よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

トモセシュンサク絵はエロ過ぎて困る話

私は何となくエロゲーの特典テレカとかも集めたり集めなかったりというゆるい人間で、あんまりコレクター癖の無い人です。ただ、そんな私が先日、「こりゃなんとしても手に入れないと!」と思ったブツがありました。それが、こちら。

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クリックでもうちょっとだけ大きくなります。

『二次元ドリームマガジン』表紙とピンナップの、トモセシュンサク絵テレカ。二次夢系だけあってバッリバリの凌辱絵ですが、これがもうへんたい素晴らしい。じゃなくて、たいへん素晴らしい。普段、トモセ先生の派手な凌辱絵はあまり見ないのですが、全然いけますね。本気と書いてマジで、Liquidさんあたりから出ないかなとか期待しちゃいます。二次夢ノベルズの『月下の剣姫』でイラストを描かれていたときはなんかちょっとイマイチで、「やっぱり触手とか慣れないのかな~」などと思っていましたが、ほんっっとすみませんでした。浅はかでした。また触手描いてください。土下寝します。_| ̄|○ノ

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山河勇著/トモセシュンサク絵『月下の剣姫』(キルタイムコミュニケーション、2006年)

表紙とピンナップのテレカは購入形式なのでレアリティはそんなに高くありません。別にコレクターグッズとしての価値は無いと思いますが、ぶっちゃけもしこれを他の人がもっていたらすげー羨ましいと私は思います。特に軍人さんが良い。なんか良い。サイコー。

他に二次夢系の絵師さんで注目しているのは、最近『アサギ』のコミカライズを担当されていた高浜太郎さん。『精霊騎士アクエアル』でエロゲーに来ておられますが、個人的には『呪い屋 零』がエロくて好きです。ゲーム化しないかしらん。『魔術師とアルカナの化身』も良かったです。時代は蟲責め。

呪い屋零  魔術師とアルカナ
『呪い屋 零』シリーズと『魔術師とアルカナの化身』シリーズ(キルタイムコミュニケーション)

あとは、桐島サトシさんとか七輝静樹さんあたりも。桐島さんは現在、斐芝嘉和さんとのタッグで『淫獄の姫騎士 アリシア』を連載中。これがおっそろしく良い感じなので、楽しみでしょうがありません。さえき北都先生も『オリオンハート』などでご活躍ですが、どっちかというと凌辱系とは相性悪い感もあり。

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連載中の『アリシア』。単行本になるのが楽しみです。

そういえば、同人で素晴らしい触手ワールドを描いておられるB-RIVERさん、昔『学園の檻』っていう二次元ドリームノベルズの挿絵描いておられました。この本結構エロエロだったので(触手は出てきませんが)、割とお薦めです。二次元オチも含めて、個人的には二次夢ノベルズの中では5本の指に入るお気に入り度。

漫画のほうでは、ぱふぇ先生がそろそろブレイクするんじゃないかとずっと注目していたのですが、いまいちビッグウェーブにならないですね。さすがにワンパターンすぎるからでしょうか(笑)。今回は単行本後書きで「触手ださなくてすみませんでした」的な(謝ってはおられませんでしたが)ことを書いてらしたので、次回はビョルビョル展開に期待したいと思います。

美少女文庫におされっぱなしとはいえ、キルタイム系はこのところとみに良い感じに質が高くなってきています。マンネリなのは例の如くなので今更突っ込みません。どこかで一発ブレイクしないかなあ。ひっそりと応援したいと思います。

ってなわけで、本日はこの辺で。途中からトモセさんの絵関係なくなりましたね。タイトル詐欺、ご容赦ください(陳謝)。それではまた明日お会いしましょう。ごきげんよう。( ゚∀゚)ノ~~

