よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

レビュー:『この大空に、翼をひろげて』(製品版)

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タイトル:『この大空に、翼をひろげて』(PULLTOP/2012年5月25日)
原画:八島タカヒロ、基井あゆむ、田口まこと(SD)/シナリオ:紺野アスタ、七烏未奏、奥田港
公式:http://konosora.jp/
批評空間レビュー投稿:済 → ネタバレ無し
定価:8800円
期待:B(A~E)


※具体的な内容に踏み込んだ長文感想(内容紹介)は、批評空間さまにて投稿しております。ご関心あれば上記リンクよりご覧下さい。

関連記事
2012年4月10日記事:体験版レビューコンテストについて
2012年4月15日記事:体験版レビュー
2012年5月29日記事:パッチについて
2012年6月26日記事:攻略手順

◆評価について
Aに限りなく近いB……というか、感覚としてはA評価でも良かったのですが、穴が無いかと言えばあるし、非常に良かった部分だけでそれを補いきれるかというと、その「良かった部分」に絡む穴もあったので難しい。よってBとしました。ただ、まんべんなくBというタイプではなく、一部が突出して良いけどバランス取り損ねてB、という感じなので、プラスの箇所を重視すればここまでの2012年半期でもトップクラスの出来映えだったと思います。

◆雑感
とうとう終わりました、っていうかだいぶ前に終わっていたのですが、なかなか感想をかけなかった『大空翼』。色々思い切って、ようやく完了。体験版から随分長いお付き合いになったなあ。やっぱり感想の全文掲載は重複になるのでやめます(といってまた復活させるかもしれませんが)。お手数ですが上の「批評空間レビュー投稿」リンクをご覧になってくださいということで。

実は感想をもう書かないでおこうかなーとか思っていたのですが、pomさん(@pokpokpolk)とお話をさせていただく機会があり、そこでもうちょっと色々考えてみよう、と。どうして感想を書くのをためらっていたかというと、どうしても一部キャラの「空」への動機であるとか、碧への「好き」という気持ちのでどころであるとかが、わからなかったからです。情けないことに。

特に、あげは・亜紗・依瑠の3人。小鳥と天音は、直接好きになったのが何時とか、どうしてとか書いてはいませんが、一応きちんとそう読める場面があるので楽でした。ただ、先の3人はどうも「いつのまにか」好きでしたを強調する余り、ホントにきっかけがわからない。あげはの場合、最初から好きだったのだ、ということかもしれませんが、でも生まれたときから好きなわけはないですし、「幼なじみだから」というのは理由のようでやっぱり理由になっていません。それなら、達也(あんちゃん)や柾次を好きになる可能性もあったわけじゃないですか。それでも碧じゃなきゃダメだ、というのがこの作品が繰り返し言っていたこと(「あのガレージとグライダーは、もう俺たちにとって特別なんだ」)なので、そこがありません、というのでは納得できない。あげはにとって碧が特別なのは、どうしてなのか。亜紗にとって碧はどこで特別になったのか。そんなことを考えてプレイを繰り返していました。

そもそもレビューにそのことを書くかはさておき、自分なりにこの娘のことある程度見えた! という感じがしないとなかなかレビューは書けないので、あげはや双子の「好き」の形が見えないというのは、なかなかしんどかったのです。いや、全然わかんなかった、というのも書けますが、この作品はそれじゃ勿体ないかな、と。結局疑問はなんとか解決してレビューを書いたつもりですが、うまくいっているかどうかはわかりません。「自分を見つける」という話から「自分を創る」という言い方にスライドさせたのは、「自分」なんてもともと存在するものではなくて、仲間や目標との関わりのなかで創り出されていくものだ、という、そんなメッセージをこの作品に読み取りたかったからなのですが、果たしてそこまでのことを言っているかどうか。むしろ依瑠の物語からは逆の印象も受けたので、ちょっとぼかして書きました。

なお、結構不満もあり。とはいえ致命的と思われるような部分はありません。全体としては予想通りか、それよりちょっとだけ下のラインに無事着陸したかな、という感じです。説明的な感想を書いているので説得力はないかも知れませんが、本当に心の赴くままに楽しんで、共感できるところがあればそこから物語に深入りしていけば良いという、正統派のエロゲーだったと思います。社会性とかを求めるとどうかはさておき、エンターテインメント作品として、しっかりまとまっています。

声優さんの演技もよくて、久々に何度もセリフを聞き直しました。特に小鳥は、良いセリフが多かったなあ……。

それにしても、ほたるはアレですね。絶対幸せになれないタイプ。この娘はきっと、誰かを本気で好きになっている相手しか好きになれない娘。あげはルートの最後の方で、そんな風に思いました。実に不憫……。

好きなキャラはあげは、良いと思ったルートは小鳥ルート。

あげはちゃんすきだー! だー! だー! だー!

