」についてですが、私の書いたオルバが身を隠した理由が「建前」なのはその通りだと思います。が、ここで建前を書いたのは2つ理由がある。

1つは、きっかけであることは間違いないからです。一応五巻p.62にはオルバが身を隠した2つの理由が書かれており、その一方(「もう……必要もない」のほう)を、少し前のアークスとラバンの会話なども踏まえて書いたつもりです。もう一方を書かなかったのは、「こいつどうなるんだろう」と思ってこれから読む方へのネタバレになる可能性が大きいと判断したからです。

オルバの行方もネタバレだろ、と思われるかもしれませんが、その辺の判断は公表されている公式の紹介文に準拠しており、一応私の中ではある程度明確な線引きのもとに行われています。

もう1つは、ここに書いたまとめが要旨要約というよりは、単純なあらすじのつもりだったからです。あらすじには幾つかの書き方があると思いますが、私はできるだけ内容にはつっこまず、公式情報よりちょっとチラ見せするくらいのつもりで書いています。自分の意図をいれる「要約」などとはやや区別しているので、上記五巻にあった直接的な「理由」説明を採用しました。

さて、「2」のこと。私の「読み不足」として投稿者さんがご指摘くださったことですが、私は自分の読みが誤っているとは思いません。

たとえば第一部で、皇太子として戦うことを「私欲を果たすための手段としか見て」いないという投稿者さんの解釈には、私は反対します。5巻P34-35あたりで言われているように、彼は「事後処理」をしていった。もし本当にただの手段なら、目的が達成された後のことは考える必要が無い。その他、オルバが「手段以上」に思い入れている部分は多々見受けられます。

そのことが全体の解釈にも関わってきて、私はオルバの悩みは王族と奴隷の身分差のようなものがそれほど重要なこととは読んでいません。もちろんそれを投稿者さんは「誤読」と言っておられるのですが、私は表面的なところをもう少し丁寧(かつ忠実に)読んだつもりです。

「もう誰の戦でもない。これは、ギルとしての――『自分』の戦だ」(9巻p.82)とオルバは言っています。ギルとしての『自分』とカッコが付いているのがポイントでしょう。「自分」とは誰なのか。ギルが自分なのか、オルバが自分なのか。作品に通底するのがその悩みです。事実、最初から「仮面」というのが、彼が「自分」をもてないことの象徴として、常にとり扱われてきました。(たとえば4巻末「少年はふたつの仮面を脱いだのだった」p.305 ※註は無粋かもしれませんが、ここでは「オルバ」も「ギル」も「仮面」として扱われている、というのが私の言いたいことです。仮面は本来一つですから、普通なら素顔-仮面という対比になるはずですが、そうなっていない。「彼は何者か」というのが、読者とオルバ自身に共有される問いであるはずです)

続く10巻の「いつからだ。そしていつまで、おまえは皇太子なのだ」(p.364)というパーシルの問いも、傍点が振ってあり、その答えを答えない(答えられない)という時点で、単に期間を問うているわけでないことは明白です。

この問いがオルバに対して持ったであろう意味をあえて言い直すなら、「おまえはいつから皇太子だったのだ? フェドムに影武者を言い渡された時からか? 皇太子が死んだ時からか? ビリーナを救った時からか? そもそも、お前は皇太子だったことがあるのか? そして、お前はやめたつもりかもしれないが、皇太子であったお前をやめることはできているのか? お前は、お前のかつての生き方を無かったことにできているのか?」みたいな感じでしょう。クドいですね。そりゃパーシルさんのような言い方のほうがカッコイイです。

で、このまま「3」の回答へ走りますが、私もオルバやキャラの心情に注目して読んでいるつもりです。

そもそもオルバは投稿者さんがおっしゃるような「王族に対する負の感情」とは少し違うものを持っていると、私は思います。単なる王族嫌いなら5巻でエスメナに呼ばれたときに拒絶反応を起こしても良いし、ロージィも別に王族だからと嫌ってはいません。むしろ、彼が嫌うのは殿を「誉ある任務」(5巻p.165)と言い切って死地へ向かうことや、「信念や武人としての誇り」(p.215)です。

これをオルバが毛嫌いするのは、作中描写では、かつて権力者によって酷い目にあったとか、王族が嫌いだからとかではなく、彼らのように何か信じるものがあって、常に確固たる「自分」を保っていられる人がまぶしく見えるからでしょう。それは、自分には無いものだと思っている。あるいは、自分とは相容れないものだと(オルバ自身は)思っているからです。

権力者への敵意は、むしろオーバリーへ直接向けられていて、その他の権力者には反意と同時に敬意のようなものも抱いています。それは、「徐々に変化した」という類のものではなく、最初からオルバの中にある。実際、その毛嫌いは憧れと裏表(ビリーナへの感情がそうであるように)となっています。

