よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

エロゲー:月末戦線、異常なし

月末です。金曜日です。エロゲーの発売日です!

というわけで、今回もお仕事は午後からにして、午前中に秋葉原へ行ってきました。

予約タイトルは『BUNNY BLACK2』のみ。『お尻っ娘ヴィーナス』は買うと決めていたので購入。『華麗に悩殺♪くのいちがイク!』と『同棲ラブラブル』、『マジ恋S』も勢いで手を出しました。『学☆王』は非常に迷った(まったく眼中になかったはずが、他の人が買っているのを見るとすごくよさそうに思えて……)ものの、見送り。Frillの新作『牝アイドル』も今回は見送りました。

低価格を含んで五本。お財布にも運搬的にも優しい月となりました。評判次第ではそのうち追加で何か買うかも知れませんが、とりあえず早めに攻略していこうと思います。

そんな中ちょっと面白かったできごとを。

相変わらずこの時期、午前中のエロゲー売り場はレジが大混雑。ソフマップさんなどでは六列だか七列だかでレジをフル稼働させていますが、それでも15~20分待ちなどザラの状態。ショップ店員さんも対応に大わらわです。

とはいえ、多くの人が買う作品というのは決まっていますし、予約の受け取りのみ、という方もおおい。今月であれば、『マジ恋S』と『学☆王』で大半が占められていたように見えました。次点で、『ラブラブル』と『BUNNY BLACK2』でしょうか。ですから、メジャータイトルはすぐに対応できるよう準備が整っているわけです。逆に言えば、あんまり買わないようなのを持っていくと混乱が発生する。

今回私がモロにそのあおりを受けました。いえ、何か特別なことをしたわけではなくて、単に某ショップさんで『お尻っ娘ヴィーナス』をレジに持っていっただけなのですが、完全に予想外だったらしく、担当の店員さんが大あわて。

「ケ、ケツです! ケツ1です!」
「ケツか!?」

みたいなやりとりを隣のお兄さんとした後、レジ奥の商品ラックに駆け込む一人の店員さん。色々言いたいことはあるんですが、まず一言突っ込んでいいでしょうか? 略称、ケツかよ!?

品物を取りに行った間に、もう一人の店員さんがバーコード一覧で読み取りをして支払い開始……と思いきや、どうやら肝心のバーコードが見あたらない模様。というか、私がもっていった箱のバーコードを読めばよさそうなのに、何か問題があるんでしょうか。ともあれそんな感じだったので、何円払えば良いかも告げられずに放置プレイ。

奥へ行った店員さんもなかなか戻らず(2、3分待ちました)、しばらくして戻ってきた頃、ようやくお値段が告げられました。その後も、「特典ありましたっけ」「テレカが……」などと軽くドタバタしながら、ようやく会計終了。「大変お待たせして申し訳ございませんでした」と丁寧に謝って頂きましたが、こちらこそロットを乱して申し訳ございませんでした。貴音様に怒られてしまう。そのお言葉は、私の後ろに並んでいた皆さんにかけてあげてください。

ともあれそんな感じで、店員さんの対応からあんまり売れてないんじゃないかと心配になってしまう『お尻っ娘ヴィーナス』なのですが、プレイ中の現在、なかなか良い感じです。おそらく本日中には終わるので、できれば感想等早めに書き上げるつもりではおりますが、迷っている人は突撃かましても報われるんじゃないかと思います。

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「まあ」を多用する人は……?

少し前のことですが、これもツイッターでリツイートが回ってきた時にちらりと考えたことです。元々の発言はこちら。一応、全文を引用しておきます。

まあを多用する人は、 自己防衛の本能が強く、自分のテリトリー(領域)を荒そうとする相手には攻撃的な態度で接するタイプ。自分自身に科する理想は高いのだが、同時に劣等感も持ち合わせているので、心の葛藤に悩みやすい。

▼これってバーナム?
さて、「あるある」と思わず納得しかけて、あれ、何かおかしいな、と思いました。「まずは疑ってかかれ」という言葉にしたがって、批判的検討を加えてみましょう。