攻略関連は後日。それではまた明日、お会いしましょう。

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レビュー:『ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~』

ビブリア古書堂3巻
三上延『ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~』

(メディアワークス文庫、2012年6月21日)

最近楽しみにしている小説の一つ、『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズ。最新の3巻が発売されていたので、早速購入しました。角川のコミック・エースから漫画版も発売されていて、こちらはまだ読んでいないのですが、大ヒットからのメディア展開が始まり、アニメ化も近いのではないかと勝手に期待しています。

ご存じない方の為に少しだけどんな話なのか、説明するところから入らせてください。

メインの「語り手」は、登場人物の1人でもある五浦大輔(ごうらだいすけ)。スポーツマンで本に興味はあるのだけれど、なぜか体質で本が読めないという男。そしてこの物語の中心となるのは、「ビブリア古書堂」の女主人・篠川栞子(しのかわしおりこ)。若くて美しく、「本」に関する異様なまでの知識を誇り、しかし人見知りで接客には全く向いていない彼女と大輔が出会うところから全てが始まります。

その人が探している「本」や、読んでいる「本」。そして「本」の状態などから、栞子は人の素性や生活、更には過去や心の内まで、さまざまなことを古書店に居ながらにして「推理」します。そして時には見通した全てを利用して、人の行動までも操ってみせる。その様子はシャーロック・ホームズにも、全てを見通す神にも、あるいは隠された秘密を暴く悪魔にも見える。そんな栞子に五浦は、恐れを抱きながらも惹かれて行く。

物語は基本、探偵モノの体裁。ビブリア古書堂を訪れる珍客たちからもたらされる、「本」にまつわる風変わりな依頼(ある本を探して欲しい等)を栞子が持ち前の推理力で解決していく、というもの。その中で、話題となった「本」に関するさまざまなエピソードや、登場人物たちの人間関係が語られます。以前に大ヒットした『文学少女』シリーズと似ているかもしれません。ただし『文学少女』がどちらかといえば書籍の「味わい」や作家のドラマに比重を置いていたのに対し、『ビブリア』は書籍のあらすじや状態(初版かどうか、どの出版社から出たか等)といった客観的なデータが物語に深く関わってきます。『ビブリア』の登場人物たちは内容について感想は漏らすけれど、過度な読み込みはしない。扱うのは、あくまでデータ。そのあたりに、書籍好きでありながら「冷徹な」人間である栞子の特性と、古書店という設定が見事に反映されているようにも思われます。

また、この手のストーリーにありがちな「キャラクター使い捨て」ではなく、過去の物語で関わった人たちが次々に話に関わるのが特徴的。3巻を迎えて、世界がぐっと奥行きを増したように思われます。そのぶん、途中から入ろうとするとハードルはあがったかもしれませんが。

というわけで3巻ですが、今巻採り上げられるのは『たんぽぽ娘』(集英社文庫)、ある児童書(これは作品のタイトル自体が謎で始まるので、ネタバレを避けるために述べません)、『春と修羅』(關根書店)。裏テーマとして『王様のみみはロバのみみ』(ポプラ社)です。(こうやって書誌情報(出版社)が書いてあるあたり、上で述べた「データ」云々の雰囲気がお判り頂けるのではないでしょうか)

第二話を除き、前巻から話題になっていた失踪中の栞子の母、千恵子(ちえこ)の影が見え隠れ。二話は以前に登場した坂口夫婦(『論理学入門』の話)が再登場するので、時間があれば前二冊を読みなおしてからのほうが良いかもしれません。私はすっかり忘れていたので途中まで時々必要なところを見返しながら読み進めていたのですが、結局読み直してしまいました……。

事件の内容は相変わらず「本」絡みのちょっとしたことから、その人の私生活・感情に立ち入っていくタイプ。個人的には事件の構成としても第二話が一番好きでした。なんかこう、胸が熱くなった。こういう人情話、ベタだけど好きなんですよね。伏線とかの技巧的に良かったのは多分『春と修羅』ですけど、こういう「巧さ」なら他の本でも味わえそうなので、やっぱり第二話が好きです。