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携帯が元気になって帰ってきた話

先日ぶっ壊れたといっていた携帯が、元気になって戻ってきました。良かった……。

なんだか良くわからないけどガワのほうも交換してくれたらしく、ぴかぴかになっていました。もっさりしていた動作も軽くなっていて(ハード的な問題だったのか……)、凄く良い感じ。しかし、中身のほうはちゃんと「え」とうつと「エロゲー」という予測変換をする素晴らしい賢者ちゃんのままで、安心しております(*・ω・)y-~~~。

私は結構携帯をメモ代わりに使っていて、論文のアイディアとか思いついたこととか、買いたい同人ゲーとかをメモ帳、メール下書きなどのところに保存しまくっていたので、(他の人に見られたかとおもうとぞっとしませんが)とりあえずその辺のデータが残っていたので発狂せずにすみました。こまめにバックアップもとっていたので、問題ないといえば問題ないのですが、やっぱり無いと不便ですね! この前と言っていることが違う。

代替機のほうは見ている前でフォーマットされ、各方面に送った変態的メールなどは綺麗サッパリなくなってしまいました。こういうことははじめてだったのですが、なんだかんだでデータの取り扱いとかは慎重にやってくれるみたいですね。逆にこの辺いい加減にされるとはなはだ不安なので、時間と手間はかかったけれど、きっちりやってくれてポイント高かったです。

ともあれ、今日はそういうおめでたい内容でした。今から携帯再設定しないといけない部分とかをいじってきます。それでは~。

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エロゲーにとって、エロとは何か

「このゲームにはHシーンは要らなかった」

そんな風な言葉を、時々耳にします。んで、これだけ聞いたのでは、褒めてるんだか貶してるんだかわかりませんね。もちろん、発言者の意図がどこにあるかというのは前後の文脈を考えれば明確なのですが、「そもそも」論として、エロゲーにとってHシーンの持つ意味とは何ぞや、と考えると、これがなかなか一筋縄ではいかない問題のように思われてくるのです。いわゆる、エロゲーにとってエロは必要か不要か問題なども、根っこは同じところにあるでしょう。今回は、そんなお話。ちょっとヤヤコシイことになると思いますが、なるべく整理して書いていきたいと思うので、どうぞお付き合いください。

さしあたり、語句の定義が必要だと思うので、妥当かどうかはともかく今回の記事の中で使う語の意味を限定しておきます。まず「Hシーン」。これは、性的な意味で18禁なシーン、としておきます。次に「エロゲー」。これは、Hシーンの含まれる18禁のゲームということにします。わかりにくかったら、性的な意味で18禁シールの貼ってあるゲームです。暴力シーンによる18禁はエロゲーじゃないし、『たっち、しよっ!』みたいに「エロすぎ自重!」な内容が含まれていても、直接的な性描写が無ければエロゲーとは呼ばないことにします。おおざっぱで申し訳ないですが、そんなところで。ンな当たり前のこといちいち言わなくても良いよと言われそうですが、要は、単純に形式的な問題としてエロゲーかそうでないかをひとまずは定義づける、ということです。自主規制がどうのとか、実質的なエロさがどうとか、そういう微妙な問題があるのは承知のうえで、論点から外れるのでカットしました。

Hシーンの有無が単純にエロゲーと呼ぶかギャルゲーと呼ぶかといった、形式的な問題であるということなら、実は今回の話は既に片づいているというか、別にいらないダロと言われそう。オセロかリバーシか、みたいなしょうもないネーミングの問題ということでカタがつきますからね……。けれど、「エロゲー」という呼び方に、ないしはHシーンの有無ということにこだわるエロゲーマーの心性というのは、とてもじゃないけどそういう形式的なことにのみこだわっているようには見えません。そこには、何がしかの実体があるのではないか。今回の記事の関心は、その実体が何であるかというところにあります。

ところで、エロゲーにとってのHシーンの意味というのを考えるうえで、意外と見過ごされがちなのは、それぞれの作品にとってHシーンが果たしている役割、という部分です。手掛かりとしては結構重要だと思うので、色々考えて、作品の構造を基準として以下のように分類してみました。