まず、「自己防衛の本能が強く」という部分。まあを多用しようがしまいが、大抵の人は自己防衛本能が強いと思います。本能、という語の意味は気になりますが、さしあたり《自分を守ろうとする無意識の働き》くらいに考えておきましょうか。人間社会で生きている以上、自分から傷つきたがる人というのは少ないでしょうから、自己防衛本能はほとんどの人が持っています。そして、ここのミソは単に「強い」としか書いていないこと。誰かより強い、何かより強い、という基準が存在しないため、読み手が「自分は結構自分を守りたがるな」と思えば、この部分は該当することになります。読み手が自分で掘って埋まる穴を用意できるような書き方になっているわけです。

次に、「自分のテリトリー(領域)を荒そうとする相手には攻撃的な態度で接する」という部分について。これなどはわかりやすいですね。自分の領域に踏み込んでくるだけならまだしも、「荒らそう」としてくる相手に対し、攻撃しない人のほうがレアでしょう。逃げるにしても、敵意くらいは抱くハズです。攻撃する、ではなく攻撃的な態度、ですから、イラッとくるとか、カチンと着た程度でも該当しますね。ここは、ごくごく一般的な、誰にでも該当するようなことを述べているに過ぎません。

話を進めましょう。「自分自身に科する理想は高い」という文言。これも実は、非常に曖昧で幅広く解釈できます。理想が高いということは、現状では叶っていない理想を持っているということです。普通に考えればこれは、「向上心が高い」という意味。しかし、それだけではありません。現状が思い通りになっていないということは、「現状に不満がある」ということです。つまりこの「自分自身に科する理想は高い」という文言は、現状に納得していない人であれば誰でもあてはまる可能性があるし、現状に納得していても、更に向上しようと考えている人にもあてはまります。このカテゴライズから逃れられる人、そうそうたくさんいるわけない。

更に、「同時に劣等感も持ち合わせている」という部分。劣等感がどの程度のものか述べられていないのがポイントですね。小さな劣等感すら抱かずに生きている人などいないでしょう。つまりこれもまた、殆どの人にあてはまる内容、ということになります。

こうして見ると上述したツイート、もっともらしく言っているけれど肝心の内容は「誰にでも当てはまること」ばかり。いわゆる「バーナム効果」か、それに限りなく近い発言であると言ってしまって良いと思います。十分条件は満たしているけれど、肝心の内容が余りにも幅広すぎるわけです。つまり実質、「まあを多用する人は人間である」と言っているのと大して変わらないのではないか、ということでした。

(ただしここでは、この発言者の方が意図的にそうした、と言うつもりはありません。140文字という制限の中では複雑なことは言えませんし、余計なものをそぎ落とした結果、こうなってしまった可能性は十分にあります。単に、こうして流通した発言の性質は、バーナム効果を孕んでいるということを言っているだけです。もっとも、これが狙ったものだとしたら、字数制限も含めて恐るべき計算に基づいた、もの凄く完成度が高いトラップのような気がします)

▼蛇足
とは言ってみたものの、「まあ」のような語が、何らかの意味を持つことも確かにあるように思います。原理的にはこの文章は「ささくれを向く人は~」でも「爪を噛む人は~」でも、「チョココロネをお尻から食べる人は~」でも同じなのです。しかし、これでは多分、たくさんの人が「おっ?」と思うことは無かったでしょう。

実際問題、少なくとも100人以上の人がリツイートする程には(そのうち、これを信じた人がどのくらいいるのかという問題もありますが)、「それっぽい」感じがする。「まあを多用する人」という問題設定が巧いわけです。ではここにある「それっぽさ」は何に起因するのでしょう。

「まあ」という語は一般に、曖昧さを示す場合があります(それが全てではありません)。『広辞苑』では、「①(かなりの程度であることを表す)まず。まずまず。「-よい方だろう」」として紹介されていました。なんとなく程度が高いのは高いけれど、はっきりとは言えない/言いたくないとき、「まあ」と言うわけですね。「まあいいです」とか、「まあそういうわけで」とか。

もちろん、「まあ」には他の意味もある以上、「まあ」を多用する人がどんな人か、ということは言えません。けれど、曖昧にぼかしたいときに、「まあ」を多用しがちである、ということは言えるかもしれない。あるいは、曖昧に言うための「まあ」を多用する人は、という限定をつければ、人の性格について何か特別なことは言えるのかもしれません。

