よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

検討:『たっち、しよっ!』(PS3)

たっち、しよっ
画像は応援バナーです。
『たっち、しよっ! -Love Application』 (コンパイルハート/2012年2月23日発売予定)
公式サイト:こちら


エロゲーではないので控え目になりますが、なんだこのエロい面白そうなゲーム……。と、一目あったその日から、私の魂は釘付けでした。文字通り一目惚れ。DSに『ラブプラス』が、PSPに『フォトカノ』があるなら、PS3には『たっち、しよっ!』がある……! というわけで予約も済ませ、あとは発売日を待つのみ。公式でムービーも紹介され、なかなか良さそうな感じが伝わってきます。

うーん、楽しみ楽しみ……。たまにはエロゲーじゃないのも良いものです、と言いたいのですが、ある意味エロゲーより色々持って行かれそうな予感もします。『アマガミ』みたいに、恥ずかしさに悶える作品であれば良いのですが、普通にエロそうなんで……。というか公式トップのやり口がズルいですよ!期待せざるを得ない。いろんな意味でスタンバイしながら待ちたいと思います。

たっち、しよっ01たっち、しよっ02たっち、しよっ03たっち、しよっ04
ヒロイン四人組。みんな良い感じ。左から気に入ってる順です。

左から、東雲真憂、城之崎佳弥、滝川葵、相葉皐月。バナー絵の無い播村奈津嬢も気になるのですが……。どうやら彼女はときメモで言うところの好雄ポジション、ようするに情報通として主人公をサポートしてくれる役所みたい。

とにかく真憂ちゃんが良いですね! ミリタリーオタクにして重度の厨二病。彼女のあんなところやこんなところを触ると、蜂の巣にしてくれるそうです。マジたまらん!

佳弥嬢はなんかフツーに正統派ヒロインっぽいので、そのまま一直線にいけそう。葵ちゃんはなんかムービーみたらヌルヌルしたものが好きらしくて、とにかくヌルヌルしてました。色んな意味で。皐月さんは一見マトモというか正統派ヒロインぽいのですが、もっすごいムッツリらしく、色んな意味で楽しませてくれそうです。あと、どことはいいませんが揺れ方がスゴイですね。さすが3D技術やで……。

というわけでなんとなく楽しみな『たっち、しよっ!』。わくわくしながら待っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加   

ハッピーエンドとは何か ――ユーザーと作品世界

と、例の如く「~とは何か」という新書っぽいタイトルを掲げてみましたが、内容はエロゲーにおける「ハッピーエンド」の意味をもう少し考えてみよう、という程度です(エロゲーに限らないかもしれませんが、具体例がエロゲーしかないので)。そこから発展させて、作品の読みについて踏み込んでみたい。きっかけは、友人と『Fate/stay night』のセイバールートを巡って、あれはハッピーエンドかそうでないか、という議論になったこと。

言葉を正確に選ぶなら、ハッピーエンドでない(バッドエンドである)(※1)、というのは単純に悲劇のことを意味するとは限りません。悲劇というのは、社会的な、あるいは人生における破滅をそこで迎えるという客観的な判断基準があるのに対し、ハッピー(幸福)かそうでないかというのは、つまるところ主観の問題だからです。厳密なことを言えば、主観の問題としての幸福というのはそれこそアリストテレスの昔から扱われてきたことですし、悲劇というのはギリシャの演劇に由来する用語であって、それぞれもう少し細かい考証が必要だとは思うのですが、それを始めると議論が長くなって退屈なうえ、そちらのほうでツッコまれて身動きとれなくなる気がするので、ここは敢えて無視します。ひとまず、ハッピーというのは主観的なことだ、ということを確認したいと思います。
※1: 2012年7月9日追記:コメント欄GIMさんとのやりとりで、「ハッピーエンドというのは単純に悲劇のことを意味するとは限りません」というもともとの文がおかしな意味であることに気づいたので訂正しました。
さて、そうなると問題になるのは当然、「誰にとって」幸せなのかという、主体の問題です。え、エロゲーならユーザーにとってじゃないの? と思われるかもしれませんが、さにあらず。原理的には二通りが考えられます。そして、この部分の混乱が、多くの不毛な論争の火種になっているようにも思うのです。

まずは、私が考える二通りを提示しておきましょう。(1)ユーザーにとってハッピー(2)作中のキャラクターにとってハッピー、です。作品にとっての主体というのは、それを受け取る主体(ユーザー)と、行動する主体(キャラクター)の二人がいるのだから当然なのですが、エロゲーの場合、ユーザー=主人公のような等式で結ばれることが多い。そのせいで、この二つを分けて考える、という発想が、忘れられてはいなくとも希薄になっているように感じられます。

といっても、抽象的な話だけでは少々解りにくい。具体的に検討してみましょう。最初に挙げた、『Fate/stay night』のセイバーED。あれは(描写の形式はともかく事態としては)想い合う二人が別れる終わり方に数えて良いと思います。人によっては納得いかん、セイバーちゃんはシロウと一緒にいるのが良いんだ、と思うかもしれません。しかし、作品の描き方としては明らかに、二人の到達点はあの別れであり、二人の恋愛は別離によって完結した。キャラクターの主観に即せば、幸福と満足の最大瞬間風速が達成されたということになります。