千恵子の失踪の謎、父親と千恵子の関係、栞子の千恵子に対する複雑な感情……と、なんとなくこの作品で扱われる中心的な問題が形をとりはじめた感じがあります。千恵子との現状の問題が片づいたとしても、きっと最後まで何らかの影を落とすのでしょう。そういう意味では、3巻にしてひとつの山場に近づいたニオイがします。

全体的にお涙頂戴というわけでもなし、明るい笑いがあるわけでもなし、鎌倉の閑静な古本屋らしく淡々と話が進んでいきます。それを物足りないと感じるか、趣深いと感じるかは人それぞれでしょうが、2時間ほどの落ち着いた読書をするにはとても向いているシリーズ。今回も満足のクオリティでした。

……『偽りのドラグーン』も続いていたらなぁ!!(心の叫び)

というわけで、本日はこれまで。また明日、お会いしましょう。

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水晶 雫ちゃんペロペロ(^ω^)な話

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CDI公式応援キャラクター、「水晶雫」嬢。画像は公式の起動画面です。

「新世代ディスク情報ツール」と称して配布されているフリーソフト、「CrystalDiskInfo」に、美少女キャラ・雫ちゃんが常駐する新バージョン、「CrystalDiskInfo 5 Shizuku Edition」(CDISE)が公開されました。

「和服美少女の雫ちゃん(イラスト:桐野霞さん)があなたのハードディスクや SSD を見守ってくれます。ディスクの異常を検知するとかわいい声(五十嵐裕美さん)で教えてくれるのでぜひ常駐させてくださいね♪」とのことで、ご覧のように、なかなかステキな仕上がり。

五十嵐さんといえば 鮒だお 「ひなだお!」で一世を風靡された声優さん。あと、あれです。自宅警備系アイドル・杏ちゃん。そのぷりちーぼいすで「回復不可能セクタ数が劣化! そろそろ新しいディスクを買ってよぉ~」とか教えてくれます! ひゃっほう!

ちなみにOYOYOのパソコンはいまんとこ問題ないみたいで、雫ちゃんの御声を聞く為に「機能」から「通知音設定」を選択し、音声ファイルを特に設定しない状態で「再生」ボタンを押すことで、無理矢理テストスピーチをしてもらっています。御声が聞けるのが楽しみなような、トラブルが起きたときに聞こえるのだとすれば、遠慮したいような、フクザツな心境。

使ってみた感じとしては、軽いし和むし、とても良い感じ。また個人的に、「機能」から「ディスクの管理」や「デバイスマネージャー」を一発で開けるようにしてくれる(Windowsのコンパネを経由せずに済む)のが地味に使い勝手良し。グッドです。

便利そうだけど萌え仕様はちょっと……という人にはちゃんと、通常版もあります……というか、通常版があってこっちがエクストラバージョンですね(笑)。ついつい順番が逆になってしまいました。注意点としては、「通常版をスタートアップ設定している状態で、Shizuku Edition をインストールした場合、次回起動時には通常版が起動することになります。実行ファイル名が DiskInfo.exe から DiskInfoS.exe に変更となっているため、Shizuku Edition にてスタートアップ設定の OFF/ON を実施してください。」ということです。

なお、公式ページでは壁紙なども配布されていますが、「許可無く無断で改変・転載・配布する事を禁止」、また公式画像の全てについて「直リンク禁止」となっておりますので、転載はいたしませんでした。壁紙も雫ちゃんで! という方は是非、公式のほうをお訪ねください。

ごらんの通り相当クオリティが高く、力も入っているようで、公式にプレゼント企画なども実施されています。応募要領の詳細については、オフィシャルをご覧ください。〆切は、6月24日の23:59となっています。……ってもうすぐやん!
[プレゼント企画] 公式応援キャラクター水晶雫ちゃん A2 ポスター
CrystalDiskInfo 5 Shizuku Edition リリースを記念して、公式応援キャラクター水晶雫ちゃん (イラスト:桐野霞さん、キャラクターボイス:五十嵐裕美さん) の A2 ポスターを最大 10 名様(抽選ではありません)にプレゼント(送料もこちらで持ちます)します。ご希望の方は以下の要領で応募してください。(後略)
こういうのを見ていると、「伺か。」なんかを思い出します。懐かしいなあ。やってくる「熱い夏」(主にPCの内部温度的な意味で)に向けての安全管理に、デスクトップの清涼剤として、和服美少女雫ちゃんをインストールしてみるというのも良いかもしれません。

今回はそんなお話でした。それでは、また明日。

雫ちゃん応援バナー
最後に限定版バナーを貼り貼り……。



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レビュー:『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ』4巻