この辺は、私のようながさつな人間には厳密な考察ができませんので完全に投げますが、「まあ」に限らず「なんか」とか「ちょっと」のような語が用いられやすくなる心理状態について検討した本があれば、読んでみたいかなという気はします。

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レビュー:『フリフレ2』

フリフレ2

タイトル:『フリフレ2』(Noesis/2011年12月22日)
原画:珈琲貴族/シナリオ:神楽坂ナオ
公式:http://www.gungnir.co.jp/noesis/products/frfr2/index.html
批評空間レビュー投稿:無
定価:3000円
評価:D(A~E)

《概要》
湊橋東学園に教育実習生として赴任してきた主人公・汐見海人。彼は煩わしい恋人関係を嫌い、「FreeFriends」(フリフレ)という出会い系サイトで性欲を解消していた。そんな彼が「フリフレ」を通して出会った少女、実習先の学生・篠崎菫。身よりを無くした彼女は、生活の金を稼ぐ為、海人に身体を売る。一度きりの出会いになるはずが、互いに心地よさを感じ、連絡先を教え合う二人。けれど海人と菫は、幼い頃に生き別れた実の兄妹であった。二人の想いの行方は、果たしてどうなるのだろうか。


《感想》
本作のレビューはあまり他の方がプレイしてみたい、と思えるような内容を書けなかったので、投稿を避けました。余り楽しくないかもしれませんが、単純な作品評としてお読みください。

大好評だった低価格帯ソフト『フリフレ』の続編。純愛/凌辱のどちらにもシフトする柔軟性に富んだシナリオと、珈琲貴族氏の描く淡いタッチのイラストが魅力的なシリーズだ。今回も同様のフォーマットは継承。しかし、残念ながら前作比較で明らかにパワーダウンした印象は否めなかった。

前作は家出少女との不倫を描いた作品だったが、互いに家庭内で行き場を失った二人が身体を重ね、心を通わせていく様子が丁寧に描かれていた。底を流れていたのは二人の「寂しさ」である。凌辱ルートも、その寂しさが歪にぶつかった結果として、非常に納得できる、統一感のある内容だったと言える。

本作の場合、菫は金に困っているのが主な事情であり、海人が買春をするのは性欲ゆえ。前作と違って、目に見える形での孤独は存在するものの、本質的にはさほど人に飢えてはいない。本作では「寂しさ」よりもむしろ、「背徳感」が強調されていると言えるだろう。

前作も教え子と教師という背徳感は描かれていたが、本作の場合は兄妹・血縁という葛藤がそれに拍車を掛ける。実際、OHPや各種媒体でもそのように宣伝されていたのだが……。蓋を開けてみると、期待したような葛藤・背徳感はほとんど無かった。

この手の作品において「葛藤」や「背徳感」が成立するには、「社会」がきちんと描かれている必要がある。なぜなら、主人公たちの葛藤というのは自分たちの内面と、それを許さない社会的な通念との間で生じるものだからである。つまり、社会の側、主人公たちを取り巻く「外側」の描写がしっかりしていなければ、それと競り合う主人公たちの内面描写も強度を保てず、心理描写も説得力のあるものになりにくい。

ところが、本作はその「外側」の構築にことごとく失敗した感がある。たとえば、菫が身を売るに至る過程。まず母子家庭で親が急逝したのに、一ヶ月で生活苦に陥るというのはさすがに備えがなさすぎる。保険くらい入っているものだろうし、それすらもできないような苦しい生活であったなら、菫がバイトすらしたことがないというのはどう考えても不自然。趣味と称して抱えている大量の少女漫画も、どうやって買ったのかという話である。

また、安アパートの家賃も払えず今にも追い出されそう、という設定だったはずが、海人のところへ引っ越す際には部屋に入りきらないほどの荷物を引っ越し屋に運ばせている。さすがにちょっとどうかと首を傾げざるをえない。

海人の間抜けぶりもすさまじい。菫を妹と判らなかったのは仕方ないにしても、買春時制服であらわれた彼女を見て、自分の実習先の学生だと気づかない不注意ぶり。いや、グラフィックが制服なだけで、菫はきっと私服で来ていたのだろう、と自分を納得させていたのだが、翌日学校で「ああ、見覚えがあると思ったらうちの制服だったのか」という海人の独白を見て、がっくりと脱力してしまった。実習生なのに相手の制服を見てなにも思わなかったということはつまり、この男、自分が社会的にどう見られるかなどということにほとんど頓着していないのだ。まあそもそも、教育実習期間に制服姿の女学生を買春しようとするのだからそれもむべなるかな、といったところか。