もちろん、ああでない道を選んでいたら、別離の瞬間には及ばないまでも長い幸せが二人を包み込んでいたかもしれません。しかし、それはユーザーの考えであって、シロウとセイバーはそうではない道を選び、幸せになったわけです。彼らにとって最高の幸せは、あれしかなかった、そういうことを描いている作品なのだということは可能でしょう。

『Fate』の場合は、比較的ユーザーの視点とキャラクターの視点が重なりやすいとは思うのですが、これが『塵骸魔京』の「風の後ろを歩むもの」(名前です)ルートや、『ゆきうた』今井由紀ルートだとどうでしょうか。大切な何かと引き替えにしか二人で歩むことを選べなかった、風歩と克樹(塵骸)。また、祈りの代償をささげ、すべてを賭けて由紀に尽くした主人公(ゆきうた)。迎えるEDは儚く、破滅の気配を色濃く孕んでいて、ユーザーとしては手放しには喜べないかもしれない。けれど、作中の彼らはそこに満足している……。

私が言わんとしているのは、ユーザーの考える幸せと、作品内で描かれている幸せとが、「ズレ」る可能性がある、ということです。これが重なっていたら話はそんなにこんがらがらないし、多くのエロゲーは恋愛がテーマですから、概ね大きくはずれたりはしない。しかし、時々その辺を意図的にか無意識にか、微妙にはずしてくる作品があります。先ほど例に挙げた作品群のように。

そうすると、ユーザーの主観と作中のキャラクターの間に「ズレ」が生じます。ユーザーからみたら悲劇にしか見えないような状況の中で、懸命に生き、戦い、幸せであろうとしている。そういうキャラクターの姿に、切ない感動を覚える人もいれば、理不尽と怒りを感じる人もいるでしょう。ただいずれにしても、「ズレ」を感じているということ、自分が当たり前に考えている幸せとは何か違うものが描かれているかもしれないという可能性には、注意を払っておく必要があると思うのです。ユーザーである「私」の考えとは異なる別の幸せのかたちが、この世にはきっとたくさんあるのですから。

とはいえもちろん、納得がいかないものは納得がいかないわけで、それを無理に飲み込め、とは言いません。そんなことを言い出したら、全部鵜呑みで終わる。あらゆる作品に対して「これは作品ではこう描かれているから、自分とは違うけれどなかなか良い」としか言えないわけで、評価や批評を行う意味はなくなります。

しかし逆に、自分の持っている物差しでしか物語を測れないというのも、寂しいものでしょう。幸福の話からは少しはずれますが、かつて私の友人(冒頭の彼とは別です)が『忠臣蔵』を見て、「これはどう考えても傷害と殺人を犯した浅野内匠頭方が悪い」とマジで言うのを聞いて、私は、こいつアホなんじゃないかと思いました。このドラマ観るのに、そんな物差し持ち出してどうするんだ、と。しかし、似たようなことをやっている場合というのは(私も含めて)案外多いのではないでしょうか。自分の考える、納得できる幸せのかたちしか認められない、というのも、自分の尺度を押しつけるという意味で、その類の一つであるように思われます。

大学院時代、私の恩師がこういっていました。「本を読んで、自分の尺度でしか測らないのであれば、君はもう本を読まなくても良い。あとはずっと、何を読んでも君の物差しをあてはめる作業になるだけだから。本を読むというのは、そこに自分とは違う何かを見つけ、それによって自分が揺さぶられることなんだよ」と。それは、近代日本の小説を現代の風営法の観点からぶった切るという、恐ろしくチャレンジングな発表の後、発表者に対して投げた厳しくも優しい一言(私だったらコメントすらしなかったような気がします)でしたが、その通りだと思います。

本を――とりわけ物語を読むということは、物語世界を、あるいはその中の登場人物たちを自らにとって「他者」と見なし、そこで交流をはかること。私なりに言い換えると、そんな風になるでしょうか。だから、自分の考えが当てはまらないからといって、容易に怒ってはいけない。見捨ててもいけない。そこで描かれているものを慎重にとりだして、じっくりと味わってみる。もちろん「やっぱり口に合わない」と思うかもしれないし、「意外といけるな」と思えるかもしれません。けれど、そこに新しい世界が見えてくる可能性がある、と私は思います。だからこそ、物語を読むのは楽しい。

自分の好みにあうものだけを選別して収集する「物語コレクター」生活というのも私はやっていた時期があって、それはそれで気持ちの良いものでした。というか、エンターテインメントとしては自分にあったものだけ集めてスカッとする、というのは間違った選択ではない。でも、物語というのは単なるエンターテインメントで終わるものばかりではないはずです。そのことに気づいた今の方が(今もその陥穽から抜け出せたと自信を持っては言えませんが、すくなくとも抜けだそうとしている今のほうが)物語のいろいろな側面を楽しめているな、という気はしています。

ハッピーエンドとは何か、という問いから少し遠いところへ来た気もしますが、それほど隔たった話をしているつもりもありません。『EXTRAVAGANZA ~蟲愛でる少女~』のような物語に描かれている「ハッピーエンド」を味わうには、いま述べてきたような発想が必要だと思うからです。

標語的に言い直せば要するに、作品で描かれているものと、自分の持っている枠組みとの双方に自覚的であれ、という感じになるでしょうか。何だかとても偉そうで気が引けますが、物語を読むと言うことは、そうやって相手と自分の双方に目を配ることなのだと最近は考えています。だから、ストレートにズドンと来る話も良いのですが、何か引っかかる、ズレを感じる、そういう時こそ慎重に物語を読みたい。

