よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

レビュー:『罪と罰』(漫F画太郎版)

一部地域で話題の、漫F画太郎著『罪と罰』、2巻を購入しました。

ちなみに話題というのは、表紙です。1巻はこんな感じで……。

罪と罰1

2巻はこれ。

罪と罰2

なんとびっくり、画太郎先生が萌え絵を……なわけがなくて、2巻の表紙はかんざきひろさんが担当されています。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のイラスト担当の、あのかんざきひろさんです。言うまでもないことですが、1巻の方も画太郎先生とは別人ですね。

ちなみに1巻の中身は完全に画太郎ワールドでした。原作ドストエフスキーとなっているけど、「独自の解釈で再構築され」すぎです。だいたい、主人公の名前がエビゾー=ラスコーリニコフって。金貸しの老婆に逆レイプされるという原作レイプな内容で、面白いのか面白くないのか真剣に考えた末に考えるのをやめました。

スーパーどうでもいいことですが、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ロージャ(ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ)は、イニシャルがロシア語で「РРР」。これはひっくり返すと「666」(キリスト教で悪魔を指すとされる数)となり、また「ラスコーリニコフ」という名前は「切り裂く」という意味の「ラスコローチ」から来ているなど、いろいろ仕掛けが施されているのですが、その辺は一切無視。あ、でも斧は持ってました。

果たしてこれは『罪と罰』なのか否かとか、そういう話はもうホントどうでもよくて、ああ、画太郎先生元気に生きておられたんだなという感慨を抱くとともに、芸風を内容から表紙にうつし、「絵」で亜空間から勝負を仕掛けてきたそのチャレンジャーっぷりに感涙を禁じ得ない。ほらほら、みんな表紙さえ良かったら買っちゃうんでしょ~? でもザンネンデシター! みたいなノリでありながら、ちっとも不快じゃないというか、良い感じでネタとして昇華されています。虚構新聞にキレていた人がこれ読んだら、卒倒するかもしれないですけど。

ちなみに2巻は、買った(もちろん限定版)だけで、読んでいません。読む気もありません。本棚に、表紙が見えるようにして、飾る。おそらくこれが、この本のただしい扱い方です(爆)。どんな内容なんだろう。画太郎先生だからきっと面白いんだろうなぁ。もしかすると画風が全然かわってるかもしれないぞぉ。わくわくするなぁ……。そんなことを考えながら、ずっと眺めているだけで良いのです。

というわけで、読んでみるまで内容が確定されない「シュレディンガーの本」として、『罪と罰』2巻は永遠に私の本棚で、開けられることなく飾り続けられることでしょう。

……では、また明日。

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作品と出会うという話

なんか急にブログのアクセス数が3倍くらいになりまして(といっても普段が少ないので騒ぐほどのアクセスではありませんが)、何ごとかと思ったらどうも、先日書いた「エロゲーにとって、エロとは何か」という記事を、多くの方にお読み頂けていたようで、ありがたいやらおそれおおいやら。ツイート数が2桁になっていたの、てっきり表示エラーと思いこんでいたのですが、マジでこんなにツイートされていたんですか。

有識者に聞いたところ、highcampusさん繋がりでerogeNewsさんに拾っていただいて、リツイートされたというお話。リツイートでもツイートがカウントされることをはじめて知りました……。しかし、この記事ぶっちゃけあんまりウケは良くないだろうと思って書いたのですが、わかんないもんです。リツイートされたのは、「ぷっ、こんなバカがいるぜ」という晒しのためだった可能性も高いので何とも言えませんが。どっちにしても、コメント頂いたので嬉しくなり、調子に乗って長文返しちゃうあたりまだまだ私も若いです。

閑話休題、コメントのほうにも更にツイッターで(非公開ですが)コメントを頂きました。毎度のことですがお名前出して良いか確認とって、OKならお出しいたします。内容は、リンクを紹介していただいた「麻枝准とエロ」のお話について。雑駁に言えば、どうしてこれが「批判や批評という行為は意味を失」うということになるのかよくわからないし、そもそも私が書いた批判って妥当なの? もうちょっと説明がいるのでは、という感じ。ちなみに、紹介していただいた記事というのは、こちら(「忸怩たるループ」)。

ご指摘はごもっともというか、多分コメントくださった方はスタンス的に「忸怩たるループ」さんの記事に当然賛成の立場っぽかったので先にことわっておくと、別に麻枝氏のユーザーへの心配り(「麻枝准は第一に客受けを考えている」)を否定するつもりはありません。あと、ここで言われていることの本来的に重要なポイントを、私はそこ(麻枝氏の作家性みたいなところ)だとはとりませんでした。