結局、海人と菫にとって葛藤を産み出す原因となるはずの社会的なサンクション(制裁)がほとんどまともに機能していない。加えて海人たち自身の中にさえその意識が希薄なのだから、最早どうしようもない。

きわめつけは、菫が実の妹だと確信した後の海人の行動。事情を打ち明ける為に呼び出すのだが、何故かホテルに行き、躊躇っているうちにムラムラきて、結局打ち明けずに肌を重ねる。そうなったら普通、事実を知りながら二度目の過ちを犯したわけで、逆にハードルがあがって言い出せなくなりそうなもの。ところが海人は、今度はきちんと菫に事実を告げるのだ。

優柔不断さを演出したかったのか何なのか、私には判断がつきかねるが、Hをする前は性欲に負けて言い出せなかったことを、Hしてスッキリしたら言えました、というのは、ちょっとばかりユニーク過ぎではあるまいか。

また、凌辱ルートに突入すると、海人はキャラが豹変。頭の悪いチンピラみたいな態度と思考がだだ漏れになって、情緒もへったくれもございません。まさにやっつけ仕事。

CGは相変わらず綺麗だし、音楽を含めた演出は、チープで無い程度には整っている。けれど以上見てきたように、言い始めるとキリがないくらい背景が雑。スタッフには申し訳ないが、これでは前作ほどの好評は、望むべくもないだろう。

昨今は他ブランドの低価格ソフトの充実ぶりもめざましいものがあるし、一世を風靡した作品を出した底力で、是非次回作は巻き返して頂きたいところである。

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「リアリティ」という語について

▼イントロ
「リアリティ」、あるいは「リアル」という語が、エロゲーを巡る言説では(それに限らず、かもしれませんが)頻繁に使われます。曰く、「キャラクターの心情にリアリティを感じられなかった」。曰く、「バンド活動の描写にリアリティが無い」。曰く、「リアルな人間像がある」……etc。しかし、この「リアル」あるいは「リアリティ」とは、どういう意味なのでしょうか。私は常々、この言葉に違和感を覚えてきました。一つは、意味が比較的曖昧に使われていることについて。もう一つは、本当に「リアリティ」が価値であるか、ということについて。今回は、そんなことを取りあげてみたいと思います。

といっても、ここはムズカシイお話を専門にする場所ではないし、どこぞの講義室でもありません。なるべく解りやすくするため、ある程度端折ってしまう部分があることはご容赦ください。そして、私の話は長いので、短くコンパクトにまとめることを目指します(笑)。

と先に言い訳をしておいて次へ。

▼「リアリティ」(現実/現実性)という曖昧な語
まず、おことわりから。「現実」というと本当はリアリティとアクティビティの違いがあるのですが、ここは「リアリティ」の話をしますよということでした。よって、以下「現実」と書いた場合は「リアル/リアリティ(超先生じゃないよ!)」を問題としているものと考えてください。

哲学事典を引いても良いのですが、もうちょっと近場で済ませましょう。とりあえずWikipedia先生に質問して頂ければおわかりかと思いますが、「リアリティ」という語は哲学のテーマとして長く扱われてきており、本来は軽々しく口にできないような複雑な背景と意味を背負っています(どんな語も軽々しく口にできるものではないのでしょうが)。とはいえ、「だから使うな」では話になりませんので、簡単にまとめると下のようになります。

(1) 「現象」に対する「現実」。たとえば「空耳」というのは、現象としてはある聞こえ方をしているけれど、実際(「現実」)はそうではない場合を指します。人間の感覚は曖昧なものなので、その感覚に頼らない、いわば《世界の本当の像》。

(2) 「虚構」(フィクション)に対する「現実」。虚構というのは、「現実」を模倣して《表現されたもの》を意味します。ベースにあるのが「現実」で、その派生が虚構、ということですね。単純に本物と偽物、くらいのニュアンスで捉えて良いと思います。ちょっとざっくりしすぎですが。ただし、ここではその「偽物」性が問題になります(後述)。