もちろん、先にも述べた通り、全部を受け入れられるわけではないし、良くも悪くも過剰な思いを入れて読んでしまうこともあります。そんなときは、他の方の感想・批評なんかを読む。そうすると、しっかりした批評だと「なるほどなー」と思うことがあります。ただ、ちゃんとした論説になっているものが解りやすいのは当然として、思いの丈をぶちまけたものも、それを読むことで自分とは違う考えの人が何に心動かされたのか、はっきりと伝わってきて面白い。そっちのほうが解りやすいこともある。

だから私も、そんなふうに違う意見の人が読んで賛成はしなくても納得してもらえるような感想やレビューを書きたいと思っているのですが、これはまあ、なかなか難しいですね。修行あるのみ。

と、思ったより長くなってしまったのでこれで終わりに致します。本当はもっと違う話にするつもりだったのに(こういうの言わなきゃいいのにね!)、脱線して変なところに着地してしまった……。本当は、作中人物にとっての幸せとは何かを考えるつもりで、読む側の問題にするつもりは無かったのですが、書いているうちに無理を悟って……。無計画ここにきわまれり。ばしっと着地点を決めて、すらすらと文章の流れを構築できる人が羨ましいです、ホント。

そちらの話も気が向いたらまた、もしかしたらやるかもしれません。今回は久々の方法論の話だったということで。それではまた。

このエントリーをはてなブックマークに追加   

でっかい箱が届いた話

先日、ちょうどバレンタインの日ですね。帰宅後エロゲーを起動してしばらくした頃、唐突にインターフォンが鳴りました。どうせ宗教か新聞勧誘だろうと思いつつも覗き穴から見たところ、なんか、でかい箱を抱えた宅配のおいちゃんが立っています。

今年はAmazon先生でチョコを発注してバレンタインに受け取るという作業を忘れておりましたので、チョコが届くはずもない。訝りながらも外に出て発注先も確かめず、サイン。荷物を受け取ろうとしたところ、おいちゃんが「あ、重いので気を付けてくださいね」とのこと。しかし、縦長の筒で、どう見ても金属とか入っていそうにありません。はいはい、と適当に返事をして受け取ったところ、体ががくんと傾きました。

重たっ……!

何入ってるんだよこれ、と驚きましたが、持てない程の重さではなかったので抱えて部屋へ。ただでも手狭でものが一杯の部屋に、どでかい段ボール箱がでーんと鎮座します。

92e156cc.jpg

こんな感じの大きな箱でした。

はて、発送先は、と確認すると、「アスキー・メディアワークス」の名前。あれ、どっかで見たような……。ああ、なるほど、電撃文庫さんとかのところですね。しかし、一体何ごとか。重量5kgと書いてあり(実際はもう少し軽かった気がします)ますが、そんなものが届く覚えが全く無い。ただ、毎月読書カード送ったり、フェアの抽選に申し込んだりしていたので、何か景品が当選したのだろう、と開けてみました。

すると、中身は驚いたことに、紙。というか紙束。棒状に丸められた大量の紙束が中にぎっしりとつまっていました。世間でポスターと呼ばれているものだ、と気づくのに30秒ほどかかったでしょうか。事態を認識してようやく、これが何か判りました。

2011年8月10日~10月31日まで行われていた、「電撃文庫ぶっちぎり!メディアジャック!!フェア」の応募企画だった、読者プレゼントの賞品、「著者直筆サイン入りぶっちぎりポスター9枚セット」がどうやら当選した模様。って、特賞じゃないですか! 当時結構電撃で読みたい小説が目白押しで、トータル15冊くらい買ったので複数口応募したのですが、まさか当選するとは思っていなかったので、すっかりわすれておりました……。

サインポスターは、『アクセル・ワールド』、『新訳 とある魔術の禁書目録』、『デュラララ!!』、『ゴールデンタイム』、『境界線上のホライゾン』、『さくら荘のペットな彼女』、『ロウキューブ』、『シーキューブ』、『神様のメモ帳』。ほとんど全部読んでました。嬉しいなあ!! 特に『アクセル』は大ファンなので嬉しさ炸裂。小躍りして喜んだ……のですが、何か引っかかることが。

そう、ポスターにしてはこれ、サイズが異常にでかいのです。てか、ポスター9枚で5kgってどう考えても変。どんな大きさなのかと取り出してみて、笑ってしまいました。

6a9f86f0.jpg

ごらんよこのサイズ。

となりにちっこく見えているのは、サイズ比較のためにおいた、『文学少女』の文庫本(電撃さんからいただいたプレゼントなのに、他社さんの文庫を並べるあたりが良い度胸してます)。遠子先輩がパンツくらいのサイズになってしまっています。いやちょっとでかすぎでしょう。嬉しいけど、嬉しいんですけど、どうやって飾ればいいのこれ……。

とまあ、そんなわけで折角頂いた賞品なのですが、現状飾る目処が立たず、汚すのも嫌なので再び段ボールの中に逆戻りして、押入でひっそりと鎮座しています。なんとか飾るなりしたいとは思うものの、普通のポスターカバーには絶対入らないし、ホントにどうしましょう。とりあえず、最悪これを飾るために引っ越すという選択肢も視野に入れつつ、こういうの詳しい人に聞いてみます……。