(1)Hシーンが主な目的となっている作品
 例:作品の目的が凌辱やらHやら子作りのゲーム(内在的な目的)
(2)Hシーンだけが目的ではないけれど、Hシーンが不可欠な目的となっている作品
 例:脱衣麻雀とか
(3)Hシーンが不可欠な表現手段として用いられている作品
 例:多くの恋愛ADV
(4)Hシーンが(1)~(3)のどれでもない作品(Hシーンに主だった役割が無い作品)
 例:Kanon

一応説明していきましょう。まず(1)について。ユーザーにとってHシーンが主な目的の場合と、作中のキャラにとってHすることが主な目的の場合、どちらもが考えられます。が、ここでは前者はあえて外しました。理由は、「エロゲー」を純粋にゲームの形式として考えた以上(ユーザーにとってエロいかエロくないかは考えない以上)、Hシーンの意味についてもユーザーの視点を入れるとダブルスタンダードになる。少なくとも混乱が生じるためです。まあでも、凌辱系抜きゲーだと両者がオーバーラップすることが多いですね。痴漢ゲーとか。これはわかりやすくHシーンが作品にとって意味を持つので、Hシーン不要のエロゲーとはとても言えません。Hシーンを抜いたら、作品自体が成り立たなくて、二重の意味で抜けないわけです。ナンノコッチャ。

次に(2)。これも、Hシーン必須。脱衣麻雀とかを典型としてあげましたが、要するにHシーンは何かのオマケ、ご褒美としてあって、それ無しでもゲームとしては成立するけれど、商品としてのウリがHシーンのほうにあるので外せない、というパターン。

面倒なのが(3)。恋愛関係の達成であるとか、気持ちが通じあったことの表現としてHシーンがある、という場合。多くのADVがこれにあたると考えます。昔の「1キャラ1H」の作品であればわかりやすいでしょうか。あれはつまり、そのキャラとのゴールがHシーンに仮託されていたわけです。恋愛関係が入り乱れる『WHITE ALBUM』を例に取れば、ヒロイン由綺は緒方英二に告白されるしキスはするけれど、Hをするのは冬弥だけ。その意味でHシーンには、キスや愛の告白よりも重い、恋愛の達成としての意味が付与されていると言えるでしょう。『WA』ほどわかりやすくはなくても、大抵の恋愛ADVであれば、Hシーンには作品にとって何らかの特別な意味が付されているはずです。

ただ、問題なのはそれが「不可欠」かどうか、という部分。これは(4)との絡みになるのですが、相対的にHシーンの意味が薄い作品、というのはあります。Hシーンの重みがキスや告白、あるいは手を繋ぐことと同じくらいの意味しかなければ、「それ別にHしなくてもいいんじゃね?」ということになる。あるいは、Hシーンが友情の表現だ、と言われれば、「えぇ? それHと噛み合ってないんじゃ……」という風に、表現手段として適切かどうか、ということも問われるでしょう。例を挙げれば、一部地域で非常に悪名高い『下級生2』のヒロイン、柴門たまき。彼女がフルボッコにされたのは、単純に処女じゃなかったためということは勿論あるのかもしれませんが、恐らく遊び人っぽいクズ男と平気でHしちゃうせいで、彼女が主人公とHしても、何も特別な意味が無かった(ように見えた)。にもかかわらず、作品としてはたまきと仲良くなってHすることが目標であるかのように作られていたので、たまきと主人公との恋愛関係に説得力が持たせられなかった。そんな風にも考えられるのではないかと思います。少なくとも、「たまきんは中古!」といっていきり立っている人の話を聞いたり、書いておられるレビューなどをきちんと読むと、本気でそれしか言っていない人は2割くらいで、半分くらいは「別に非処女であることにそこまでこだわりはないはずだけど、何かコイツはイヤ」みたいなコメントを残しておられる方だった気がします。そのもどかしい言い切れ無さは、彼女と主人公との間の特別な繋がりを見出せなかったところから来ているのではないか、と。あとの3割は、ネタですね(笑)。