他の記事をきちんと読んでいないので確たることは言えない(と一応言い訳しておきます)のですが、「エロが不要というなら、ついでにあの口癖も不要なら、そもそも神尾観鈴が少女である必要もないではないか。」というこの一文が、私にはクリティカルに思われます。つまり、作品はただ作品としてあるのであって(観鈴ちんはただあるがままに観鈴ちんなのであって)、そこに要不要の議論はあるべきではないし、それをするのならば、全てをきちんと議論の俎上に載せるべし(恣意的に要素を決めるな)ということが、恐らくは言われているのではないか、と。

私がこの方の立場に非常に同意するのは、この部分。これはつまり、ある作品なり存在なりを、「そのままに」(総体として)捉えるということを意味していると思うからです。

補助線として、私たちが普段やっている読書のようなものを思い浮かべれば良いでしょうか。ある本を読んで、「この本で言っていることは、まとめるとこうだ」とか、「こんな内容だった」と言う。ブログの感想から論文の引用まで、私たちが本を読んだ後に述べるこうした感想は、その本の構造を抜き出すことを目指しています。構造、というのがわかりにくければ、骨組みとか骨格でもいいです。

そりゃあまあ、本そのものを語るくらいなら本を読めば良いのですから、語る以上は骨組みにしよう、というのは当然に思われるかも知れません。けれど、こうした行為の背景には、近代ヨーロッパ的な科学の知の影響が、やはり色濃くあらわれています。……なんか最近こんな話ばっかりしてるなあ。

どういうことか。普遍的なものを志向する科学的な知の前では、ある存在の特殊性というのは基本的に抹消されます。本を、「こういう枠組みの本だった」と述べることで、私たちはその本が背負っている歴史性や何やらを、交換可能なものとして扱うことができる。けれどそれは所詮骨組みでしかなくて、その本の全てではない。

人間ならもっとわかりやすい。「OYOYOというのはこんなやつ」だと骨格だけ説明してみても、実際に会った総体としてのOYOYOには、肉も皮もついているわけでして。骨格標本がOYOYOでは無いわけです。DNA情報のように、どんなに詳細で個別的なデータを見せたとしても、それがデータである以上、その人そのものではありえない。それは「ある人の説明」ではあっても、「ある人の存在」とはなりえない。

けれど私たちは、その「説明」によって、まるで「存在」を理解したかのように錯覚してしまう。あるいは、「存在」が別にあることはわかっていながら、「説明」ができれば安心してしまう。そういうところがあります。

永井均『〈子ども〉のための哲学』という本に、こんなエピソードが書かれていたことを、かつて興味深く読みました。
『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)にも書いたことだが、ぼくはある友人に「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いを出してみた。彼の答えは「両親がセックスしたからだ」というものだった。だが、ぼくが生まれる以前には、二人の男女はまだぼくの両親ではない。その二人がセックスをしたからといって、なぜぼくが生まれてこなければならなかったのか。友人はこの問いの意味を理解しなかった。(p.22)
この問題は、いろいろな切り口から観ることができます。たとえば、現象を説明する自然科学(セックスしたからだ)と、起こりえていないこととの比較で現実を捉える人文諸学との差異を読み取ることもできるでしょう。しかし、この後永井均が説明するように、根本にあるのは〈ぼく〉という存在の〈奇跡〉です。
ある人間がかくかくの性質(物理的であろうと精神的であろうと)を持っていれば、その人間は〈ぼく〉になる、ということ(が発見されるということ)はありえないのだ。なぜなら、〈ぼく〉にはただひとつの事例しかなく、同じ種類の他のものが存在しないからである。だから、そいつが〈ぼく〉であるという事実は、そいつが持っているどんな性質とも関係なく成り立っていると考えるほかはない。つまり、そいつの持っているどんな性質も、そいつが〈ぼく〉であったことを説明しないのだ。(p.58)
少々わかりづらいかもしれません。でも、もとは「作品」の話をしていたわけで、それならそう難しい話ではない。

もし、『ハムレット』(何でも良いんですけど)の構造が余すことなく分析され、時代背景も完璧に説明され、全く同じ社会状況が作られ、シェークスピアのクローンがその中におかれて、そうやったとして、果たしてまったく同じ『ハムレット』は生まれるのでしょうか。あるいは、そうやって生まれた『ハムレット』を、オリジナルの『ハムレット』と呼ぶことはできるのでしょうか。永井は、どちらも「できない」と言うでしょう。ぼくが〈ぼく〉であることの不思議というのは、そういう説明不可能な、存在そのものの〈奇跡〉のことです。「この作品はこういうものだ」とレッテルを貼って、一般化すれば終わるのなら、こんな話は必要ありません。でも、そのような一般化からはみ出す作品の固有性にこそ、私たちは惹かれているはずなのです。