オタリア4
村上凛『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ』4巻
(富士見ファンタジア文庫、2012年6月20日、イラスト:あなぽん)

4巻が発売されました、『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ』。どうも略称は『オタリア』と言うそうで。「オタリア」といえば普通、チリ、ペルー、ウルグアイ、アルゼンチンなどの沿岸に生息する、ネコ目アシカ亜目アシカ科アシカ亜科オタリア属の海棲哺乳類を思い出すところなのですが……。

オタリア(動物)
オタリア。一夫多妻制社会で、ハーレムを作って暮らすそうです。意味深な。


さて、前回やや気まずくなった柏田君と桃ちゃんですが、今回はその関係の改善を目指すために、柏田君があちこちに時限爆弾をセットしてまわるような展開になっています。

ストーリーの軸は3本。1本目が桃と柏田の協力関係の行方。2本目は鈴木と桃の恋愛関係(鈴木の「彼女」疑惑について)の行方。そして3本目が、小豆と柏田の恋愛関係の行方。それぞれが入り乱れ、絡み合いながら、より関係が複雑化していく見所の多い巻です。そして相変わらず、カラオケボックス(柏田のバイト先)での山本さんは素敵に伏線だけばらまいて去っていきます。前回チョイ役だったムラサキさんは、今回はメインに近いアドバイザーとして引き続き登場……というか「リア充」ポジションだった桃が「オタク」サイドに引きずり下ろされてきた穴を埋めるべく、だいぶ便利に使われていました(笑)。

面白い巻ではあったと思いますが、ちょっと緊張感高め。それも、派手に爆発して解決が見える類のものではなく、これから何か良くないことが起こるかも、という静かで先が見えない雰囲気を漂わせています。一応ラブコメ的な展開ではありつつも、その裏には常に「自覚していない桃への想いのために、他を踏み台にしている」というメッセージが流れているように見えて、そのせいでとても重苦しい。いよいよ、本格的に物語が動き出す。そんな予感がします。いやいや、楽しみですね!

できれば長谷川さんには幸せになってほしいなあ……。

さて、ここへ来てこの作品が言うところの「オタク」が何であるか、なんとなくイメージが変わってきた気がします。

連載開始当初の表現としては、「オタク」は眉毛を整えていないヤツだとか何だとか色々言われていました。これはつまり、「流行」(周囲の人々の視線)に敏感であり、また自分がどのように見られているかという自己把握がしっかりできている、ということです。女の子にモテるとか、会話が弾むとかいうのはその結果もたらされる副産物でしかない。

その逆を行くのが、「オタク」として描かれる柏田や鈴木ら。彼らの最も本質的な特徴というのは、「自分を外側から見る目を持たない」と言うことなのでしょう。他人からの視線に鈍感であり、それゆえ自分のことについても頓着しない。

今巻で柏田は、小豆に対してある行動を取ってトラブルの引き金を引きますが、これは小豆が自分をどう見ているか(小豆にどう思われるか)に無頓着で、しかも自分が桃のことをどう思っているかを意識していないからです。

ただ、ここ最近描かれる「オタク」の性質はこれだけではないのかもしれません。というのは、同じく「オタク」であるはずのムラサキさんは非常に自己を客観視しているし、それゆえ他人が何を考えているかということに敏感です。今巻でも、さまざまな配慮を見せる。

一方、柏田や桃が傷つけられるのは、いわゆる「リア充」と呼ばれる連中の心ないひと言であったり、態度であったりします。カラオケボックスのやりとりはその典型だし、今回もその「リア充」が桃を傷つけようとする。これは単に「オタク」の側の歪んだ嫉妬ではなく、やはり「リア充」側に起因する問題点であるように思われます。

つまり、流行に敏感で他人の視線を常に意識しているはずの「リア充」たちもまた、他人の視線・思惑に対して本質的なところでは関与できていない。ここで、「リア充」と「オタク」の本質的な違いが無くなっているとも言えます。変な言い方ですが、たとえばこの小説を読んだオタクが、「あるある……やっぱ俺オタクだわ! 刺さる!」と思って身悶えたとしたら、少なくともその人には自分を外側から見る目が備わっているということになるはずです。桃というきっかけを得たことで、柏田もまたそのような視点を手に入れている。

この4巻までで、柏田の柏田たる所以というのは明らかに「鈍感」ということ――自分の気持ちもきちんとわかっていなければ、他人にどう見られ・思われているかもわかっていない――あるいは、自分が勝手に想定した「自分」の枠の中に閉じこもっているというところにありました。それが柏田の自意識の強さのような形で描かれている。