ただ、ここまで言っておいて何ですが、本当にHシーンにどんな意味があるのかとか、表現手段としてHシーンでなければならないのか、ということの判断はきわめて困難です。先ほども述べたように「ユーザー視点」で考えるとどうしても主観が入ってしまい、揉める。だから、「Hシーンの意味」というのはたとえばこんな風に解釈できる、という具体例として上の話は考えて貰って、ここではやはり純粋にゲームの形式に依存した話に戻してみましょう。すると、要は作品にHシーンが組み込まれてさえいれば、(3)の条件を満たすことになります。だから、ほとんどの恋愛ADVがこれにあたる、というわけ。しかし、中にはごく希に、Hシーンが不要であると作品が言っているものもあります。そこで、(4)の区分が出てくる。

(4)は具体例として『Kanon』を挙げました。これは、おわかりのかたもおられるかと思いますが、選択肢でHシーンを回避できるからです。そして、Hしてもしなくても、物語として落ち着く先は変化しません。つまり、作品自体の構造が、Hシーンの有無に関係なく成立しているわけです。もちろん、『Kanon』のHシーンに意味を見いだすユーザーはいるでしょう。けれど、個々のユーザーがどういう意味を見いだすかとは無関係に、作品はHシーン無しでも成立することになっているので、形式的に『Kanon』は(4)に分類することにします。これはエロが無ければ良いというわけではありません。たとえば『Pia キャロットへようこそ!! 2』のヒロイン、日ノ森あずさ。彼女は、Hシーンを経ると攻略できない(BADエンド行き)という珍しいヒロインでした。けれどこの場合、Hシーンは「やってはいけない行為」として作品から不可欠な意味が与えられているわけです。選んでも選ばなくてもどっちでも良い、というのと違い、選んではいけない行為としてHシーンがあるというのは、Hシーンを選ばなければ作品を終えられないということの裏返しです。もし『Kanon』的な作品を他に考えるなら、脱衣麻雀で勝った後のHシーンを任意でスキップできる(あるいはオフにできる)作品、というのが近いでしょうか。作品の中にHシーンがありながら、作品がHシーンを必要としていないからです。


さて、以上のように分類することで明らかになるのは、作品側にそくして形式的に判断した場合、Hシーンが不要のエロゲーというのは非常に少ない、ということです。しかし、今回の記事の初発の問題意識は、エロゲーマーのこだわりが形式的なことにのみこだわっているようには到底見えない、というところにあったわけですから、これで話を終えたら詐欺もいいところ。したがって問題は、ユーザーの主観にそくしてこれらの分類を眺めた場合、ここから何が浮かんでくるか、ということです。

恐らく多くの人にとって、エロが作品の目的である(1)と(2)の場合は、エロゲーとHシーンとの関係が問題にならないのだと思います。脱衣麻雀から脱衣とったらただの麻雀なわけで、それを無しで良いとはさすがに誰も言わないでしょう。あるいは、『孕神』からHをなくせというのは、作品に死ねといっているようなもので、論外と言わざるをえません。ユーザーにとってのHシーンの意味が問題となるのは、(3)や(4)のように、Hシーンが作品の目的ではない場合のはずです。

(3)の話のところで解釈の具体例を書き、また最後に主観が入り込む話をしたとおり、表現手段としてHシーンが用いられているのであれば、その表現の妥当性が問題となります。Hシーンは本当にある内容を適切に表現できているのか。また、その表現方法は、Hシーンでなければならないのか。別のやり方でも良いのではないのか――。そのあたりの問題が端的にあらわれるのが、コンシューマ移植問題でしょう。

エロゲーがコンシューマに移植される場合、多くはHシーンが消去されるか(たとえばPS3版『WA』はベッドシーンがまるごと切り抜かれていました)、別のシーンが追加されて置き換えられます。ちょっと後者である『恋楯』を具体例にしてこの問題を考えてみましょう。