そういえば最近、ラノベやエロゲー関係で割と景品が当たるのですが、何でしょうね。これまでくじ運良かったことも無いので、急にモテ期が来た説は余り信じられない……。当選人数が多いものや、マイナーな作品を選んで送っているというのはあったのですが、これだけメジャーなのも当たるとなると、本格的に宝くじかロトあたり買うことを検討しようかな。

最後になりましたが、電撃文庫さん、いつも楽しい作品を世に送って頂きありがとうございます。これからも楽しみに読ませて頂きます。

というわけで、今回はほとんど自慢。失礼いたしました。

このエントリーをはてなブックマークに追加   

お返事:『NG恋』の議論について

feeさん、ブログでのお返事ありがとうございました。的確なご回答とご質問で、私自身の考えもより深まったように思います。私自身の考えは、この記事の一つ前に書かせていただきました。ただ、そちらは非常に長くわかりにくくなってしまったので、お時間があればお読みいただければ、というくらいで……。

こちらでは簡単にではありますが、頂いたご回答に対し、要点を再度お返事します(また文字数制限に引っかかったのですみません……)。

>理の変化
かつて麻実との関係がそうだったような、お互い踏み込まず傷つけ合わない「楽」な関係ではなく、感情のままに誰かを愛することができるようになった、ということだと思います。米が、愛の比喩でしょうか。理は理性で測れるような愛しか受け容れられなかった、ということのように思います。この辺は私のブログのほうに詳述しました。ご隠居との対応でいえば、麻実ルートにおいては子供への愛と恋人への愛はともに「命がけ」のものと扱われているので、子供-恋人という二項対立自体が無効だと思います。むしろ、理知的な愛と感情的な愛という対立ではないかと。

>理の弱点
弱点については全面的におかしいと気づきました。ありがとうございます! 確かに理が相手の気持ちが分からないというのはEDでも解消されていません。ただ、麻実ルートにおいては弱気や受身・無理解は本質的に問題として扱われていない、という立場に変更したと表明しておきます(そのうえで、実はそれだけで全てが解決したのではないか、とfeeさんが主張されることは理解しているつもりです)。麻実ルートで焦点化されている理の問題は、傷つくことをも厭わないような命がけの愛を誰かに注ぐことができない、理屈で考えられる範囲の感情で止まってしまうというところにあるのでしょう。

>麻実の問題
直接的には、麻実は「理と一緒にいたいから」結婚するのか、「理に子供が必要だから」結婚するのか、どちらがメインなのか、ということを言ったつもりでした。理に子供が必要だから結婚するというのなら、その役目は麻実で無くても良い(だから身をひくという決断ができる)ということになります。ロジカルにはそうでしょう。でも、麻実はその役目が自分でありたい、なければならないと思っていたのではないのでしょうか。その麻実の想いは、どこへ言ってしまったのかと。

ブログで書いた記事を踏まえてもう少し突っ込むと、ここでの問題は麻実の「自分」がなくなっているということです。「理に子供が必要」というのは、あくまで「麻実が望む理」にとって必要だったはずなのに、いつのまにか「麻実が望む」の部分が取り払われてしまった。極論、麻実がいなくなれば理に子供は必要ではないかもしれないわけです。なのに、理のためにならないから、と麻実は別れることを選んだ。これは本末転倒というか、麻実が自分のあり方を見失っている。

>『理のため』はすなわち、『理を優先しないと気が済まない、麻実自身の気持ちのため』か
feeさんが「一番、僕の考えと違う部分」と仰るこの箇所。確かに作品を読み込むとfeeさんのように考えるのも当然に思います。ただ、私が言いたいのは少し違っています。上とも関係しますが、麻実の考える理にとっての必要なことというのは、全て「麻実がのぞむ理」という留保がついていました。だから、麻実と別れたら(作品内の原理に忠実に読めば)理にとってそのことは必要ではなくなる可能性もある、ということです。つまり、麻実は理と一緒にいたいという麻実自身の想いがあって、その後で理の改造という手段がでてきたのに、いつの間にか理の改造自体が目標になって、麻実自身の想いという前提がどこかに行ってしまった。手段と目的がひっくりかえった、ということを言ったつもりでした。「役目」という言葉を盛んに口にして別れの理由を語る麻実は、「役目」にばかり目を奪われて、その「役目」が必要になった本当の理由を見失っているのではないかということです。

>ディスコミュニケーション
これは私の書き方が悪かったです。すみません。まず、ここでコミュニケーションの量が問われていないことは恐らく明らかです。問われているのは質のほうですね。では、どんな意味の質なのか。feeさんは、【相手に確認することをせず】とおっしゃったうえで、解決として「理がきちんと気持ちを伝えれば」とされていますが、私見ではこれは二つの要素が混ざっているように思います。どういうことかというと、相手の気持ちを確認するということと、自分の気持ちを伝えるという二つのことです。

麻実は、「でも本当のことを言ったらあなたは別れてくれなかったでしょう?」と言います。つまり、たとえ理が聞いたとしても、答えなかった可能性がある。feeさんが仰るように、エスパー超人でも無い限り、相手の気持ちを理解するなんて不可能です。だからここでは、コミュニケーションにおける相手への理解は問われていない、と私は考えました。そのうえで、問われているのは自分の気持ちをきちんと伝えられるかどうかではないか、と。まさに、独りよがりでもなんでも、自分の本気を相手に伝える。それが断られたら、自分は凄く傷つくかもしれないけれど(だから、傷つくのが怖くて理はプロポーズできない、ということでしょう)、相手から受け容れられるかどうかなど関係なく、とにかく相手を想う。そういう愛が、「命がけの」愛として求められていたのではないでしょうか。