オルバの物語がビリーナに「自分」のことを語るという形に落ち着くのは、だから私の中では必然であると思う。アレは別に、王族もいいな、という単純な話だけではないはずです。彼自身の内面の成長というのなら、己は何ものかを探り当てた(あるいは、すぐ側にあった)ということではなかったか、と。

「いくらなんでも本編の描写と食い違い過ぎ」というご指摘だったので、ある程度具体的に(すぐ全部から引用は無理ですが、私なりにわかる範囲で)引用なども踏まえてお話をしてみましたが、いかがでしょうか。

私としてはそこまでおかしなことを書いたつもりは無く、私がこの作品を好きであるということにも疑いをもしもたれたのだとしたら、同じ作品を好きな者同士なのに、大変残念な次第です。

コメント欄には文字数の制限がございますので(これはいかんともしがたく、申し訳ありません)、ご自身のお考えを書ききれないこともあるかと思います。その時はコメントを複数なり、メールなり何なりでご意見お寄せいただければ幸いです。

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それでもエロゲーをやめない僕へ3――〈物語〉を楽しむ方法

◆前記事1 「それでもエロゲーをやめない僕へ1――物語の自律性」(5/31)

◆前記事2 「それでもエロゲーをやめない僕へ1.5――自律性にこだわる理由」(6/1)

◆前記事3「それでもエロゲーをやめない僕へ2――エロゲーは〈物語〉なのか」(6/2)

『オイランルージュ -花魁艶紅-』というエロゲーがあります。

江戸の遊郭(吉原)を舞台に、花魁と店主の恋を描いた物語ですが、これをプレイして、「風俗に身を落とす女を肯定的に描くとは、女性蔑視だけしからん。彼女たちは本当は全員不幸なのだ」とか、そういうことを言う人が身近にいました。「こんなのやって喜んでるなんてOYOYO君って最低の屑ね」(CV:サトウユキさん)というわけです。

「こいつ、『赤線街路』絶賛してなかったっけ……」と思いつつ、どこかの青少年課長のように「社会的に是認されているかのように描いたり、あるいは必要以上に反復して詳細に描いているというものではありませんので」とでも言ってひらりとかわせばよかったのかもしれませんが、ぶっちゃけ「なら最初からやるなよ」、と思わないでもなかったので「いや、そのりくつはおかしい」と延々お互い当たらない拳を撃ち合うハメになりました。

私は原理原則主義者なので、そういう感想を抱くこと自体は否定できません。ただ、実につまんない感想だとは思う。だって、「風俗産業を描くのは女性蔑視」ってそれ、作品の内容と関係ない話じゃないですか。『空想科学読本』のようなネタならまだしも、ウルトラマンを見て「動物虐待」と言っているようなもので、気分は「お前それサバンナでも同じ事言えんの?」状態。

これは、結論というよりもそもそも「問い」がつまんない。私は、そんな風に思います。この人にとっては、「女性差別を助長しかねない作品をのさばらせていいのか?」みたいな「問い」があって、「よくない」という答えをあらかじめ決めたまま作品を見ている。振り回した大鉈に巻き込まれた天音や氷笹(『花魁』のキャラ)はたまったもんじゃありません。

男女差別に対する「高い意識」が反映されているのは認めても、私は二つの面からこういう考えに賛成しづらい。一つは、独立した観念の世界である〈物語〉に、現実の男女差別問題を何の留保も無くストレートにあてはめていること(これが社会問題を扱った作品だというなら文句は言いません)。もう一つは、その男女差別意識はユーザーのものであって、作品のものではない、ということ(作中の遊女たちが感じている「幸せ」を、全部偽物だと否定してしまう)。そこには、ユーザーの固有性はあっても、作品の固有性は無くなっている。

たびたび述べてきた、「〈物語〉は作品とユーザーの固有性の交わる場」というのは、具体的にはこのような事態を念頭においたものでした。〈物語〉において作品だけを見ようとしたら単なる事実認定しかできないし、ユーザーが身勝手に読むだけなら、それは単なるユーザーの自意識の反映でしかなく、何の作品を読んでも同じ結論にしかなりません。先に述べたとおり原理的に優劣をつけるつもりはまったく無いので、それが楽しいというのなら別に構わないのですが、私はつまらないと思う。少なくとも、面白い作品の読み方では無い。