しかし、その彼の視点からすれば、「リア充」と呼ばれる連中もまた、自分にも他人にも配慮しない人間であったはずです。「オタク」の自意識は自分が何をしたいかであり、「リア充」の自意識は自分がどう見られたいか。いずれにしても、その強い自意識こそが他人との距離感を崩してしまっているのです。

そして、柏田の長谷川さんへの憧れは、彼女が自分にも他人にも適切に振る舞えている(リア充っぽい外見でありながら、子どもに優しい笑顔を向けていた)ということへの憧れである、と説明することができるでしょう。

この手の話を、「オタク擁護」あるいは「オタクを実は叩いている」のような図式から説明するというレビューが増えているようで、それは大いに構わないのですが、本作においては現状、最初に導入した一般通念としての「オタク」-「リア充」という図式は消滅しつつあるように見えます。

では、この作品の中では何が問題にされるのか。あるいは、この作品で言われる「オタク」や「リア充」は、私たちが作品の外側で使っている言葉だと何と呼ぶのが相応しいか。そんなことに関心を持ちながら、柏田と桃の関係の行く末を、楽しみに見守りたいと思います。

いやもう個人的には『れでぃばと!』よろしく(アニメほんとに最高でした)、な~んも考えずにハーレムルートでもいいんですけど、これまでの展開とかタイトルとか、柏田の自意識とか考えるにそれは無理でしょうしねぇ……(´・ω・`)。

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otoQtさんのご感想に触れて思うことなど

ツイッターをしていたら、タイムラインで興味深い感想が紹介されていました。otoQtさんのブログ、「自動再生」さまの「プレイヤーを殺すための物語――『White Album 2』」。ご本人に色々と質問をさせて頂き一応内容を消化できた感があるので、今回「感想の感想」を書いてみたいと思います。

この論の序盤の軸は三つ。
 (1) 本作で、「死にたい」と思うほどのつらさを味わった。[体験]
 (2) エロゲー(ギャルゲー)というのは主人公との同一化を目指す。[原理]
 (3) しかし本作はその同一化を拒む。[作品]

主人公への共感?」の段ではこれを受け、『WA2』では主人公とプレイヤーとの同一化を拒むシステム的な仕掛け(主人公のヴォイス、視点の頻繁な入れ替え)が多くほどこされていること。そして、そのような場面こそがなぜか「いたたまれない」のだと展開していく。つまり、同一化ができない場面においてこそ、プレイヤーはつらさを味わう、という定式化がなされます。

続く「書かれないセリフ」では、「難聴主人公」と「ヒロイン視点」を例にとり、実は同一化を拒む原理は『WA2』に特殊な事態ではなく、エロゲー一般の特徴であることが示されます。エロゲーにおいてある程度定着したこの手法によって、プレイヤーはシステム的(内容とはさしあたり関わりなく)に「主人公から引きはがされる」。これは上記の論の裏付けです。そして新たな立場として、同一化を拒まれたプレイヤーが能動的に作品世界を構築する必要にせまられる、という主張が出てくる。

そこから「プレイヤーはどこにいるか」のトピックとして、物語の内部から排除されつつも「物語へはより深く関わる」ことを強要される、「宙づり」なプレイヤーの立場が論じられます。

そして最大の難所、「〈自己〉と〈わたし〉」。ここは少々難しすぎて混乱していたのですが、ツイッターで直接お話をうかがい、何となくですが理解しました。
【補注】 私の混乱は主に、「実際に肉体を持ち、ディスプレイに向かい、マウスをクリックする、ゲームの内には何ら関わることができない〈自己〉」という表記から窺われる〈自己〉の身体性が問題なのか(だとしたら、精神的な〈わたし〉が傷つくことで身体が物理的に傷つくというのは明らかに飛躍である)、それとも〈自己〉というのは〈わたし〉とは違う精神的なものなのか(だとしたら今度は、〈わたし〉との質的な差が不明瞭に思われた)というところだったのですが、otoQtさんの説明によると、「ベルクソンによる意識の反省による自己分裂」を念頭に置きつつ、さしあたりは「メタとオブジェクトぐらいの意味」で書かれたとのことでした。この辺は管見の及ぶ限りになりますが、当時流行だった量子物理論の絡みなども意識しておられるのでしょう。
観察者としての〈自己〉と、実際に世界の中に存在する〈わたし〉の立場の分裂。そして更にその〈わたし〉が複数に分裂してしまう。これらの「分裂」をotoQtさんは、重層的な自傷作用だと指摘しています。すなわち、「〈わたし〉が物語の中に巻き込まれ傷ついている」だけでなく、更にその〈わたし〉を統御する〈自己〉も「自らが〈わたし〉達を傷付けている」状態を引き受けねばならず、傷つく。現場の〈わたし〉と、それらを統御する〈自己〉が共に傷を負っていく。それゆえ「この作品、White Album 2は「恋愛ゲームで〈プレイヤー〉を傷付けるにはどうすればよいか」という問いへの現時点で最良・最悪と思われる答えを提示している」と結論される。