だからその意味では、自分からプロポーズしない理も、「理のため」と言いもって自分の想いの優先順位を下げてしまった麻実も、ここで求められるコミュニケーションの条件を満たしていない、という風に考えました。

というわけで、作品としては相手の気持ちが分かる/分からないということはそもそも問題になっていないのではないか、というのが私の主張です。むしろ自分の感情の出し方こそが問題である、と。

おそらく件の「ななしさん」の「ちゃんと書いてある」というのも、feeさんが指摘されているものではない理由がちゃんと書かれている(それでこの作品は説明できる)、と仰っていたのではないか。そしてfeeさんはそれは承知のうえで、書かれてはいないけれどこの問題は、相手の気持ちを理解していたら解決していたのではないか、むしろそれ以外に本質的な解決などありえないのではないか(だから不満だ)と仰っているように思いました。

つまり、「ななしさん」との齟齬は、作品の読み取りそのものよりもむしろ、作品の読みの消化の段階で生じているように見うけられました。ただ、早急にfeeさんが自分のご意見に飛んでいるように見えるため、「あのこともこのことも書いてあると思うけど、それをスルーして作品が不足だというのはアンフェアだ」(テキストをちゃんと読めば)みたいな発言になったのではないかと、これはもう勝手に推測したのですが、その辺は既にfeeさんご自身が「ななしさんの仰るとおり、『理が短所(の1つ)を克服した』という物語ではあるのですが、僕には『より大きな短所を放置したままエンディングを迎えてしまった』ように映るのです。」と書いておられましたね……。失礼しました。

ともあれ私自身としては、「相手の気持ち」には言及しなくてもこの作品は完結しているし、むしろ相手の気持ちを分かりましょう、という結論にならなかったところにこのルートの意味がある(二人が並んで歩くというのは、自分をさらけ出してぶつけ合うことだ、という結論に帰着した)と思います。「告白」というのは、相手の気持ちや周囲の状況を考えて行うものではない、というのが、最後の街中ど真ん中でのキスに象徴されているのではないかな、と。おめでたいといえばおめでたい考えですが。

加えて、feeさんの「相手の気持ち」路線でもこの作品は読み解ける(穂香への告白が駄目というのは、穂香の気持ちを考えていなかったからだ、と言える)のではないかとも思っています。ただ、途中経過を考えると私自身はそこに落ち着けないかなというくらいで。なので、feeさんのご感想は私とは違った部分で筋の通ったものとして大変興味深く拝読しましたし、こうして考えを交換する機会をいただけたことをとても嬉しく思っています。ありがとうございました。

長くなりましたがそんなところです! お騒がせ致しました。


このエントリーをはてなブックマークに追加   

レビュー:『世界でいちばんNGな恋』麻実ルートについて

先日、@fee1109さんのブログ「止まり木に羽根を休めて」で『NG恋』の麻実ルートについて興味深い議論が展開されており、私も首を突っ込んだところ、非常に丁寧な返答をいただきました。詳細はこちら

で、私自身色々考えるところがあり、軌道修正の必要もあるなあと思ったのですが、feeさんのブログ、字数制限でコメント、800文字しか書けないんですよね! さすがに長文を何度も投稿するのは向かないしお目汚しかとも思い、麻実ルート全体に対する私自身の考えは、自ブログで展開することにしました。『NG恋』のレビューはこれまで一度も書いたことがなかったので、ちょっとトライしてみたいということもあり……。

feeさんのご回答に対する直接のレスポンスにはなっていない部分もありますし、感想というよりは、麻実ルートで言われていたことを作品に即して取り出そうという試みで終わっている感じはするのですが、考えていて麻実ルートはそうとう複雑(悪く言えば解りにくい)レトリックやら人間関係が絡まっているので、それを確認する助けになればと思います。

一応事前の防衛線として(マジノラインばりに微妙かもしれませんが)、感想を拝読した限りで感じられたfeeさんとの立場の違いを明示しておくと、feeさんは理と麻実の関係を読んだ上で評価をしようとしておられる(ピンと来ない、こうしていれば良かった等)のに対し、私は読解で手一杯という感じです。物語を読み、楽しむ姿勢としてはfeeさんに一日の長という感じでしょうか。

ただ、そのぶん読みの違っている部分は明示できているのではないかなとも思いますので、ご関心のあるかたはfeeさんの感想やそれにまつわる議論などもご覧になって、いろいろと考えていただければ楽しいかも知れません。そういう素材の一つになるといいなあと祈っています。

▼なぜ麻実は理と離婚したか
「子供ができたかもしれない」ということで理は母に報告をしました。そこで、「誰の力も借りず、一人前にしてみせる」と啖呵を切った。けれど、子供ができていなかったと聞いて、理は気落ちします。ただ、その気落ちを麻実には見せないようにしようと、仕事に打ち込むようになる。理はそのときのきもちを、こう回想していました。
『できてなかった』と伝えられたとき、僕は『そうなんだ』と、普通に答えることができたと思ってた。でもそれは、間違いだった。『普通に答えられた』のが正解だと思うこと自体が間違いだったんだ。あれだけ嬉しそうに可能性を語った麻実こそが、あの時一番苦しんでいたのは誰にでも予想できたのに。自分が落ち込んでいないことを示してほっとして、相手が自分と同じ態度を取っているなんて思いもよらなくて。