永井は結局、「この先に何かこれ以上考え進められることがあるとは、思えなかった」と言って「考えるのをやめ」てしまう。この〈ぼく〉なるものに説明を与えるということは不可能だからです。近代ヨーロッパの知的枠組みでは、それはすくいだせないものとして残り続ける。そしてまたそれゆえ、科学的な知に慣らされた私たちの中には、「このような話をどんなにくわしくしても、そもそも問題の意味をまったく理解しないひとがいる」(p.59)というのも頷けます。

では、そういった存在の不思議をすくいだすことはできないのか。そう決めつけるのは早計でしょう。先ほどから「近代ヨーロッパ」をくり返してきていることから、なんとなく気配を感じ取っておられるかもしれませんが、たとえば近世以前の東アジアでは、まったく逆で、そうした存在の不思議そのものに触れることが常に目指されてきました。

釈迦の言説をたどりなおす仏教しかり、聖人や孔子の教えと格闘する儒教しかり。手法こそ(現代から観れば)分析的手法を使っているようにみえますが、彼らは釈迦になり、聖人となることを目指していたのであって、決して教えのエッセンスを取り出してそれを乗り越えようとしていたわけではありません。彼らの行き先は、自分の書いているものがまさに釈迦なら釈迦、孔子なら孔子の教えそのものであるというところにありました。

このあたりは、真理がこれから実現されると考えるキリスト教的進歩史観的と、既に真理が体現されていると考えるアジア的歴史観という、洋の東西の時間感覚の差異として頻繁にとりあげられる内容と重なる部分かもしれません。さておき、問題はある人物にしてもその人の思想にしても、あるいは作品にしても、そのものがもつ固有性――具体的な存在そのものの〈奇跡〉に、いかに迫りうるかというところです。

「麻枝准とエロ」の話に戻しましょう。私が、この記事に同意する――などと言うと偉そうですが、この記事の内容に強く頷きたい部分があるのは、いま述べてきたような固有性を志向している部分があるように思われるからです。神尾観鈴という存在の、あるいは『AIR』という作品そのものの固有性を、私たちは取り出したい。オリジナリティ、などということばでは足りない、どうしても観鈴でなければダメだという、その部分をこそ取り出したい。そのように願うとき、私たちはどうすれば良いか。これは、おそらく「こうだ」という結論が容易には出せない問題であり、今も多くの人が考え続けていることです。

批評行為を解釈であり表現だと位置づけた小林秀雄にならうなら、私たちもまた、表現者としてその作品と向かい合うしかない、ということになるでしょうか。私たちの固有性との差異においてしか、その作品(もう相手が「作品」でも「存在」でも構わないことは同意いただけるでしょう)の固有性は捉え得ないのだ、と。もちろん、批評をするばかりが表現ではありません。その作品にインスパイアドされて作品をつくったり、果ては泣いたり怒ったり笑ったりするという反応だって表現でしょう。そうした表現の中に作品と出会っているというのは、まあ納得できる部分が私にはあります。私が今もなお関わり続けている、人文学のある分野もまた、自分の学に特殊な手段を通して作品の固有性を捉えようとしてきたのだし、あるいは思想や哲学というものは本来そのようなものであるのかもしれません。

注意しておきたいのは、作品そのものの姿を取り出すというのは、現にある作品を無批判に受け入れることと同義ではないということ。私が「麻枝准とエロ」の記事にひっかかったのは、その部分です。この記事を書かれた方が実際にどう考えておられたかはちょっとわからない(筆が滑るということはよくありますし)のですが、「どのみち麻枝准は第一に客受けを考えているはずだ」のような言い方をしてしまうと、それはもう、作品そのものを観ることにはならない。作品の背後にある、「作者」という事実を説明するものとして、作品を読んでいることにならないか。そのように考えたからです。

よく言われることですが、たとえば神話を読むときに、何か事実の説明、表現として神話を読む、という手法がいまでも広く行われています。『古事記』はこれこれという豪族の争いがモチーフになっているのだとか、『ギリシャ神話』の神々の争いの結果は、ここの地方の部族が別の部族を征服したことと重なっているのだ、などというふうに。それは、作品という表現をある事実に還元していって、そこに存在している意図や働いている力を観ようと言うもので、作品のイデオロギーを暴露するというきわめて学問的な方法です。そういうやり方自体が悪いとはまったく思わないし、ひとつのあるべき、すぐれた手法だとは思います。