とはいえ実は、私たちは割とよく、こういう読みをしてしまうのも事実。自分のことは棚上げして言いますと、たとえば、「主人公鈍感すぎる」とか、「不治の病なのにヘラヘラしてるからこのキャラはおかしい」みたいな発言。これだって上の話と同じことをしている。つまり、あらかじめ「これは好意に気づくだろ」とか、「不治の病の人はこんな心情だろう」という前提があって、そのあらかじめ用意された定規で作品を測っている。けれど、作品に即して「問い」を出すなら、「どうして彼はヒロインの好意に気づかないのだろう」。「どうして彼女は不治の病なのに、笑っていられるのだろう」というような問い方のほうが適当に思われる。

もうすこし判りやすくなるように、具体的な話をしてみます。

皆さんご存知、『浦島太郎』。アレ、子供たちが亀をいじめてるじゃないですか。んで、「亀をいじめるなんて悪いヤツだ!」という話になる。で、そんな亀を助けた浦島は善人だ、と。でも、これはひとつの解釈、しかも教訓話にしようという、近代の道徳的な視点の解釈です。これ、『浦島』の中のロジックとして見るとどうでしょうか。昔話になっているヤツはすでに手が入っていますが、もともと書かれていた子供たちは別に、悪いことをしたとはひと言も書かれていません(というか、そもそも亀いじめた子供なんて出てこないのが「御伽草子」のほうですが、民間伝承にはいじめるタイプの話もあるみたいです)。むしろ、浦島のほうが変なヤツです。

実際、この亀は浦島が背中に乗れるくらいバカでかい亀で、しかも人語を喋る(御伽草子では、喋らないで女の人が背中に乗ってくる)わけですから、どう考えたってキモい。いじめた子供を責めるのは酷です。

昔話一般として考えた場合でも、この手の「動物」というのは、普通の人が異様に感じるような存在として描かれています。花咲爺さんだって、ポチがここほれワンワンするみたいな。

いわゆる「神さまに愛されている者だけが近づける不思議なモノ」が、この場合は亀なわけで、子供たちは別にモラルが無かったわけでも、浦島が単純に善人だったから亀を助けたわけでもないのかもしれません。けれど私たちはつい、作品のロジックを追うことを忘れ、自分の置かれている常識や好みを作品にもあてはめてしまう。作品に即して問うというのは、単純に自分の考えをあてはめるのではなく、作品の内部で言われていることを丁寧に追いかけてみよう、ということです。そうすると、違うモノが見えてくることもある。

『浦島』を道徳的教訓譚として読めば、最後に玉手箱を開けて老人になるのはバッドエンドで、「約束を破らないようにしましょう」というお説教です。そういう話として読めば、一応筋は通る。しかし、浦島が「神に愛される」存在で、普通の人なら怖がって近づかないようなものにも平気で近づく変なヤツだったとしたら、乙姫にもらった玉手箱をあける、という行動の意味もまた変わってきます。もしかしたら玉手箱は乙姫の愛だったのかもしれないし、それをあけて老人になったというのは、浦島にとっては救いだったのかもしれない。それなら、あの終わり方はハッピーエンドになる。そんな読み方もできる。あとは、どちらが「面白い」と思えるか、ということで良いと思います。

もちろん、考えに考えて、何も出てこない(ご都合主義ゆえにそうなっている)場合もあるでしょう。また、作品の中で矛盾していたら遠慮無くおかしいと言えば良いと思います。しかし、単純にこちらの常識をあてはめて相手を推し量るのは、「民主主義じゃないからアフガニスタンの人は不幸だ」とか、「女性が顔を隠さなければならないなんてイスラムは頭がおかしい」という傲慢な理屈と、ある意味では同じになりかねない。そして私たちは作品を読むとき、そのように読んでしまってはいないでしょうか。

それでは、私たちはただ自分の思い込みを強化しているだけです。あるいは少なくとも、その作品が持っているかもしれない魅力や可能性を見過ごしてしまう。これは勿体ないなあと思うのです。〈物語〉としてのエロゲーを味わうというのはいわば、作品をちょっとでも勿体なくない食べ方をしようという試みかもしれません。

今回は「エロゲーをやめない」シリーズの、一応の締めくくりとして、〈物語〉としてエロゲーを受け取るというのはどういうことなのか、そのことについてまとまらない思考を展開してみようと思います。なお、繰り返しになりますが〈物語〉というのは、ストーリーという意味ではありません。抜きゲーのHシーンもまた(あるいはそれこそが)、〈物語〉である、というのは前回述べた通り。


最初にことわっておくと、『花魁』を女性差別云々の視点から読むという、ある人の方法を、私はつまらないとは思うけれど、つまらないからやめろ! とか言うつもりはまったくありません。そんなもん、人の好みです。読みかたの一つという意味では、そのような(ジェンダー的な)読みも、〈物語〉的な読みも、別に変わらない。ジェンダー的読み方でないと拾えないものもあるし、〈物語〉的な読みからこぼれ落ちていくものもある。そのことは踏まえたうえで、ここでは私が一番面白いと思う〈物語〉的な読み方について考えるということです。