(3) 「理想」に対する「現実」。あるべきありようとしての理想に対して、そうではない状態としての「現実」です。こうなると「現実」は、単なる事実とは違って克服されるべき問題、理想への障害として捉えられることになります。(1)、(2)に比べると「現実」という語に否定的なニュアンスが強いですね。


とまあ、腑分けしただけでも色々とメンドクサイ雰囲気が漂ってきました。そして実際もっとメンドクサイのは、エロゲーの感想や批評で、それぞれの人がどの意味の「リアル」や「現実的」という語を使っているかわからないということです。基本的に「リアリティ」は肯定的な意味で用いられているため、(3)は余り見かけません。

ついでに、(1)の考えにも脱落してもらいましょう。というのは、個々人の感覚に頼らないような、絶対的な「現実」など存在するのか、という問題があるからです。感覚を超えた絶対的「現実」というと、倫理の教科書などで出てくるプラトンのイデアみたいなのを思い浮かべて頂ければ良いでしょうか。つまりこれ、「世界には本当の姿がある」という発想です。

哲学史的なことを言えば、これに異を唱えたのがカントという人でした。西洋哲学の専門家とかがいたら怖いですね。小声で言い直します。哲学史的なことを言えば、これに異を唱えたのがカントという人でした。有名な、「コペルニクス的転回」というやつです。割と重要なところなので、回り道かもしれませんが少しだけ説明させてください。

カントの行った「転回」というのは、いうなれば視点の斬新な変更です。それまでの認識論では、世界の側に真実があり、人間がそれを認識しているけれどズレる、という発想でした。つまり、モノが正しく見えていない、という場合の正しさは、世界の側にあったわけです。しかしカントは、そんなもん人間にわかる?と問い直しました。そして、わからないだろう、と。わからないのであれば、無いも一緒じゃないか。それならちゃんと認識できる部分について限定して話そう。それが哲学の仕事だ、と、まあそんな感じのことを言った。これはつまり、正しい認識の正しさを、世界ではなく認識主体の側に転換したわけです。以上が、カントの行った「転回」です。超大ざっぱですが、高校程度の知識としてはこれで問題ないと思います。

エロゲーを現象ではなく「現実」だ、真の世界だ、という立場はかなりレアい気がしますし(時々見かけますが)、あったとしてもカント先生が言うとおり、現象を超えた「現実」などというものがありえるのかという厄介な問題が発生します。その判断基準についてもいろいろありえるわけですが、一応私たちの素朴な思考のレベルでは、現象を超えた「現実」には触れられない、と考えて、ひとまず今回はこの立場を斥けます。

ということで残ったのは(2)、虚構に対する「現実」ですね。もともとエロゲーというフィクションの話なので、最初からこれだけ話すりゃ良かったのかもしれませんが、手続きすっとばすと後から知人に色々言われそうなので、形式的にですが手続きを踏みました。一緒に地雷も踏んだ気がしますが、それは気づかなかったことに。

▼虚構は「現実」のまがいもの?
では、いよいよ虚構に対する「現実」の話に参りましょう。その意味で「現実」(リアリティ)を大事にする人というのは、基本的にフィクションを下に見ています。先に挙げた、「キャラクターの心情のリアリティがない」云々を例にとれば一発でお解りいただけないでしょうか。虚構は偽物であり、本物の「現実」こそが重要。それに近いほど虚構には価値がある、という立場ですね。こういう立場で「リアリティ」を使う人というのは非常に多い気がします。しかし、本当にそれで良いのでしょうか?