ただ、それはどうしても、ここまで述べてきたような作品の固有性というはみ出しを捉え得ないのではないかと思います。作品を読んで「面白い」と思うことと、何らかの時代性や「作家の意図」を反映しているという対照関係は、おそらく別モノでしょう。ただ、こちらの方はそもそも麻枝准氏の作家性を問題にしておられるので、私のこうした言い方は不当かもしれません。作家そのものと出会おうとしておられるのなら、別の軸の話になりますし。また、作品の固有性に出会うということの意味が、私とだいぶずれている可能性は高いので、以上のような批判はまったく成り立たない可能性がある。まあこの辺は微妙な問題が絡みまくるし、いい加減なことが言えないなと思ったので、あんまり深く触れませんでした。

けれど、「神尾観鈴」というそのキャラと出会うことをもしも目指すのならば、私たちに「麻枝准」という作家の存在は必要ないはずだし、「麻枝准」という作家その人と出会おうとするなら、「神尾観鈴」という個別具体的なキャラクターは最終的には一般化される、ということは言えるのかなと。そして今回とった私の立場は、作家と出会おうとするのではなくて作品と、もっといえば作品の中にいるキャラクターとの出会いを目指していた(その意味でのHシーンというのを考えるつもりだった)ので、「同意しづらい」し、もしその立場をとってしまうと何も言うことがなくなる(一般化されてしまうから)と。まあ概ねそんなことを言いたかったわけです。

と、長くなってしまったのですが、説明になったでしょうか。関係の無い人にはいまいちピンと来ない話が続いてしまった感はありますが、作品の固有性と出会い、それを捕まえるというのはどういうことかという問題というのは、常に私の中にある関心だったので、ちょっと書いてみました。今回具体的な事例から始めてしまってわかりにくくなった向きもあると思うので、どこかで一般化して話をしてみようと思います。(酷いオチですw)

それでは、お付き合いありがとうございました。また明日お会いしましょう。

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トモセシュンサク絵はエロ過ぎて困る話

私は何となくエロゲーの特典テレカとかも集めたり集めなかったりというゆるい人間で、あんまりコレクター癖の無い人です。ただ、そんな私が先日、「こりゃなんとしても手に入れないと!」と思ったブツがありました。それが、こちら。

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クリックでもうちょっとだけ大きくなります。

『二次元ドリームマガジン』表紙とピンナップの、トモセシュンサク絵テレカ。二次夢系だけあってバッリバリの凌辱絵ですが、これがもうへんたい素晴らしい。じゃなくて、たいへん素晴らしい。普段、トモセ先生の派手な凌辱絵はあまり見ないのですが、全然いけますね。本気と書いてマジで、Liquidさんあたりから出ないかなとか期待しちゃいます。二次夢ノベルズの『月下の剣姫』でイラストを描かれていたときはなんかちょっとイマイチで、「やっぱり触手とか慣れないのかな~」などと思っていましたが、ほんっっとすみませんでした。浅はかでした。また触手描いてください。土下寝します。_| ̄|○ノ

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山河勇著/トモセシュンサク絵『月下の剣姫』(キルタイムコミュニケーション、2006年)

表紙とピンナップのテレカは購入形式なのでレアリティはそんなに高くありません。別にコレクターグッズとしての価値は無いと思いますが、ぶっちゃけもしこれを他の人がもっていたらすげー羨ましいと私は思います。特に軍人さんが良い。なんか良い。サイコー。

他に二次夢系の絵師さんで注目しているのは、最近『アサギ』のコミカライズを担当されていた高浜太郎さん。『精霊騎士アクエアル』でエロゲーに来ておられますが、個人的には『呪い屋 零』がエロくて好きです。ゲーム化しないかしらん。『魔術師とアルカナの化身』も良かったです。時代は蟲責め。

呪い屋零  魔術師とアルカナ
『呪い屋 零』シリーズと『魔術師とアルカナの化身』シリーズ(キルタイムコミュニケーション)

あとは、桐島サトシさんとか七輝静樹さんあたりも。桐島さんは現在、斐芝嘉和さんとのタッグで『淫獄の姫騎士 アリシア』を連載中。これがおっそろしく良い感じなので、楽しみでしょうがありません。さえき北都先生も『オリオンハート』などでご活躍ですが、どっちかというと凌辱系とは相性悪い感もあり。

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連載中の『アリシア』。単行本になるのが楽しみです。

そういえば、同人で素晴らしい触手ワールドを描いておられるB-RIVERさん、昔『学園の檻』っていう二次元ドリームノベルズの挿絵描いておられました。この本結構エロエロだったので(触手は出てきませんが)、割とお薦めです。二次元オチも含めて、個人的には二次夢ノベルズの中では5本の指に入るお気に入り度。