そのことが、麻実には秘かな重荷となっていました。「傍目には気づかれないくらいの小さな変化かもしれないけれど、一緒に暮らしてる人間には、その気の使われ方が、痛かった」。そのように、麻実は当時を振り返ります。その発言を受けて理は、「僕がそのことに気づいてれば…少なくとも、麻実に悩みがあるって気づいてれば…」と呟く。それに対し麻実は、次のように切り返します。
無理なのよ、理には…そういうことわからないの。そんな理だからこそ、子供が必要だって思ったんだもの。一緒に育てようって決心したんだもの。

そして、麻実が理と離婚をした理由が告げられるのです。
だからもう、ああ、これは駄目だって思ったの。わたしといると理は、わたしの目指した理にならないなって。公約、守れなくなっちゃったなって。

さて、この理由はあくまでも麻実が語ったものですから、そのまま鵜呑みにして良いかどうかという疑問はありますし、またユーザーにとって納得いくものであるか、ということも問題です。ただ、そういったことをひとまず措いて麻実の視点にたてば、離婚した理由は二つ挙げられている。

ひとつは、子供を作れないことで理を導くことができない。もうひとつは、子供ができないことで理に気を使われるのがつらいということです。二つ目のほうはあえて単純化しましたが、子供ができずに落ち込む理を見ているのが辛いとか、そういう要素もあるでしょう。要するに、《理を変えることができない》のと、《自分が理の側にいるのがつらい》という二つの要素がある、ということだけ押さえれば良いかと思われます。ただ、後者はほとんど語られることがなく(上でもはっきりとは語られていません)、そのことが後々の問題に繋がっていきます。

一方、理の側からは離婚の経緯が次のように語られています。
『教師になりたい』という、子供の頃からの夢をふたたび追い求めるために、彼女は、僕を、捨てたのだから

麻実は理といることよりも彼女の夢を取った、というふうに理は考えています。だから理の側からすれば麻実に捨てられた、ということになるのですが、これは逆に言えば、理より優先度の高い目標ができたというだけで、理が嫌われたということではありません(少なくとも理は嫌われたかどうか分からないと思っている)。だから理は、「僕は、2年前から麻実の気持ちを見失ったままだから」と言うし、麻実が離婚した理由を語ったあとも、次のようにコメントします。
人生を賭けて、僕を導いてくれるはずだった麻実は…僕のための、一番大切な教材が自分に欠けていることに気づいたとき、その役目を降りた。(中略)麻実の伝えるのは事実だけ。自分が、その教職に居続けたかったのか、それとも離れたがっていたのか…そんな『真実』は、語らない。

「だって君はあの時、僕の願いを何も聞き入れてくれなかっただろ」と語っていることからも分かるとおり、理は麻実に未練があったというか、理自身の希望としては麻実と一緒にいたかったということは間違いない。ただ、麻実自身がそれを望まないならという理性的判断で別れた、ということのようです。

しかし、ここでひとつ大きな食い違いが発生しているように思います。理はわりと単純に、好きだから一緒にいたいと考えているのに対し、麻実は何か強烈な義務感のようなものを結婚に見ている節がある、ということです。それは麻実自身が自分を理の教師と位置づけている(「教師になりたいってのは本当に学生時代からの夢だったし。…導く相手が、一時期だけ、たった一人の大人に変わったけど」)ことなどから端的に読み取れるでしょう。

というわけで少し時間を遡り、そもそも何故このふたりが結婚したか、というところを見ることにします。

▼なぜ麻実と理は結婚したか
過去のエピソードから語られるのは(骨折した理に麻実が添い寝しているとき)、麻実が理に惚れてアプローチを仕掛けたことと、理のほうも満更ではなかったということです。つまり、二人のなれそめには子供がどうとか、家庭がどうとかいう話は無かった。それが変化するのは、麻実が理の「異常さ」に気づいた時からです。
でもね、いつからなのかな…あなたの寂しさとか、脆さとか、危うさとか、だんだん見えてきて。あなたのことが、気になって、気になって…ただ好きでいるだけじゃ駄目だって

そうして麻実は、「家庭を持って、子供を産んで、育てて…そうしたら、理は普通に子供好きの、わたしが望むお父さんになれるかなって」と考え、理にプロポーズをしました。もの凄く巧いというか、考えられているなと思うのは、ここにスルッと「わたしが望む」という一言が差し挟まれているところです。「わたしといると理は、わたしの目指した理にならない」もそうですが、理がいまのままではいけないというのは、いわば麻実のエゴ(別にそのままの理でも良い、という女性はいっぱいいた)だったということがちらっと顔を覗かせています。

さて、ともあれ麻実は理にプロポーズする。その言葉は、「大丈夫、結婚なんて怖くない! わたしが理を幸せにしてあげるから!」だったそうです。これまたスゴイ台詞ですね。ただ、「結婚なんて怖くない」という結婚に対する否定的な意味づけであるとか、「家庭を持つことの意味を、どうしても見つけられなくて」という理の述懐から察するに、理自身は結婚に反対、あるいは少なくとも乗り気ではなかったのでしょう。
麻実が、教えてくれるって言ったんだ。家庭を構えて、子供を愛して、家族のために働く幸せを。そんな嬉しさや楽しさに包まれた未来を。だから、結婚なんか怖くないって。『安心して私をお嫁に貰って』って…。