作品ベースで言えば、『恋する乙女と守護の楯 Portable』のようにタイトルも変化するし、音声の追加もある。出演ヒロインだって変わるわけですから、エロゲー版の『恋楯』と『恋楯P』とは別の作品だ――そのように考えることも可能です(ブランド側が何と言おうが)。純粋な形式の話に戻せば、『恋楯』はゲーム的にHシーンが要求されるエロゲーですし、『恋楯P』はただのギャルゲー。

しかし、そこに質的な差はあるのか。ユーザーからすれば、イベントもほとんど同じ、追加キャラが入っただけであれば同じ作品として見るのは自然なこと。であれば、『恋楯』と『恋楯P』とで描かれている内容はほとんど変化していないということになります。恐らくはここが、混乱のポイントです。

『恋楯』と『恋楯P』との差異が、単なる追加要素だけであって、実質的には同じであるというなら、それは除外されたHシーンには意味がなかった、あるいはHシーンは何か別の表現によって代替可能なものに過ぎなかったということを意味します。だとすればオリジナルの『恋楯』は、『Kanon』同様、システム的にHシーンの有無を選べるのと、事実上同じです。いや、『Kanon』ならHシーンを選んだ場合と選んでいない場合とで作品のニュアンスが変わる、と言い張ることができるぶん、実質的にHシーンがあってもなくても同じだと言う『恋楯』のほうが、はるかにラディカルにHシーンの意味を否定していると言えるかも知れません。

話を『恋楯』から一般的なADVに戻します。Hシーンが作品にとっての「手段」である多くの恋愛ADVの場合、ユーザーが個別にその意味を考える余地が増え、またコンシューマ移植のように作品自体がHシーンの意味を失わせているように見える(実際にどうかはさておき)場合も多くなったため、Hシーンが要るの要らないのという、形式論を飛び越えた内容論が取り沙汰されることになったのでしょう。

背景には、エロゲーはコンシューマに劣っている(Hシーンはゲーム単体で勝負できないからつけるものだ)という選民思想ないしは劣等感みたいなものもあるのかもしれません。エロなんか無くたって世間に通用する。好きな作品についてそんな風な褒め方をしたい人がいるのは理解できるつもりです。

しかし、Hシーン無しで良い、というのを褒め言葉として使う人が、撒き餌的なサービスシーンに否定的なのはわかるとして、これに対してHシーンが必須であると主張する人も同じレベルでHシーンを考えているとは限りません。彼らにとってHシーンは「おまけ」ではない。まして、単にエロゲーなんだからエロがないとダメ、というしょうもない形式論にこだわっているとか、また自分の趣味としてエロが無いとやる気にならん、と性欲丸出しの話しかしていないとか、そんな主張ばかりだと考えるのは早計でしょう。(それはそれで意味のある主張だとは思いますが、個人の趣味すぎて議論にはしようがないのでここではとりあげません)

そりゃあまあ、そういう要素が無いとは言いません。けれど、もし「Hシーンの意味の有無」をユーザー視点で考えるという、同じ俎上に問題を載せるのであれば、エロゲーにHシーンが必要だと主張する人というのは、Hシーンでしか表現できないような内容を見いだしている、ということになる。そういう人もいるはずです。

いま述べたような立場に立つなら、エロ無しで良い、というのは最もすぐれた表現を放棄するということを意味します。なので、作品としてはなはだ論外ということになる。またコンシューマ移植というのは(全く違う内容だと言うならともかく、同じ内容にプラスアルファを付け加えたのだとすれば)劣化エロゲーでしかない。これに対する反論として、「Hシーン無しでも同レベルで成り立つのだ」と言われたとしても、それははじめの作品(エロゲー)のほうが、必要不可欠ではない表現をしていたということになるわけで、密度が薄れた、本気度の劣る作品ということ。最高の表現として、どうしてもHシーンが必要だったわけではない。それなら、最初からHシーン無しと同じことではないか――そんな風に考えられるのかもしれません。