漫画のほうでは、ぱふぇ先生がそろそろブレイクするんじゃないかとずっと注目していたのですが、いまいちビッグウェーブにならないですね。さすがにワンパターンすぎるからでしょうか(笑)。今回は単行本後書きで「触手ださなくてすみませんでした」的な(謝ってはおられませんでしたが)ことを書いてらしたので、次回はビョルビョル展開に期待したいと思います。

美少女文庫におされっぱなしとはいえ、キルタイム系はこのところとみに良い感じに質が高くなってきています。マンネリなのは例の如くなので今更突っ込みません。どこかで一発ブレイクしないかなあ。ひっそりと応援したいと思います。

ってなわけで、本日はこの辺で。途中からトモセさんの絵関係なくなりましたね。タイトル詐欺、ご容赦ください(陳謝)。それではまた明日お会いしましょう。ごきげんよう。( ゚∀゚)ノ~~

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携帯が元気になって帰ってきた話

先日ぶっ壊れたといっていた携帯が、元気になって戻ってきました。良かった……。

なんだか良くわからないけどガワのほうも交換してくれたらしく、ぴかぴかになっていました。もっさりしていた動作も軽くなっていて(ハード的な問題だったのか……)、凄く良い感じ。しかし、中身のほうはちゃんと「え」とうつと「エロゲー」という予測変換をする素晴らしい賢者ちゃんのままで、安心しております(*・ω・)y-~~~。

私は結構携帯をメモ代わりに使っていて、論文のアイディアとか思いついたこととか、買いたい同人ゲーとかをメモ帳、メール下書きなどのところに保存しまくっていたので、(他の人に見られたかとおもうとぞっとしませんが)とりあえずその辺のデータが残っていたので発狂せずにすみました。こまめにバックアップもとっていたので、問題ないといえば問題ないのですが、やっぱり無いと不便ですね! この前と言っていることが違う。

代替機のほうは見ている前でフォーマットされ、各方面に送った変態的メールなどは綺麗サッパリなくなってしまいました。こういうことははじめてだったのですが、なんだかんだでデータの取り扱いとかは慎重にやってくれるみたいですね。逆にこの辺いい加減にされるとはなはだ不安なので、時間と手間はかかったけれど、きっちりやってくれてポイント高かったです。

ともあれ、今日はそういうおめでたい内容でした。今から携帯再設定しないといけない部分とかをいじってきます。それでは~。

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エロゲーにとって、エロとは何か

「このゲームにはHシーンは要らなかった」

そんな風な言葉を、時々耳にします。んで、これだけ聞いたのでは、褒めてるんだか貶してるんだかわかりませんね。もちろん、発言者の意図がどこにあるかというのは前後の文脈を考えれば明確なのですが、「そもそも」論として、エロゲーにとってHシーンの持つ意味とは何ぞや、と考えると、これがなかなか一筋縄ではいかない問題のように思われてくるのです。いわゆる、エロゲーにとってエロは必要か不要か問題なども、根っこは同じところにあるでしょう。今回は、そんなお話。ちょっとヤヤコシイことになると思いますが、なるべく整理して書いていきたいと思うので、どうぞお付き合いください。

さしあたり、語句の定義が必要だと思うので、妥当かどうかはともかく今回の記事の中で使う語の意味を限定しておきます。まず「Hシーン」。これは、性的な意味で18禁なシーン、としておきます。次に「エロゲー」。これは、Hシーンの含まれる18禁のゲームということにします。わかりにくかったら、性的な意味で18禁シールの貼ってあるゲームです。暴力シーンによる18禁はエロゲーじゃないし、『たっち、しよっ!』みたいに「エロすぎ自重!」な内容が含まれていても、直接的な性描写が無ければエロゲーとは呼ばないことにします。おおざっぱで申し訳ないですが、そんなところで。ンな当たり前のこといちいち言わなくても良いよと言われそうですが、要は、単純に形式的な問題としてエロゲーかそうでないかをひとまずは定義づける、ということです。自主規制がどうのとか、実質的なエロさがどうとか、そういう微妙な問題があるのは承知のうえで、論点から外れるのでカットしました。

Hシーンの有無が単純にエロゲーと呼ぶかギャルゲーと呼ぶかといった、形式的な問題であるということなら、実は今回の話は既に片づいているというか、別にいらないダロと言われそう。オセロかリバーシか、みたいなしょうもないネーミングの問題ということでカタがつきますからね……。けれど、「エロゲー」という呼び方に、ないしはHシーンの有無ということにこだわるエロゲーマーの心性というのは、とてもじゃないけどそういう形式的なことにのみこだわっているようには見えません。そこには、何がしかの実体があるのではないか。今回の記事の関心は、その実体が何であるかというところにあります。