発泡酒のCMで、「ビールと間違えるくらい美味い」というのがありました。これは、ビールという《本物》に、発泡酒が限りなく近づいている、だからこの発泡酒は凄い、ということだと思います。虚構と「現実」の話と似ていますね。もちろん対応は、虚構が発泡酒、「現実」がビール。

しかし、もし発泡酒好きの人がいたら、怒るのではないでしょうか。俺たちは、嫌々発泡酒を飲んでいるわけではない。ビールよりうまいと思って飲んでいるのだ。何が悲しくて、ビールなんぞと間違えねばならないのだ、と。少なくとも私が発泡酒好きなら、偽物のビールとしてしか扱われていないことに対して怒ります。同じことを、虚構と「現実」にもあてはめることはできないでしょうか。つまり、虚構は「現実」との対関係ではあるけれど、もはやその価値や意味は、「現実」から独立していても良いのだ、と考えることはできると思うのです。

もしも単純に「現実」が良いのなら、虚構はただの代用品です。私たちは「現実」を限られた範囲でしか味わうことができないから、その慰めとして虚構(フィクション)を楽しむ。そういう立場はありえると思います。糖尿の検査引っかかったから、ビールはやめて発泡酒、糖質カットもつけちゃおう、みたいな。しかし、その路線で虚構を褒めれば褒めるほど、虚構そのものの価値は下げていることにもなるのです。「リアリティ」は確かに、一つの判りやすい判断基準として機能しています。けれどそれを振り回した瞬間、虚構は絶対に「現実」に勝てなくなってしまう。私は、そのことが常々不満でした。

だからこそ、「現実」的であることを価値と見なさない立場もあるだろうと思うのです。肯定的という意味では、この記事の最初のほうで棄却した(3)の立場と似ていますが、厳密には違います。「理想」は「現実」の延長であり、まさにあるべき「現実」として虚構と「現実」の立場を入れ替えただけにすぎません。ビールが発泡酒になるべきだ(健康に良いんだから!)みたいなものです。私が言っているのはそうではなく、虚構の世界・フィクションの世界が「現実」から独立して、それ自体として別の価値を持つことができるのではないか、ということです。発泡酒にはビールとは異なる、発泡酒独自の美味しさがありえるように。

まったく同じではないにしても、『無限煉姦』のところで書いた、東浩紀の議論などは、実はこの虚構性を巡っての議論を含み込む射程を持っています(大澤真幸『虚構の時代の果て』などとの関係)。これ以上は単に私の立場表明ですし、更にややこしい話になるので一旦筆を置きますが、私たちが「リアリティ」というときにどういう意味合いで使っているのか、まずはそのことに自覚的であるべき。そしてその言葉を用いることで、無自覚に前提されてしまう立場(「現実」>虚構)があるということも意識しておいて良いのではないでしょうか。

▼「リアリティ」を読み・使うために
くり返しますが、「リアリティ」を使うなとか、そういう話ではないです。一つの判断基準として優れた物差しですし、現実の代用品としての「物語」を求めている人は多いでしょうから。ただ、そうでない立場の人がいるということも覚えていて欲しい。

また、書いてある感想や批評を読むと、あきらかに「そうでない立場の人」なのに、「現実性(リアリティ)」とか「現実的(リアル)」という言葉を使ってしまっているがゆえに、感想や批評が妙な具合にねじれてしまっている方を少なからずお見かけします。あるいは、分け切れていないせいでごちゃまぜに評価してしまって内容が分かりにくくなっていたり。

クリエイターさんの発言でもそうですね。「リアリティを追求しました」とかいうのを、文字通りに取らない方が良くて、作品内世界の整合性をとりました、くらいのニュアンスの場合がすごく多いような気がします。「理想の恋人を、すごくリアルに描いたんですよ」なんて言われると、何が言いたいのか解らなくなってしまう。その人にとって理想こそが大事なのか、リアルなことが大事なのか、その二つは矛盾しているのかしていないのか、ぱっと判断できないんですね。

たぶんそう言うときは、読む側が「どういう意味の「リアル」なのか」を斟酌して読めば良い。語りの技術としても、読みの技術としても、「リアリティ」という語に注意すると色々はっきりスッキリするんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?

今回はそんな感じで。
文章の乱れは適宜修正していく予定です。

---------
【2012年1月31日追記】
この記事を書くきっかけになりました、めざましさんの「めばえ」感想を紹介させていただきます。
 → めざましさんのレビュー(ネタバレ無)

めざましさんはここで、《現実》と《理想》という対立を取りあげておられます。《現実》と《理想》が別々の価値を主張する(《現実》は現実主義を、《理想》は理想主義を唱える)一方、一般的には《理想》のほうがエロゲーユーザーには重視される、というのがここで言われていることでしょうか。これはつまり、私の言ってきた、「現実」から独立した「虚構」というものが、めざましさんの《理想》と対応するように思います。