私自身の立場を言えば、『WHITE ALBUM』の話で少し触れたように、Hシーンこそが恋愛の完成なり成就なりの、最も適切かつ有効な表現として機能しているのだと考えています。その意味で、Hシーンはエロゲーにおいて本質的な表現となり得ている。もうちょっと突っ込んだ話をすれば、恋愛という頭でするもの(この時点で異論反論が出そうですが)――少なくとも「物語」というかたちできりとられた世界の抽象が、完全に観念の世界に飛んでしまわず、どこかで私たちの現実と接点を持つ地点として、肉体の繋がり(Hシーン)というのが必要とされると思うので、それがきちんとしたかたちで描写されうるエロゲーが好き、ということになります。

私がエロゲーしかやらない、というのが半ばネタで、半ば本気なのは、個々のエロゲーにとってのHシーンの意味というより、物語という表現において、肉体の繋がりというのが何か大きな意味を持ち得ると、大仰に言うならばそんなことを考えているからかもしれません。もちろん、単にHシーンが大好き(性的な意味で)というのもありますケドね! でも、「実用」とは切り離された部分で、それでもHシーンの必要性を感じることも実感として事実あるので、こういう回りくどいことを言わざるを得ないのです。この辺の話は長くなるし本題からは外れるので、また気が向いたらやるかもしれませんが、今回は控えておきます。

というわけで、本日はエロゲーにとってのエロの話から、最後はちょっとHシーンそのものについての話へとトバしてみました。そしてひっそりと考えを終えることにします。分類や分析がうまくいったかどうかについては、お読み頂いた方の判断に委ねようと思います。ただ断っておくと、本記事はこれで完成、というつもりも自分が精度の高いことを述べたつもりも余り無くて、今後考えていく課題のための第一稿的に書いています。なので、全てにお答えできるかはわかりませんが、議論のできそうなところはどんどん指摘いただきたいし、何か面白い発見のヒントにでもなれば、望外の喜びです。

と、いったところで本日はおしまい。それではまた。

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レビュー:『まねこい』

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モリタイシ『まねこい』 (小学館、2009年~2012年)、全7巻

少年サンデー誌で『いでじゅう!』などを手がけたモリタイシ氏がゲッサンで連載していたラブコメ、『まねこい』。非常に好きな話だったのですが、残念なことに先日完結し、最終巻が発売。

まずはあらすじから。同じクラスで学園のマドンナ、ホンチーこと本田知華子(ほんだ・ちかこ)に恋する平凡な男子高校生、薗田波留(そのだ・はる)。そんな彼の前に、「招き猫」の化身、招木猫太郎(まねき・ねこたろう)があらわれる。猫太郎は特殊な力で波留の願いを叶えに来たというが、どうやら恋愛成就が本業ではない(金を招くのが本業)らしく、ちぐはぐな対応ばかり。それでも恋のアドバイスで波留をはげましつつ、二人三脚で恋の成就を目指します。一方、一人では恋もできないような、冴えない波留を好きだという女の子・奈波や、ホンチーを狙う歴研部長・歌丸なども登場し、波留の恋路は荒れ模様。波留とホンチー、二人の恋を軸にして描かれる、たくさんの登場人物たちの、楽しくも切ないラブストーリーです。

さて本作、なかなか面白いです。とにかく最初から話の方向性がしっかりできあがっていてブレない。ヘタレだけど強く優しい波留の人間としての魅力がしっかり描けていて、何とか恋を成就させてあげたいなぁ、という気にさせられる。ありがちな話と言えばそうですが、それだけに三角関係の緊張感や波留の届かない想いのはがゆさなど、ポイントとなる部分がしっかり抑えられていて安定感があります。また、キャラ同士のかけあいも生き生きとしていて本当に楽しい。ニヤニヤしながら先の展開を読み進めることができました。

ただ、終わってみれば残念ながら成功した作品とは言い難い感もあります。微妙な言い方になるのをご容赦いただきたいのですが、面白くて好きな話である一方、どうもつきぬけていない。あるいは、何となくかゆいところに手が届いていない感がある。それは、コミックスを追いかけているときからずっと感じていたし、最終巻になってその想いが余計強くなりました。