ところで、エロゲーにとってのHシーンの意味というのを考えるうえで、意外と見過ごされがちなのは、それぞれの作品にとってHシーンが果たしている役割、という部分です。手掛かりとしては結構重要だと思うので、色々考えて、作品の構造を基準として以下のように分類してみました。

(1)Hシーンが主な目的となっている作品
 例:作品の目的が凌辱やらHやら子作りのゲーム(内在的な目的)
(2)Hシーンだけが目的ではないけれど、Hシーンが不可欠な目的となっている作品
 例:脱衣麻雀とか
(3)Hシーンが不可欠な表現手段として用いられている作品
 例:多くの恋愛ADV
(4)Hシーンが(1)~(3)のどれでもない作品(Hシーンに主だった役割が無い作品)
 例:Kanon

一応説明していきましょう。まず(1)について。ユーザーにとってHシーンが主な目的の場合と、作中のキャラにとってHすることが主な目的の場合、どちらもが考えられます。が、ここでは前者はあえて外しました。理由は、「エロゲー」を純粋にゲームの形式として考えた以上(ユーザーにとってエロいかエロくないかは考えない以上)、Hシーンの意味についてもユーザーの視点を入れるとダブルスタンダードになる。少なくとも混乱が生じるためです。まあでも、凌辱系抜きゲーだと両者がオーバーラップすることが多いですね。痴漢ゲーとか。これはわかりやすくHシーンが作品にとって意味を持つので、Hシーン不要のエロゲーとはとても言えません。Hシーンを抜いたら、作品自体が成り立たなくて、二重の意味で抜けないわけです。ナンノコッチャ。

次に(2)。これも、Hシーン必須。脱衣麻雀とかを典型としてあげましたが、要するにHシーンは何かのオマケ、ご褒美としてあって、それ無しでもゲームとしては成立するけれど、商品としてのウリがHシーンのほうにあるので外せない、というパターン。

面倒なのが(3)。恋愛関係の達成であるとか、気持ちが通じあったことの表現としてHシーンがある、という場合。多くのADVがこれにあたると考えます。昔の「1キャラ1H」の作品であればわかりやすいでしょうか。あれはつまり、そのキャラとのゴールがHシーンに仮託されていたわけです。恋愛関係が入り乱れる『WHITE ALBUM』を例に取れば、ヒロイン由綺は緒方英二に告白されるしキスはするけれど、Hをするのは冬弥だけ。その意味でHシーンには、キスや愛の告白よりも重い、恋愛の達成としての意味が付与されていると言えるでしょう。『WA』ほどわかりやすくはなくても、大抵の恋愛ADVであれば、Hシーンには作品にとって何らかの特別な意味が付されているはずです。

ただ、問題なのはそれが「不可欠」かどうか、という部分。これは(4)との絡みになるのですが、相対的にHシーンの意味が薄い作品、というのはあります。Hシーンの重みがキスや告白、あるいは手を繋ぐことと同じくらいの意味しかなければ、「それ別にHしなくてもいいんじゃね?」ということになる。あるいは、Hシーンが友情の表現だ、と言われれば、「えぇ? それHと噛み合ってないんじゃ……」という風に、表現手段として適切かどうか、ということも問われるでしょう。例を挙げれば、一部地域で非常に悪名高い『下級生2』のヒロイン、柴門たまき。彼女がフルボッコにされたのは、単純に処女じゃなかったためということは勿論あるのかもしれませんが、恐らく遊び人っぽいクズ男と平気でHしちゃうせいで、彼女が主人公とHしても、何も特別な意味が無かった(ように見えた)。にもかかわらず、作品としてはたまきと仲良くなってHすることが目標であるかのように作られていたので、たまきと主人公との恋愛関係に説得力が持たせられなかった。そんな風にも考えられるのではないかと思います。少なくとも、「たまきんは中古!」といっていきり立っている人の話を聞いたり、書いておられるレビューなどをきちんと読むと、本気でそれしか言っていない人は2割くらいで、半分くらいは「別に非処女であることにそこまでこだわりはないはずだけど、何かコイツはイヤ」みたいなコメントを残しておられる方だった気がします。そのもどかしい言い切れ無さは、彼女と主人公との間の特別な繋がりを見出せなかったところから来ているのではないか、と。あとの3割は、ネタですね(笑)。

ただ、ここまで言っておいて何ですが、本当にHシーンにどんな意味があるのかとか、表現手段としてHシーンでなければならないのか、ということの判断はきわめて困難です。先ほども述べたように「ユーザー視点」で考えるとどうしても主観が入ってしまい、揉める。だから、「Hシーンの意味」というのはたとえばこんな風に解釈できる、という具体例として上の話は考えて貰って、ここではやはり純粋にゲームの形式に依存した話に戻してみましょう。すると、要は作品にHシーンが組み込まれてさえいれば、(3)の条件を満たすことになります。だから、ほとんどの恋愛ADVがこれにあたる、というわけ。しかし、中にはごく希に、Hシーンが不要であると作品が言っているものもあります。そこで、(4)の区分が出てくる。