ここからうかがえるのは、理にとっては麻実と一緒にいられるだけで良かった。けれど麻実は、結婚するということに、家庭をもつということにこだわった、ということです(「ただ好きでいるだけじゃ駄目」)。麻実にとって(あるいは理にとっても)、結婚というのは恋愛以上に重要な意味をもつ何ごとかであった。そして麻実は、理のために結婚した、と言い張ります。だから、自分の「役目」が果たせなくなった時に、別れるしかなかったのだ、と。「わたしは今でも、あの時の判断はただしかったって信じてる」と言う麻美は、まさに感情ではなく理性で「判断」して、結婚も離婚も決めたのだ、と口にし続けるわけです。

▼ふたたび、離婚の理由
しかし、そこで忘れられているのは、麻実の「わたし」の部分。「わたしの目指した理」、「わたしが望む」という部分です。麻実は、自分のために、自分の望む理に変えようとしていたはずです(もちろんそれが、理にとってベストだと信じているからですが)。しかしそれが、いつの間にか単純に「理のため」とすり替わってしまいます。トコとのバトルになったとき、麻実は「理には、命をかけて愛情を注ぐ対象が必要なのよ」と言う。けれど、それは端的に理にとって必要なのではなく、麻実が望む理にとって必要なはずです。別の言い方をすれば、麻実と一緒にいないのであれば、子供がどうこうという問題は出てこないかも知れない(他のヒロインのルートがそうであるように)わけです。

だから、「わたしのワガママで、理の人生を狂わせる訳にはいかないわよ。子供の産めない女なんて、彼には重荷でしかない…」という麻実の言葉は、決定的にポイントを外している。子供ができないことで狂うのは、理の人生ではなく、麻実の(正確には、理と一緒に添い遂げたいと願う麻実の)人生です。その点を、他の各ヒロインから責められる場面が、はっきりとではありませんが描かれています。

「自分の男の子供なら、あたしの子供じゃなくても愛せるよ」という夏夜は、本当に理のために子供が必要だと思っているなら、自分を殺しても良いじゃないかと言っています(結局センセのワガママだよね、みたいな発言をします)。二号でも良い、と言い切る夏夜らしい発言でしょう。一方、「一人よりも二人って思うのはいけないことなのかしら? 三人になれないなら一人って、なんだか寂しい…」という姫緒。彼女の場合は、恋愛という二人関係で収束してはいけないのか、恋愛というのは終局、当事者二人の問題に帰着するのではないか、と言っているわけです。この辺は各キャラの恋愛観が表れていて、それぞれのルートにも反映されているので面白いところですね。

そして、麻実に対して最も苛烈に攻撃を加えるのが、三角関係の頂点の一つ、トコ。彼女は、「理にとって」という看板を掲げる麻実の「欺瞞」に、鋭く切り込みます。
先生は、自分で選んだ道に理くんを連れて行かなかった…理くんと一緒に歩くのをやめたのに、後悔してないって言った。好きならどうして一生懸命考えなかったの! 理くんと別れない方法、考えなかったのっ!?

麻実は、理のことがまだ好きだという。けれど、理と歩くことを放棄したのは、他ならぬ麻実自身ではないか、とトコは言います。麻実はもちろん、反論する。あのまま麻実といても、理にとっては良いことがなかったのだ、と。けれどそれに対してトコは決定打を放ちます。
それ理くんの問題じゃん。やっぱ先生関係ないじゃん

まさにその通り、理にとって良いか悪いかを決めるのは、麻実ではなく理です。麻実は、「理」ではなく「わたしが望む理」のために行動している。お前は、相手を幸せにしたいのか、自分が幸せになりたいのか、どっちなんだ、とトコは迫っているわけです。

恐らくこの部分は、トコが理に想いを告げる部分、麻実と自分の立場の違い、考える愛のあり方の違いをはっきり述べる部分と重なっています。
先生みたいに、一緒に幸せを目指そうなんて、あたしには言えないけど、あたしが幸せになることで、理くんを幸せにしてあげられたら、嬉しいな

麻実は、一緒に幸せになりたい。トコは、自分が幸せになりたい。姫緒も、夏夜も、それぞれに願いの形が異なるわけです。麻実にとって、理が「わがしが望む理」になれないのであれば、理はともかく、自分が幸せになれない。だから、別れるしかなかった(別れよう、という話をしても理がそのことを理解してくれなかった時点で、望みはなかった)ということなのでしょう。

▼麻実の望む理
ところが、再会した理はトコによって、だいぶチューンアップ(笑)されていました。「わたしは、理のこと、変えられなかった。」けれど、トコはそんな理を変えていた。それは表面的にはご飯がたべられるようになるという形であらわれています。ただまあ、お米云々は本質的な問題ではなく、何かの象徴である、ということは、はっきりしています。では、何の象徴か。作中では、直接の原因は家政婦の作るまずいご飯を食べたせいだと言われていました。それが転じて、「家族の愛を知らない」のが原因で米を食べられない、とされているので、そういうことなのでしょう。しかしこれではまだ、具体的にどういうことなのか、よくわかりません。