ではなぜ、〈わたし〉は傷つくのか。それは、この物語が「恋愛」だからだ。そうotoQtさんは考えている。恋愛という一つの〈世界〉の構築過程の中で、複数の〈わたし〉は一旦排除されるが、それが「分裂」したものである以上、その〈世界〉と関わらざるを得ない。だから、「〈わたし〉の〈世界〉から排除された他者が〈世界〉の内に侵入してきたとき、〈わたし〉は傷つく」のだ、と。(※ここは私の読み込みです。なぜ〈わたし〉が「他者」として侵入してくるかは、本文にはハッキリとは書かれていなかったように思います)

以上が、私が読み取った限りのotoQtさんの主張であり、恐らくそれほど大外しはしていないのではないかな……。誤読しているところや、解釈が通っていないところがあれば指摘していただけると嬉しいです。


さて、私はこのように読んで幾つかの不満や疑問を覚えました。疑問としては、「〈自己〉と〈わたし〉」が良くわからないというところが一番大きかったので直接質問にうかがったのですが、他にも幾つかある。そして、不満はもう少し、この感想に対する本質的な問題を孕んでいる……と私は考えています。

まず、疑問の方から参りましょう。otoQtさんはプレイヤーが「宙づり」になったということから敷衍させて、次のように述べておられます。「どのキャラクターとも十分に同一化できないということはつまり、それぞれ場面においてそれぞれのキャラクターに同一化しうるということでもある」。

これは、〈わたし〉の「分裂」へと繋がる重要な箇所ですが、どうもうまくいっている感じがしない。なぜなら、はじめはそもそもプレイヤーがあるキャラクターに同一化することそのものが常に妨げられる(音声で主人公が相対化される/視点が順繰りに描かれてどちらにも同一化できなくなる)という意味での「宙づり」さが問題だったはずが、いつの間にか「それぞれの場面において」キャラと同一化できるが物語全体を通しては無理だという「宙づり」さ――すなわち、物語内で一貫したキャラクターに同一化できるか否かという一貫性(統一性)の問題にすりかわっているからです。何らかの方法で繋がる気はするのですが、現状書かれている内容からだけでは、アクロバティックになる気がする。どんなキャラにも同一化というと、作中の千晶が思い出されますが、やっぱりあれはあれで特殊な才能と言えます。質の違う「宙づり」をどう繋ぐのか。ここはこの感想の謎の一つです。
【補注】 この部分はPalantir_Kさんが「プレイヤの立ち位置は流石に本とかと変わらんと思うけどなぁ。」と呟いておられたのが参考になりました。本の場合、そもそも「それぞれの場面」でキャラに同一化をしないパターンもあるわけですから、一人のキャラ(主人公)に同一化できないということと、各場面でどのキャラにでも同一化できるということは、さしあたり分けて考えるのが良いのかな、と。
また、疑問はもう一つ。otoQtさんが感じた「いたたまれなさ」が本当に「分裂」の痛みなのか、ということも問題です。この感想で示されたのは、両者が同じ局面で発生する痛みであるというところまでで、本当に同質のものであるかまでは言及されていません。そんな細かいこと、と言われるかもしれませんが、初発の問題が「こうも死にたくなるのは何故なのか」というところから出発している以上、こちらのほうが本質的な問題という風にも思います。

つまり、〈わたし〉が傷つくということは、果たして死を希求するほどの痛みを伴うのか。痛み・傷つくことがあるのは認めるとしても、それから「逃げたい」というのと、「死にたい」と思うほどの苦しみとは、ただちに同一なのか。もしかするとそれとは別の何かがあるのではないか。別の言い方をすれば、otoQtさんが感じられた痛み・辛さは、主に作品の内容よりも形式に依存してもたらされる「痛み」と同質のものであるということで良いのか。この感想を拝読して、やはりそのことは気にせずにはいられないところでした。