〈物語〉的な読み方を支えるのは、ある特殊な「問い」の形です。「問い」とは何か。それは、作品をどのようなものとして見るか、ということです。

エロゲーに関する言説はいま挙げた二例のようなものばかりではありません。結論がマーケティングや流通に関するもの、男の娘についてのもの、ブランドのあるべき態度についてのもの、真実の愛についてのもの……とさまざまです。そしてそれぞれの結論には、それぞれ対応する「問い」があります。

場合によっては「問い」が、「どうすればあのブランドを潰せるか」とか、「どうすればこの作品を褒めているヤツをバカにできるか」。あるいは「どうすれば俺はみんなに注目して貰えるかな」とか、「どう書けば批評空間で投票もらえるか」という場合もあるかもしれません。その場合にもやはり、周囲に媚びたり派手に扇動したりという普通とは少し違う形をとる可能性はあるにせよ、対応する結論が導かれる。

「問題の定式化は、その問題の解決である」とマルクスだか誰だったかが言っていましたが、これは金言だと思う。何かについて考えるということは、実はきちんとした「問い」を立てた瞬間に終わっている。そこまでは言えなくても、方法や結論は「問い」に淵源している。だから作品に何を問うたかで、作品から何が得られるかがある程度決まる。そういうものなのかも知れません。

ちょっと、何を言ってるかわかりにくいでしょうか。エロゲーから離れますが、補足説明します。迂遠な説明になるので、面倒なら読み飛ばしてください。(範囲がわかりやすいよう、引用タグをつけておきます)
『古事記』という作品があります。歴史書なのか恋愛物語なのかはなはだ判断が難しい書物ですが、「研究」としてこれを読む場合、読み方というのは概ねパターンがある。その中でも有力な読み方の一つが、「歴史学的読解」というヤツです。ざっくり言うと、『古事記』には対応する事実の表現であると考えて、どういう意図で表現されたかを考えよう、という。提唱したのは明治の津田左右吉という人で、そこからずっと歴史学的な読解方法というのは存続している。

津田の解釈というのは、『古事記』には日本という国家統一のプロセス(大和の朝廷が九州を併合した)が書かれていて、本来は武力制圧だったその事跡を、後から正当化するために「アマテラスとスサノヲが結婚した」というような話を作ったのだ、とだいたいそんな話です。

歴史学の方法、と聞くと特殊なことのように思われますが、物語には何か主題(物語を語る目的)があって、ストーリーやら表現の部分というのはその主題を飾るための手段にすぎない、という意味では、非常によくある話です。さっきの『浦島』で言えば「昔話」の教訓は何かとか、漱石の小説の主張は則天去私だとか、そういう主題論的な読み方も大差ありません。作品に目的があって、それ以外を枝葉と見なす読み方であるという意味で、これらの読み方は共通している。

「問題の定式化は、その問題の解決である」という先ほど引いたことばはつまり、ある対象に対して「何を見る為に」その対象を扱うか、それが決まれば、必ず解決はもたらされる、ということでしょう。その人が間違っても、別の誰かが必ず、正しい答えを導いてくれる。津田の場合は何だったのでしょうか。

津田には、「国家の発達、国民文化の進歩に貢献」しようという意図があり、そのために「皇室の由来を世に示さうとする特別の意志」があった。言い換えれば津田は、『古事記』の中に「歴史事実」を見ようとした。それこそが津田の「問い」だったわけです。そしてその「問い」ゆえに、「歴史事実」との対応で『古事記』と向き合わざるを得なかった。作品を相対化することで作品に働いている隠れた意識を暴く歴史学という近代の学問的方法は、津田にとって必然のものでした。津田の「問い」がその「問い」に相応しい方法を選び、それによってある成果なり結果なりがもたらされたわけです。

津田のこの「問い」は、当時だれも問うたことのない「問い」であり、それだけでも価値があったし、また津田自身にとって抜き差しならない問題でもあったのは事実です。

しかし、『古事記』の読み方として見た場合、津田のような方法は、そこに描かれている細かな内容の機微ついては触れることは重視されません。瓊瓊杵尊はどうして、木花咲耶姫をめとって石長比売をふったのか。その時、木花咲耶姫はどんな気持ちだったのか。石長比売の悲しみはどれほどか。そういうことは問わない。それはすべて、「対応する歴史事実の表現」として回収されます。主題論的な小説の読みもそうでしょう。乱暴な言い方をすればすべての行動は、ある主題との関係によって整理され、その主題に関連した表現と見られる。愛の告白も、流した涙も、振るった拳も、それは主題を表現するヴァリエーションにすぎない。主題のために表現があるのであって、表現は手段ということになる。