(4)は具体例として『Kanon』を挙げました。これは、おわかりのかたもおられるかと思いますが、選択肢でHシーンを回避できるからです。そして、Hしてもしなくても、物語として落ち着く先は変化しません。つまり、作品自体の構造が、Hシーンの有無に関係なく成立しているわけです。もちろん、『Kanon』のHシーンに意味を見いだすユーザーはいるでしょう。けれど、個々のユーザーがどういう意味を見いだすかとは無関係に、作品はHシーン無しでも成立することになっているので、形式的に『Kanon』は(4)に分類することにします。これはエロが無ければ良いというわけではありません。たとえば『Pia キャロットへようこそ!! 2』のヒロイン、日ノ森あずさ。彼女は、Hシーンを経ると攻略できない(BADエンド行き)という珍しいヒロインでした。けれどこの場合、Hシーンは「やってはいけない行為」として作品から不可欠な意味が与えられているわけです。選んでも選ばなくてもどっちでも良い、というのと違い、選んではいけない行為としてHシーンがあるというのは、Hシーンを選ばなければ作品を終えられないということの裏返しです。もし『Kanon』的な作品を他に考えるなら、脱衣麻雀で勝った後のHシーンを任意でスキップできる(あるいはオフにできる)作品、というのが近いでしょうか。作品の中にHシーンがありながら、作品がHシーンを必要としていないからです。


さて、以上のように分類することで明らかになるのは、作品側にそくして形式的に判断した場合、Hシーンが不要のエロゲーというのは非常に少ない、ということです。しかし、今回の記事の初発の問題意識は、エロゲーマーのこだわりが形式的なことにのみこだわっているようには到底見えない、というところにあったわけですから、これで話を終えたら詐欺もいいところ。したがって問題は、ユーザーの主観にそくしてこれらの分類を眺めた場合、ここから何が浮かんでくるか、ということです。

恐らく多くの人にとって、エロが作品の目的である(1)と(2)の場合は、エロゲーとHシーンとの関係が問題にならないのだと思います。脱衣麻雀から脱衣とったらただの麻雀なわけで、それを無しで良いとはさすがに誰も言わないでしょう。あるいは、『孕神』からHをなくせというのは、作品に死ねといっているようなもので、論外と言わざるをえません。ユーザーにとってのHシーンの意味が問題となるのは、(3)や(4)のように、Hシーンが作品の目的ではない場合のはずです。

(3)の話のところで解釈の具体例を書き、また最後に主観が入り込む話をしたとおり、表現手段としてHシーンが用いられているのであれば、その表現の妥当性が問題となります。Hシーンは本当にある内容を適切に表現できているのか。また、その表現方法は、Hシーンでなければならないのか。別のやり方でも良いのではないのか――。そのあたりの問題が端的にあらわれるのが、コンシューマ移植問題でしょう。

エロゲーがコンシューマに移植される場合、多くはHシーンが消去されるか(たとえばPS3版『WA』はベッドシーンがまるごと切り抜かれていました)、別のシーンが追加されて置き換えられます。ちょっと後者である『恋楯』を具体例にしてこの問題を考えてみましょう。

作品ベースで言えば、『恋する乙女と守護の楯 Portable』のようにタイトルも変化するし、音声の追加もある。出演ヒロインだって変わるわけですから、エロゲー版の『恋楯』と『恋楯P』とは別の作品だ――そのように考えることも可能です(ブランド側が何と言おうが)。純粋な形式の話に戻せば、『恋楯』はゲーム的にHシーンが要求されるエロゲーですし、『恋楯P』はただのギャルゲー。

しかし、そこに質的な差はあるのか。ユーザーからすれば、イベントもほとんど同じ、追加キャラが入っただけであれば同じ作品として見るのは自然なこと。であれば、『恋楯』と『恋楯P』とで描かれている内容はほとんど変化していないということになります。恐らくはここが、混乱のポイントです。

『恋楯』と『恋楯P』との差異が、単なる追加要素だけであって、実質的には同じであるというなら、それは除外されたHシーンには意味がなかった、あるいはHシーンは何か別の表現によって代替可能なものに過ぎなかったということを意味します。だとすればオリジナルの『恋楯』は、『Kanon』同様、システム的にHシーンの有無を選べるのと、事実上同じです。いや、『Kanon』ならHシーンを選んだ場合と選んでいない場合とで作品のニュアンスが変わる、と言い張ることができるぶん、実質的にHシーンがあってもなくても同じだと言う『恋楯』のほうが、はるかにラディカルにHシーンの意味を否定していると言えるかも知れません。