次に、不満(疑問と分ける為に便宜上こういう言い方にしました。大きな負のイメージはありません)について。私のメインの主張はむしろこれ以下になります。

第一に、ここでotoQtさんが「理由」として述べておられる内容の大半はシステム的な問題です。少なくとも、物語の内容そのものとはほとんど関係が無い。そしてまた、そのシステムは多くのエロゲーに共通するものです。真意はともかく、そのようなものとしてotoQtさんは述べておられる。たとえば、「主人公に音声」は数は多くないにしても時々見かけるレベルですし、視点がころころ切り替わるというのも同様。それは、「難聴主人公」や「ヒロイン視点」という形一般的特徴として表現されていることからも明らかです。

いや、その「程度」こそが『WA2』の凄さだ、ということが主張であったことは理解しているつもりですが、それはつまり、ここで扱われている問題が『WA2』に固有の問題ではなく、エロゲー一般で共有可能なことがらの「程度問題」だということになります。事実、結論である「最良・最悪と思われる答え」という言い方も、「最」という比較の形に落ち着いている。

で、あるならば。形式としてはその「程度」の内実が『WA2』の感想として論じられるべき問題であるはずです。たとえば、普通の主人公音声アリと、『WA2』の主人公の音声はどう違うのか。「癖がある」という形で触れられていましたが、まさにその「癖」がどのようなものであるかというところにこそ、この作品のオリジナルな部分がある。otoQtさんの今回とられた論述スタイルならば、そこに踏み込んでこそ読者は満足できるのではないか、と。「程度」の内実に踏み込まず、一般的・原理的な話に終始したせいで、『WA2』でなくても通じる話との区別が不明瞭なまま。

そして第二。第一とも繋がるのですが、今回の話はつまり、ほとんど全てのエロゲーは「プレイヤーを傷つける」ものだということになる話だと思います。他のエロゲーと原理的に違いがない(程度の差である)部分で『WA2』の「痛み」が成立しているのですから、他のエロゲーは徹底できていないだけで、徹底するとどれも皆、プレイヤーを傷つけるものになりうる。この感想のロジックをきちんと突き詰めると、そうなるはず。

だとすれば、これはとても斬新な――otoQtさんがそこまでラディカルな意図でお書きになったかはわかりませんが――意見です。普通エロゲーは、「オタクの現実逃避」だの、「優しい妄想」だのと言われていますが、それと全く異なる「オタクは実はドM」説を唱えていることになる。賛否は措くとしても、あまり聞かない。

しかし斬新とは言っても、それは結局の所、ただ単に担ぐ御輿を換えているだけという気がしないでもありません。「エロゲーの、都合良く自己投影できるシステムによって、オタクは逃避している」という主張が、「エロゲーの、都合良く自己投影できるシステムによって、オタクは傷ついている」になっただけ。これが「オタクは社会参与している」になるか、「オタクは承認を求めて悲鳴を上げている」になるか……。最終的には解釈を巡る論争が待ち受けているでしょう。
【補注】 加えてこれだと、更なる問題が残ります。エロゲーユーザーの大半が自分を傷つける行為を喜んでやっているなら、じゃあなぜ自殺しないの? とか、そもそもなんで喜んでやってるの? という問題。これは「普段のエロゲーは極限化されていないから気づかないだけだ」のような答え方ができますが、帰結としてエロゲーを楽しんでいる人間は鈍感なバカであって、本当はエロゲーなんてやめたほうが良い、ということにもなりかねないので、個人的には乗っかりにくい議論かなと思います。
エロゲーというシステムに関する解釈をすることがが悪い、という話では全然ありません。ただ、その路線の先ではotoQtさんの出発点にあった問題意識――「こうも死にたくなるのは何故なのか」――が消えてしまう。それは、とても勿体ない、残念なことに思われるのです。


otoQtさんが一貫してとっておられる手法は、エロゲー一般に共通するシステム、あるいは構造上の問題として作品を扱うという態度です。一部で言及される作品(『WA2』)の個別的要素も、全て一般性に回収されています。故にそこからは、一般的なユーザーと一般的なエロゲーの関係が浮き彫りにされてくるしかない。

いやもちろん、そもそも言いたいのは一般的なことだ、ということなのかもしれません。この感想の主旨はつまり、「『WA2』というのは既存のエロゲーの性質を極限に高めたものである」と。それでも、その性質の極限とそうでないのを分ける規準はどこかといった前述の問題点が残るとはいえ、それなら判る。この作品に内容的オリジナリティなんてものは基本無くて、要素面からエロゲーを突き詰めた、きわめて記号的な作品である。最初からその地点が目指されていて、「エロゲーはユーザーを傷つけるもの」という結論が出たというのならすぐれて論理的な、社会学チックな議論という感じがします。