そのようなある意味で唯物論的な「問い」(表現に対応する事実なり思想なりがあるという問い)は、あるベースを共有しようという学問にとっては、きわめて重要なものです。そのような「問い」でなければ、なかなか議論の土台をつくることができない。けれど、学者でもプロフェッショナルでもない人間としては、土台なんて別にどうでも良いと言えばどうでも良い。そして、もはや現代、津田のように「皇室の由来」を意識せんがために『古事記』を読むというモチベーションを、多くの人が持っているとも限りません。そうなったとき、津田の読みに盲従するのではなく、そのように読むことにどのような意味や価値があるかということは問われて然るべきでしょう。
というのがちょっと詳しい説明。要は、「問い」がちゃんと立てば、過程や結論間違えていても「何が言いたいか」は伝わるということ。そして、その「問い」は往々にして作品の外側からもたらされる(なにかに使うために作品を読む)ということが言いたかった。エロゲーにも、主題論的な「問い」(この作品のテーマは何か)や、現実との対応に関する「問い」(この作品はポストモダンだ)など、学的な「問い」というのはあります。そして、私もそういう「問い」を問うことはある。けれど、どんなものにもその「問い」が通用するわけではないし、どうしてそのように問わなければならないのか、ということも考える必要がある。

言い方を変えれば、学的な「問い」はどんなふうに面白いのか。それよりも面白い「問い」を出すことはできないか。

私にとっては学的な「問い」も面白いのですが、それよりも好きな「問い」の形が、〈物語〉的な読解ということになります。最初に挙げた『花魁』に話を戻すと、江戸文化とかに興味がある人にとっては、『花魁』で描かれている世界と実際の江戸文化を比較して、「現代人の江戸のイメージ」を浮かび上がらせるのが面白い、ということはあるかもしれません。それなら、その「問い」をぶつければ良いし、面白そうだから読んでみたい。ただ、私は私で別の「問い」をぶつける。そういう話です。

それだけの話ではあるのですが、面白い「問い」というのは、皆が問うていることより、自分だけにしかだせないような「問い」ではないかと思います。皆が問うていることに対して、まったく異なる方法や結論を導く、というのも確かに楽しいのですが、それは作品読解というより論者の論法に帰せられるテーマでしょう。作品と関わる部分でいえば、やはり作品に何を問うのか、そこが根幹になると思う。


では、〈物語〉としてエロゲーを享受するというのは、いったいどのような「問い」を持ってエロゲーに向き合うことなのか。

究極的には〈物語〉としてエロゲーを享受するということは、「この私とは何か」を問うことです。しかしそれはあくまで究極の目標であるし、さしあたり目の前のエロゲーに問えることではない。作品から乖離しすぎています。そこでエロゲーに対しては、「なぜこのキャラはこんな行動をとったのか」とか、「このキャラはこのとき何を考えてこう言ったのか」のように、細かな言動のひとつひとつを「なぜ」と問うていくことになります。

それがどのようにして、「私とは何か」を問うことに繋がるか。その道行をざっくりとですが説明すると、こういうことです。まず、〈物語〉という観念の世界での登場人物というのは、さしあたり自分以外の人間が作った〈物語〉であるという意味で、「この私」とは別の存在です。しかし、その解釈においては、「この私」と限りなく接近する、非常に曖昧な存在でもある。

そして、キャラクターの行動の「なぜ」を問うということは、そのキャラクターの「問い」について考えるということです。彼/彼女はどんな「問い」があってある言動を取ったのだろうか、と。そのとき、「問い」はキャラクターのものであると同時に、限りなくユーザー自身の「問い」にも接近していく。「この私」でなければ取り出せない、読み取れないであろう「問い」の形というのが、必ず存在するはずなのです。

先に挙げた『浦島』で言えばこういうことです。『浦島』の中に内在する理路をとりだして、それと触れあったとき、私たちは更に色々な「問い」を持つでしょう。少なくともそこには、「わたし」とは違う世界が描かれている。だから、なぜ? どうして? と問うていくわけです。「なぜ浦島は亀を助けたんだろう?」、「なぜ浦島は玉手箱を開けたんだろう?」と。

けれど、その「問い」は他ならぬ「わたし」によって創られた「問い」です。「乙姫はどうして玉手箱を渡したんだろう?」と問う人もいれば、「浦島は何を食べたんだろう?」と考える人がいるかもしれない。そうやって、各自がいろんなトンネルを世界の中に掘っていくわけです。