話を『恋楯』から一般的なADVに戻します。Hシーンが作品にとっての「手段」である多くの恋愛ADVの場合、ユーザーが個別にその意味を考える余地が増え、またコンシューマ移植のように作品自体がHシーンの意味を失わせているように見える(実際にどうかはさておき)場合も多くなったため、Hシーンが要るの要らないのという、形式論を飛び越えた内容論が取り沙汰されることになったのでしょう。

背景には、エロゲーはコンシューマに劣っている(Hシーンはゲーム単体で勝負できないからつけるものだ)という選民思想ないしは劣等感みたいなものもあるのかもしれません。エロなんか無くたって世間に通用する。好きな作品についてそんな風な褒め方をしたい人がいるのは理解できるつもりです。

しかし、Hシーン無しで良い、というのを褒め言葉として使う人が、撒き餌的なサービスシーンに否定的なのはわかるとして、これに対してHシーンが必須であると主張する人も同じレベルでHシーンを考えているとは限りません。彼らにとってHシーンは「おまけ」ではない。まして、単にエロゲーなんだからエロがないとダメ、というしょうもない形式論にこだわっているとか、また自分の趣味としてエロが無いとやる気にならん、と性欲丸出しの話しかしていないとか、そんな主張ばかりだと考えるのは早計でしょう。(それはそれで意味のある主張だとは思いますが、個人の趣味すぎて議論にはしようがないのでここではとりあげません)

そりゃあまあ、そういう要素が無いとは言いません。けれど、もし「Hシーンの意味の有無」をユーザー視点で考えるという、同じ俎上に問題を載せるのであれば、エロゲーにHシーンが必要だと主張する人というのは、Hシーンでしか表現できないような内容を見いだしている、ということになる。そういう人もいるはずです。

いま述べたような立場に立つなら、エロ無しで良い、というのは最もすぐれた表現を放棄するということを意味します。なので、作品としてはなはだ論外ということになる。またコンシューマ移植というのは(全く違う内容だと言うならともかく、同じ内容にプラスアルファを付け加えたのだとすれば)劣化エロゲーでしかない。これに対する反論として、「Hシーン無しでも同レベルで成り立つのだ」と言われたとしても、それははじめの作品(エロゲー)のほうが、必要不可欠ではない表現をしていたということになるわけで、密度が薄れた、本気度の劣る作品ということ。最高の表現として、どうしてもHシーンが必要だったわけではない。それなら、最初からHシーン無しと同じことではないか――そんな風に考えられるのかもしれません。

私自身の立場を言えば、『WHITE ALBUM』の話で少し触れたように、Hシーンこそが恋愛の完成なり成就なりの、最も適切かつ有効な表現として機能しているのだと考えています。その意味で、Hシーンはエロゲーにおいて本質的な表現となり得ている。もうちょっと突っ込んだ話をすれば、恋愛という頭でするもの(この時点で異論反論が出そうですが)――少なくとも「物語」というかたちできりとられた世界の抽象が、完全に観念の世界に飛んでしまわず、どこかで私たちの現実と接点を持つ地点として、肉体の繋がり(Hシーン)というのが必要とされると思うので、それがきちんとしたかたちで描写されうるエロゲーが好き、ということになります。

私がエロゲーしかやらない、というのが半ばネタで、半ば本気なのは、個々のエロゲーにとってのHシーンの意味というより、物語という表現において、肉体の繋がりというのが何か大きな意味を持ち得ると、大仰に言うならばそんなことを考えているからかもしれません。もちろん、単にHシーンが大好き(性的な意味で)というのもありますケドね! でも、「実用」とは切り離された部分で、それでもHシーンの必要性を感じることも実感として事実あるので、こういう回りくどいことを言わざるを得ないのです。この辺の話は長くなるし本題からは外れるので、また気が向いたらやるかもしれませんが、今回は控えておきます。

というわけで、本日はエロゲーにとってのエロの話から、最後はちょっとHシーンそのものについての話へとトバしてみました。そしてひっそりと考えを終えることにします。分類や分析がうまくいったかどうかについては、お読み頂いた方の判断に委ねようと思います。ただ断っておくと、本記事はこれで完成、というつもりも自分が精度の高いことを述べたつもりも余り無くて、今後考えていく課題のための第一稿的に書いています。なので、全てにお答えできるかはわかりませんが、議論のできそうなところはどんどん指摘いただきたいし、何か面白い発見のヒントにでもなれば、望外の喜びです。

と、いったところで本日はおしまい。それではまた。

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