詳しくはネタバレになるので言わないとして、モリタイシ氏が最終巻で「人生、必ずしも努力が報われるとは限らないし、時には取り返しのつかない失敗をしてしまうこともある」と言うように、本作の終わりはちょっと切ない描写があります。私はこの手の終わり方がもの凄く好きなのですが、しかしそんな私でも、本作でこの持っていきかたはあんまり無かったかな、という感じ。やりたいこと、言いたいことはわかるものの、それが言いたいなら別の見せ方があっただろう、と思います。

踏み込んだ話をしないと卑怯ですかね。ちょっと内容バレが怖い……。まあギリギリのラインまで行ってみましょう。

たとえば「努力が報われるとは限らない」と言いたいなら、招き猫という超常的な力の持ち主を出さず、キャラクター達には等身大の自分の力だけで勝負させたほうが説得力があったでしょう。また、積み重ねていったことが一発でダメになる、という理不尽さみたいなのを描きたいのなら、延々と過程を描くことに力を入れず、一旦完成させたと見せかけて、それを崩すほうが効果的です。つまり、恋愛を道具立てとして何か別のことを語ろうとしていたのなら、やや中途半端な表現になっている。

逆に、恋愛それ自体を描きたかったというのなら、このキャラクターたちが何をもって「恋愛の成就」という風に考えているのかを明確に示す必要がある。けれど、そのことが、最後までハッキリした像を結ばなかったように思います。誰かのことを一途に想い続けるという自分だけの世界で完結することなのか、想いが通じあうという相互の内的なことなのか、単に「つきあってくれ」という告白に返事をするという形式的なことなのか。本作では「嘘」というのが一つの重要なキーになっているのですが、それにしても色々な「嘘」の種類があるわけで、その「嘘」の何をホンチーや波留が課題としているのか、その辺のことがどうも見えてこない。6巻までで積み重ねられてきたものが何であって、最終巻で変化したものが何だったのか。その辺のことが曖昧というか雑なまま走りきってしまったので、漠然とした「恋」の輪郭のままで終わってしまった印象が拭えません。私なら、最後のシーンは描かず、『まねこい』という世界の恋愛は、あれこそが最高のかたちでの成就だった、と言い切ると思います。それが、最後をああしたせいで、1~6巻までのプロセスの意味が浮遊してしまった。(指示語ばかりですみません……)

キャラクター的なことを言えば、波留の魅力は丁寧に描かれているものの、メインヒロインであるホンチーの魅力がいまひとつ。多分彼女の最大の魅力は、彼女自身にあるというよりもむしろ、波留に好かれているところなのではないでしょうか。逆に、そこ以外に読者に訴求力を持ち得ていない気がする。つまり、読者が波留の目線に立ちづらい・波留を応援しにくい作品であったとも言えます。見た目でいえば近藤さんが一番……。

また、作中色々なキャラの恋が描かれるのですが、ちょっと多すぎてとっちらかった感がある。メインである波留とホンチーを含め、レギュラー陣だけで6組前後の恋模様が描かれるのですが、7巻の作品にそれというのはさすがに詰めすぎ。必然的に1つ1つの描写が薄くなってしまい、「設定だけ」が走っている部分が増えていました。

まとめると、等身大で生身の恋愛を描くのであれば、超常能力をもったアドバイザーの存在は余り必要ないというかむしろ邪魔にすら思えるし、そういうのを活かしたいのであれば、もっと明確に、テーマに沿った描き方をすべきだったのではないか、と。

重ねて言いますが、フォローでもなんでもなく、面白いです。私がこんな偉そうなことを言えるのも、話の骨格がきちんとしていて、しかもキャラの心理描写という肉づけも丁寧にされているから。それが上手く動いていればなあ、というあと一歩のもったいなさが引っかかっているというだけなのです。

微妙な評価になってしまいましたが、このはがゆい感じも含めて読む価値アリの作品。私はそう思います。モリタイシ氏は久々の登場でしたが、どんどん技術も面白さも磨きがかかってきているので、あとは歯車が噛み合うのを楽しみに待ちたいです。