「問い」を重ねて掘り下げられた〈物語〉世界のトンネルは、「わたし」のものです。そうやって「わたし」ではない世界に「わたし」の問い方でトンネルを掘っていけば、そこにあらわれたトンネルこそが、「わたし」の形であり表現となる。そうして、「わたし」というトンネルが掘られた、「わたし」の『浦島』ができあがる。それは〈物語〉の世界に映し出された「わたし」の影かもしれないけれど、逆にいえば「わたし」なんてものはそのような形でしか描き取ることができないのかもしれません。

以上は、奇妙なことを言っているように聞こえるでしょうか(それゆえに、伝わりにくいかもしれない)。普通、解釈というのは何か統一的な、「正しい」解釈を求めるものだから。私はそうではなくむしろ、バラバラの解釈でも良いじゃない、と言っている。ただしそれは、無茶苦茶でトリッキーな結論に達せば良いというのではありません。大雨が降ったら埋まってしまうようなトンネルを掘っても仕方がないので、作品世界にきっちりとはまるようなやり方で、トンネルを掘る。結論はありきたりでも良いので、「私なり」の「問い」を立てるという、そういうやり方で。


昨年の話題作『White Album2』とかを例にあげてみましょうか。登場人物としてかずさ・雪菜・春希をとりあげて彼らの三角関係を見たとき、三人の誰もが理想的な恋愛によって幸せになりたいと考えている、というのはわかります。あの作品を、「恋愛」や「三角関係」という言葉で括ることは容易い。けれどそれだと、その理想や幸せの、具体的なかたちというのがそれぞれに違っている、という部分は見過ごされてしまいます。

雪菜にとっての幸せな結末というのは、誰からも認められ祝福される関係の達成です。一方かずさの場合は、自分と春希が二人きりでいられること。でもそれは、幸せの表現(結果)であって、内容ではない。彼女たちの幸せの内実って何なんでしょう。一緒にいられればそれでいいという物理的なものなのか? あるいは、セックスできたらそれで良いのか? 自分が相手のことを想えれば良いのか? 相手から想われたいのか? それとも、二人が想い合っていないといけないのか? でももし二人が想い合うことだというのなら、その想い合っているということはどう証明できると考えているのか? そういうことをひっくるめてこの作品に「問い」を投げるなら、私ならこうです。「どうして彼女たちは、春希が好きなんだろう?」と。

あらかじめこちら側に用意された答えにすり合わせたいのでも、丸戸史明というライターの意図に還元したいのでもありません。それなら最初から、論説文なり解説文なりをセットでつけてくれれば終わることです。あるいは、そのような「主張」のために〈物語〉があるのだとすれば、〈物語〉は単なる手段ということになってしまう。そうではなくて、自分の立てた「問い」に沿って、作品を考えてみたい。それが、私にはとても楽しいし、その結果生まれた感想が「かずさ大好き、雪菜大嫌い」みたいなものであったとして(別に雪菜嫌いじゃないですよ!)、そこには私自身の固有の問題が生まれているように思うのです。


ただそれならば。鋭い人は突っ込みたくなる頃かもしれません。そう……。

「なんでオマエ、こんな記事かいてんの?」

と。

まあ、そりゃそうですよね。「私が私で楽しめばいい」という話なら、それこそ勝手にやってりゃいいわけで、グダグダ書かなくたって良いじゃない。そういう話になりそう。しかし、ここには端的な誤解があります。私が好き勝手にすれば良いというのは最終の感想の話であって、それ以前の手続きの部分は、やはりなんでも良いというわけではない。少なくとも、妥当な手続きというのは存在します。

ごくつまらない形式上のこととして言えば、私は「ほっといたら〈物語〉的な読みができる」とはひと言も言っていません。確かに〈物語〉的な読みが目指すのはその人の固有性であり、その意味でその人にしか出せないものではあるのですが、しかし、その人にしか出せない=いつでも自由に出せるというわけではありません。そこには、何程か自覚的なプロセスが必要とされる。

ただ、そのことは、私たちが現在、「私は私で楽しめばいい」というだけで生きていくのは難しい状況におかれている、という社会状況と無関係ではありません。

固有の自律的世界として〈物語〉を楽しむと言うことは、畢竟個人の趣味みたいなところに話が落ち着くと思われがちです。そしてそうなると、必ずや周囲に「それってどういう意味や価値があるの?」と訊ねてくる人があらわれるでしょう。

残念なことに、ここで問われる意味や価値というのは「私にとって」のものではなく、社会的な意味や価値です。それは「無い」と答えざるを得ない。いや、本当は人間にとって「わたし」の領域の問題に意味や価値はあると思うのですが、すぐに説明可能なものとしては見えてこない。社会的な意味や価値を優先する文脈の中で生活を続け、それに慣らされた私たちは、すぐそちらに引きずられてものを見てしまいがちだし、そこから外れたものの見方をすると、排除されてしまう。