しかし私の直観では、この感想が取り出そうとしていたものは、そういう要素的な話では無い。振り返るに、otoQtさんの感想は「《こうも》死にたくなる」というきわめて個人的な衝撃から始められていました。一般的な人間なんかではない「otoQtさん」と「『WA2』」という、それぞれに固有の存在の交わりの問題こそが出発点だった。実際、otoQtさんが書いておられる他のご感想もちらりと拝読しましたが、そちらでは作品の具体的な内容をotoQtさんの個性が捉える様を表現しておられる。とても面白かった。

今回の感想も恐らく、初発の時点ではそのようなものだった。けれど手法としてシステム分析的な手法を持ち込んだが故に、かえって『WA2』の個性も、otoQtさんが切実に感じた「痛み」も、どこかへ消えてしまっているように私には思われました。少なくともこの感想から、『WA2』の具体的な像はほとんど見えてこない。そして私は、最初の書き方からその書かれていない方を期待してしまったし、今でも読みたいと思っている。そういうことです。

システム的な話で通すなら、「死にたい」というつらさも『WA2』という作品も、最初から具体例の一つとして扱うほうが妥当だったでしょう(そしてそうなると、一つの作品に対する感想・批評と言えるか問題が発生する)。逆につらさや作品自体に寄りそって行くなら、具体内容にほとんど踏み込まない、今回とっておられるような手法はマッチしないのではないか、と。

私が過去の記事で述べてきた、「言わんとすることと言えていることのズレ」あるいは「主張とそれに適した手法(切り方)」という問題が、非常に具体的に、かつ端的にあらわれていたように思われたので、今回ご本人に失礼を承知でお願い申し上げて、「感想の感想」を書かせて頂きました。恰も議論の素材のように使ってしまい、礼を失することになっていないかと危惧がないでもありません。

otoQtさんのご感想を私は興味深く拝読したし、また私なりに全力でその内容を読み取ろうと試みたつもりです。本記事は一概に私の主張のためのものではなく、最初にも述べた通り、あくまでも本旨は感想を拝読しての感想です。そして傍目になんと見えても私のような人間からすると、曲がりなりにもこういう形で感想を書くというのは、それだけ本気で敬意を払っているのだ(片手間でやったつもりもありません)と言うことはお断りしておきます。

とは言い持って、大変失礼なことや憶測じみた発言も多々。お気に障られた部分などあり愛想を尽かされるかもしれませんが、この場を借りてお詫びと、取りあげることを快諾いただいたことに感謝を申し上げます。otoQtさん、本当にありがとうございました。

ちなみにこれまた毎度の繰り返しになりますが、システム的・エロゲー一般的な話と比べて、作品個別の話のほうが良いというつもりはありません。「勿体ない」と申し上げたのはあくまで、切実な初発の問題意識が回収されずに進んだ気がするからで、むしろ一般的なことこそが最初から目指されていたということなら、私が初発の問題を重く取りすぎたということなのでしょう。

しかし、私がここで述べたかったこと――感想で言おうとしていることと、実際に何が言えているかということの違い――は、多少なりとも伝えられたのではないか。今回はそのようにうぬぼれてみます。そうして、これは敢えて論争的な書き方をしますが、その辺についてきちんと考えずに作品の感想を書いたり読んだりしていることが、私たちは余りにも多い(自分を含めています)のではないか。自嘲もこめて、そんな風に思うのです。

作品を楽しめれば良い。難しいことを考える必要なんて無い。それはそうかもしれません。でも難儀なことに、私たちは――少なくとも私自身は、感想を書いたり、その感想について語ったりすることもまた、エロゲーを楽しむという行為の一貫に組み込まれてしまっているのです。であれば、せめてそのことと真摯に向き合っていきたい。バカにされてもうっとうしがられても、そのスタンスは貫いていこうと思っています。少なくとも、自分が何を言いたいのか、他の人が何を言おうとしているのか、それをきちんと読み・考えられるようにはしたいな、と。

なお、私ならばどうしたか、というのはここでは直接の問題ではないので文章化しませんが、クソ長い過去の記事が不十分ながらも一応の説明ということにさせてください。

なんかまた長い話をしてしまいました。まあ台風だしそれもアリ(意味不明)。それでは、また明日。

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