それでは、本日はこの辺で。また明日お会いしましょう。

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レビュー:『僕と彼女のゲーム戦争』3巻

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師走トオル『僕と彼女のゲーム戦争』3巻
(2012年、電撃文庫 イラスト:八宝備仁)

電撃文庫5月の新刊を購入。今月は『僕と彼女のゲーム戦争』。1冊だけです。非常に楽しみにしているシリーズなので、ウキウキで買いに行ってさくっと読み終えました。

順調に1人ずつ部員を獲得している、伊豆野宮学園現代遊戯部。本巻では、ずっとひっぱられてきた健吾の幼なじみ、「みやびちゃん」こと鷹三津宮美(たかみつ・みやび)が部員に加わります。表紙のメガネっ娘ですね。当然、巨乳です。巨乳です巨乳。大事なことなので3回言いました。

実は彼女にはある秘密? があって、それが今後の展開に色々効いてきそうな気もしますが、今回はあんまり出番無し。前回天然のジゴロっぷりを発揮してまどか(杉鹿)をメロメロ……とまでは行かないまでも、ツンデレ状態にせしめた健吾くん。今回は宮美にも魔の手を伸ばし。そんなこんなで激化する健吾くん争奪戦に、一切割り込む気配がない天道部長。しかし健吾くんは天道部長にぞっこん状態なので、まどかと宮美が哀れすぎて涙がちょちょぎれます。

私的には、隠れキャラの仁科さんが今後絡んでくるのかなと思っていたら、何とビックリ、余所の学校(女子校)の女の子たちが出てきました。その名も、駿河坂学園電子遊戯研究部。なげぇ! 文字数稼ぎじゃないかと疑ってしまいますが、さすがに邪推でしょうか。天道たち現代遊戯部に対抗意識を燃やしまくり、絡む気満々なので、今後間違いなく健吾くんの毒牙にかかると思います。少なくとも、師走氏の過去作品(『火の国、風の国物語』とか)の流れだと、9割がた。たぶん部長の一条さんですね。ワクワク。

恋愛モードを抜きにすれば、注目すべきは宮美の「セガ信者」っぷり。曰く、「モンハンはPSOの後発」。曰く、「鉄拳はバーチャの後発」。表紙絵に往年の名機が描かれていたことから何となく想像はしていましたが、こいつぁ筋金入りのが来たな! という感じです。セガハードの黄金世代と青春がオーバーラップしているOYOYOとしては、思わずニヤリ。そのうち、『バーニングレンジャー』なぞやってくれないかと胸がときめきます(バーニングレンジャーの歌はすごく良いですよね!)。

なお本巻では、『ガーディアンヒーローズ』、『ファミリーフィッシング』、『エースコンバット(AH)』という3作品が取りあげられていました。特に『エースコンバット』は戦術・戦略の話が面白くて読み応えアリ。チーム戦の醍醐味が味わえる、非常に良い展開。これでいけるなら、『AoC』や『Civ』あたりも将来取りあげてほしいなあと思ったり。終わり方を見ると次回は格ゲーにいくのかな、という感じですが、アクション要素の濃いものだけでなく、戦略要素が高いもののほうが個人的には面白く読めそうでした。『火の国、風の国』が戦記系だったから、師走氏のタクティクス描写を読み慣れている影響もあるのかもしれませんが。

健吾くんがおっぱいサンドになっていたり、また着替えシーンに遭遇したりと恵まれすぎで憎しみで人が殺せそうになった以外は、非常に楽しく読めました。物語としては全然進展していないような気もしますが、進展してなくてこの面白さなので、今後話が転がり始めたらどんなに楽しいか、期待が高まります。相変わらず八宝先生の絵は綺麗で可愛くて柔らかそうで最高だし、もう言うこと無し。

というわけで大変満足した本巻。買って損無し。それではまた明日お会いしましょう。

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《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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