人文学の迫害(笑)っぷりなんかその典型みたいなもので、すぐ「何の役に立つの?」と聞かれて、あれこれ有用性を説明しないといけない。人文学に限らず、有用でない、役に立たない「問い」は、趣味としては許されてもお金は貰えない(予算を削られまくる)。そういう価値は認められないし、現代で意味や価値というと、だいたいはお金のことですから、要は存在はお目こぼしをいただいても、価値は無いことにされてしまう。

そして、価値を認められやすい方法のほうが声が大きくなりますから、だいたいの人はそっちに流される。必然のなりゆきとして、〈物語〉的な読み方というのは見失われやすいし、「意味あんの?」って聞かれて「ありません」、「じゃあ要らないよね」と、すげなく扱われる。だからこそ、方法の自覚化がある程度求められるように思うのです。あるいはもっと単純に、無邪気な子供ではなくなってしまったからとか、そういう答えでもよかったのかもしれませんけど。

でも、本当に〈物語〉的な読解が見失われているのか? そのことは、巷に流れる「罵倒」の質と量とが、間接的に証明してくれます。

〈物語〉的な読解というのは、作品に対して自分の常識をあてはめず、たえず自分とは違うロジックが内部にあるのではないか。そう思って読む読み方のことです。それはつまり、作品を「せいぜいこの程度」とか、「所詮こんなもの」というように簡単に切り捨てることにはならない。切り捨てるにしても、考え抜いての末になるはずです。だから、作品を簡単にゴミクズ扱いなんかできるハズがない。

けれど、世間を見渡せば、簡単に作品を切って捨てるような言説が溢れかえっています。そしてほとんどの場合、そこには自分の「問い」が妥当なものかという反省や、作品自体が何を言おうとしているのかを取り出そうという緊張感は存在しない。単に自分の物差しをそのままあてて、「気に入らない」と言っているにすぎません。それは、既に決まった意味や価値が存在すると考えているからこそ取ることができる態度です。自分の物差しが決まっているという意味では、非常にしっかりした判断ができるのでしょう。けれど、そこから漏れていくものを拾うことができない、という意味では、作品に優しくありません。

「試験の点数が高い学生が良い生徒」というぶれない信念を持っている先生は、きっちりして公正ではあるけれど、多くの生徒をすくってくれる先生にはならない。そして、自分の規準からはずれているものに、とても厳しい。もちろん、そういう先生が必要なこともわかります。わかりますが、ユーザーとして作品を楽しむうえでは、あらかじめ物差しを準備しておかなくても良い。〈物語〉的な読みというのはそれとは異なっているということ、そして、そんな読み方をする人がそれほどたくさんはいないことは、納得していただけるのではないでしょうか。

人間に対しても結局同じで、軽々と人を詰ったり罵倒したりするより、「この人には何か、自分には判らないことが判っているのではないか」、「自分に見えてない大事なものが見えているのではないか」と考えて接するほうが「優しい」付き合い方になると思います。どちらが良いかはこれまた、人の好みかもしれませんが、個人的にはすぐに罵ったりけなしたりする人の見ているものよりは、あれこれと考えている人の見ているもののほうが面白いし、感想や批評にもそれがあらわれるのではないかな、と思います。鮮やかな判断、明快な切り口。そういうものも楽しいけれど、その作品をどう切るべきかを突き詰めて考えた末の切り口というのもまた良いものです。

繰り返しているように、どの読み方がベスト、みたいな序列をつけたいわけではありません。そういう書き方になってしまった部分もあるけれど、本質的にはそこではない。だいたい〈物語〉的な読みばっかりやっていても面白いことが出てくるとは限らないと思うので、私はいろんな読み方というのを、ある程度自覚的に散らしてたりもします。だからどれも中途半端と言われれば返す言葉も無いし、本当にその道一筋で打ち込んでいる人のように面白いことも書けない。きっと見えてるものの底だって浅いと思います。だから、そういう読み方についてはいちいち方法論みたいなことを殊更に述べなくても大丈夫だろう、と。

ただ、〈物語〉的に読むということについては、結構多くの人がそのようにしようとしているのに、あんまりまとまった話がないのかもしれないな、と思って書いてみた次第です。また私自身も自分がこだわっている読み方がどういうものか、意識する機会になるかな、と。なればいいな、と。

もう続けて読んでる人いないかもしれないな! まあそれでもいいや! という感じで書きましたが、お一人にとってでも、何かを考えるきっかけなどになれば、これに勝る喜びはありません。まあ背伸びして半ば努力目標みたいな部分を無理矢理書いたところもあるので、「お前が言うな」的なところも多々あるかと思いますし、説明的におかしくなっている部分なんかもあると思うので、ご覧になった方がおられたら、その辺ご指摘いただければありがたいところです。