以下、コメント欄の内容を簡単にまとめることになりますが、めざましさんのご感想を、めざましさんのおっしゃっておられる路線で更に貫徹するなら、《現実》の体現者が莉子、《理想》の体現者が杏奈だった、ということになるように、私には思われました。だからこそ、リアリティという標語が取り下げられたのかな、と。実際、杏奈はあんな姉さんいないだろっていうアンリアルな感じでしたし(笑)。

そんなわけで、大変面白く読ませて頂いたレビューでした。しっかり考えられたうえで書かれ、しかもその考えのプロセスを追い掛けられるレビューというのは良いですね。しかも、作品やキャラへの愛に溢れていると、これは読むのがとても楽しい。めざましさん、楽しい感想をありがとうございました。でも私は杏奈派ですが

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レビュー:『喰ヒ人』

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タイトル:『喰ヒ人』(TinkerBell/2012年1月20日)
原画:あおじる/シナリオ:小峰久生
公式:http://www.cyberworks.jp/tink/kurai/
批評空間レビュー投稿:済→ネタバレ無
定価:8800円
評価:B(A~E)

投稿を終えたのでこちらでも少し。といっても、ほとんど書くことが残っていません。どんな作品であったか、内容が気になりましたら上記リンクより拙文をご覧ください。

攻略ルートとしては、感想にも書いた通り「琴音→悠里→まみ→ハーレム」がお薦め。実はハーレムルートは悠里からの分岐なのですが、悠里見た後、ハーレムに行くのが良いと思います。

一応ちゃんと理由があって、少なくともハーレムは最後です。これは譲れない。本作のハーレムは割とちゃんと「これしかない」終わり方になっているので、これを途中にして(そもそも全EDを見ずに分岐するのかどうか確認していませんが)、他を最後にするという選択肢は考えられません。また、琴音は悪いけど物語の本質に一番かまないキャラなので、最初です。

そうなると、残りは悠里とまみのどちらを前後にするか。効率的にはまみ→悠里なのですが、ストーリーの流れとしては逆です。どうしてかというと、まみルートとハーレムルートは、「3人が3人のままでいられる」という形の裏表になっているからです。これは、クリアすれば納得していただけるのではないでしょうか。まみ→悠里でも大きな問題は発生しませんが、「使用人」の正体などもわかるまみを「一応の」解決編・大団円とみなし、エクストラのハーレムに行くのが妥当に思われました。

ちなみにEDは「琴音1~3」、「まみ1~3」、「悠里1~3」+ハーレムの10個(最初のなんにもせずに終わるのを入れるなら11)。各ヒロインのEND1は、死亡フラグ踏んづけて途中リタイアの場合。フラグ選択肢一つで分岐するから回収は楽です。END2と3の分岐は、基本的に秋夜たちに従うか、反抗するかで分岐。多少分かりにくいこともありますが、たぶんフラグ管理自体は緩いのですんなり見られると思います。面倒なのはハーレムでした。

今回は声優さんのフリートークが割と面白く、特に琴音役の有賀桃さんは「有賀、頑張りました」おっしゃっているだけのことはある。しかし、トークネタがゲームシステムをことごとく無視していたり、台本ネタ多かったりと、収録早かったんだろうなあというのが何となく伝わってくるような内容で……。ともあれ、ありがとう、有賀さん!

過去にやってきたTinkerBellさんの作品中、1、2を争う良作でした。批評空間さんにつけた得点だと77点ですが、投稿するまでは80点いくだろと思っていましたし。独自採点表に書き込んでいたら、段々点数がさがっちゃいましたが、この手の凌辱ゲーとは思えない退廃的な雰囲気が良かったですね。個人的に、抜きゲーほど重厚な背景やしっかりしたストーリーが欲しいタイプなので、最低限このくらいの内容であれば言うことナシです。『アトラク=ナクア』を思い出したというのも、大げさではありません。あとは、もうちょっと展開うまく見せてくれたらな。

追加で、一香の物語(作中舞台の一年前)を収録したディスクが二月ごろ発送されるとのこと。あんまり出番も無かったので、それなら三人娘の後日談やってほしいと思わないでもないのですが、とりあえず葉書を送ろうかなと思います。

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《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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