最後にする、と言ったせいか、いくつものことを混ぜて書きすぎました。そして長くて解りにくい話になってしまった……。

でも今回は、もともと解りやすい話を書くつもりも、書ける自信も無かったので、個人的にはこれで良いと思っています。言い訳ですがそれで良いわけです。

【審議中】
    ∧,,∧  ∧,,∧
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'


【審議終了】
    ∧∧     ∧∧     ∧∧     ∧∧     ∧∧     ∧∧
   /⌒ヽ)    /⌒ヽ)    /⌒ヽ)    /⌒ヽ)    /⌒ヽ)    /⌒ヽ)
   i三 ∪    i三 ∪    i三 ∪    i三 ∪    i三 ∪    i三 ∪
   〇三 |    〇三 |    〇三 |    〇三 |    〇三 |    〇三 |
   (/~∪    (/~∪    (/~∪    (/~∪    (/~∪    (/~∪
   三三     三三     三三     三三     三三     三三
  三三     三三     三三     三三     三三     三三
  三三三   三三三   三三三   三三三   三三三   三三三

私が言っているような、〈物語〉としての読み方というのは、まあ、ぶっちゃけダルいです。すぐには答えも出ないし、それこそ作品には自分には解らないところがある、と思って読み続けるのだから、永遠に「読み切った」という感じにはならないかもしれない。

でも、何年も「好きなエロゲー」をプレイし続けている人というのはいるわけで、そういう人というのはみんな、ずっとその作品に「問い」を投げ続けているんじゃないかと思います。そうやって、ずっと楽しみ続けられるものとしてエロゲーが私の前にあるというのは、私としては幸せなことです。だから、私は「エロゲーをやめない」のだと、胸を張って言って、今回の記事をおしまいにいたします。

全部読んでくださった方は、長い間お付き合いありがとうございました。一旦は〆ますが、また何か思いついたり、訊ねられたりしたら書きたいと思います。あと、抜きゲー中心にHシーンの話も書きたかったけど力尽きました。結局、シナリオがある程度ある作品のほうが例としてはとりやすいんですよね……。

例の如く、適当に加筆修正しているかもしれませんが、それはご容赦下さい。

では、また明日。(ちなみに今回の記事で、AA込み1万2千字くらいです)

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某シナリオライター氏の記事に関する追記説明と反省

2013年2月15日、諸事情を勘案して当記事のタイトルを一部変更、リード文を書き加えて内容を非公開とすることにいたしました。以前の内容はそのまま保存してありますので、メールフォーム、コメント、Twitter等でご連絡いただければ全文のソースもしくはスクリーンショットをお送りいたします。

コメントや足跡を残してくださった方には身勝手をいたしてまことに申し訳ございません。ご容赦いただけると幸いです


【内容】
某シナリオライター氏のブログの記事に端を発する一連の騒動に対する私見を述べた一連の記事に関して、当事者から指摘いただいた内容を紹介し、事実関係を整理するとともに、かかる記事を書くに至った動機やそれが果たしてどの程度意味をもっていたのかを改めて自省した記事です。

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今日はその事をなさむと思へど

今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。(『徒然草』)

[超訳]
「今日はアレやるか!」と思ってたけど、ちょっと立ち寄ったソフに面白そうなエロゲーがあったんで買ってやったら思わずハマってしまって気が付いたら凄い時間……。約束はすっぽかされるし、急に意外な人から連絡が着て夜にお話することになったりする。急にラーメン食べたくなって近所の店に行ったら定休日で、しょんぼりして帰っていたら先輩と出くわしてオゴリで飲みに連れて行って貰った。めんどくさい仕事だなぁと思っていたらヘルプ入って速攻で終わり。ところが時間余ったから別の仕事のヘルプに入ったら、死ぬほどめんどくさい人間関係のゴタゴタに巻き込まれて、なかなか帰宅できなかったでござる……。毎日だいたいこんな感じで、予想もつかないことばっかり起こるんでホント困ります。


というわけでゴメンナサイ(;´д`)人

また記事が書き切れませんでした……。ただ今回はちょっと今すぐは人に言えない事情がございまして。悪いことではありません。反省することもあったけれど、色々勉強になった。今回の件は近日中に記事にできると思うのでもうしばしお待ち下さい。

それにしても本当に、「日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず」でございます。本当に記事が仕上がらないフラグが本格的になってきたかな……?

今日のひとこと : 有言不実行!


明日こそは仕上げます(´・ω・`) ※フラグです。

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《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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