つまり、家政婦の悪意を受け止めたとか、虐待されたとか、過剰な愛情を注がれて気持ち悪くなったとか、そういう書かれ方はしていないわけです。ただ、麻実や理の発言からうかがえるのは(「彼、親に愛されないで育ったから」など)、米というのが「愛情」の比喩で、家政婦からまったく愛情の無い、米「のような」食べ物を食べさせられたせいで、理は「愛情」というのを受け容れられない/誰かに与えることもできない、そういう人間になった、というのが、作品の読みとしては妥当な気がします。

とはいえ、現実問題として理は麻実と結婚するところまでいっているし、愛を知らない完全な欠陥人間というわけでもない。事実、終盤、理に告白され抱き留められた麻実は次のように言います。
あなたはまだちっとも治ってない。人を愛するやり方を、一つしか知らない。

少なくとも一つは、人を愛す方法をしっているわけです。では、それは何か。

この直前、「僕はもう大丈夫」といった理に対し、麻実はトコの愛情を理が受け止めそこなっていることを指摘し、「だったらどうしてあの娘は泣いてるのよ? あなたへの『好き』の意味を取り違えるのよ?」と詰っています。理に対する麻実の非難は明快で、異性として理を見ているトコに対し、理はトコを「友人」として扱おうとしている、ということでしょう(最初はそういうことで二人の関係がはじまっていますし、この時点で、麻実はトコの「娘」宣言を知りません)。つまり理は、「友人」的な愛し方しか知らない、ということです。では、「友人」と「異性」の愛の違いとは何なのか。一般的には色々な言われ方がしますが、本作で描かれている麻実に即して言えば、それは想いの深さ、ないしは距離感ということになると思われます。

麻実にとって、親子の愛と恋人の愛というのは、「家族への愛」としてほぼ同列に扱われています(これが夏夜や姫緒の場合は違っています)。麻実にとっての「家族への愛」というのは、「命をかけて愛情を注ぐ」という、そのことに尽きるようです。つまり、全霊をかけて誰かを愛する、あるいはその愛を受け容れるということが、麻実の考える最高の恋愛であり、最高の家族、ということでしょう。それは、「命をかけて」という言葉のとおり、相手と自分の心の距離がゼロになって、一体化するような、そういう愛です。

ところが、結婚時代、理と麻実の関係はそうではなかった。麻実は理の言いたいことを適度に察して踏み込まず、理もまた麻実の考えを察して微妙な距離をとり続けていた。だから、理は麻実とのかつての関係を、「楽」だと表現します(お互い言いたいことを理解したうえでわざとごまかしあう関係について、「ああ、僕はこんなにも“楽”な女性と別れてしまったんだな」のような発言がありました)。

けれど、物語が進むにつれ、次第に理はその距離に満足できなくなります。麻実とのセックスを終えて、「身体は繋がっているのに、心はどうして一つにならないのか」と理は嘆く。つまり、理は二人の間にあった心の距離を、心地よい「楽」さを与えてくれていた距離を、詰めたいと思うようになってきたわけです。

距離をとった「楽」な愛し方というのは、非常に理性的で、互いを傷つけない愛し方です。ただ、それは麻実が望むような、「命がけ」の愛ではない。本当に命をかけて愛するなら、傷つくことも辛いこともあるでしょう。それでも相手と共にいたいと思い、親が子にそうするように、究極的には(理念としては)命を捧げてもその相手を想い続けるという、理性では測れないような愛し方こそが、麻実の望む愛です。

「理性的」という言葉をだしましたが、これは理というキャラの本質だと私は考えています。というのも、理という人物は非常にアンバランスな人として描かれています。まず、自分のことについては極端に無頓着。だから、いいように会社に利用される。しかし、他人のこと、しかも理性的なことについては非常に能力が高い。仕事はバッチリできるわけです。ただし、感情的なこと、とりわけ女性のことについてはサッパリ。「理」という名前に象徴されるように、ロジカルなことはきちんとできるけれど、感情的なことはどうにも苦手だ、というのが理の類型です。だから理は、色恋でも何でも、一応理(ことわり)によって「わりきって」しまう。麻実との離婚も、穂香への恋心もそうです。

はじめ私は、理の「変化」というのを、麻実に自分から告白することなのだ、と考えていました。そのことが持つ意味は少なくないはずですが、実はそれだけなら、穂香に告白しようとしていたOP時点で理は条件をクリアしていることになります。だから多分、理の「変化」の本質はそこではない。じゃあどこかと考えると、麻実のために松本先生に殴りかかった、あの場面ではないかな、と。

麻実が言うとおり、理は「一度だって喧嘩なんかしたことがない」。そんな理が、はじめて理性を振り切って喧嘩をしようとしたわけです。麻実のために。やれば負けるに決まっているし、公衆の面前でそんな喧嘩をするなんて、どう考えてもアウト、下手をすれば警察沙汰でしょう。にもかかわらず、理はその想いを押さえきれなかった。恋愛と想いのベクトルは違いますが、内容としてはそれほど変わらないように思います。

終盤、麻実に対してまだ迷いを見せる理は言います。「僕が一つの決断をすることで、僕の好きな人たちの人生に影響を与えてしまうのが、怖い」と。これは、やはりまだ理性的な判断を働かせているということでもある。しかし、それを振り切って最後、理は麻実に告白する。「それでも麻実…僕は、麻実と、もう一度歩いてみたい」。理性的な判断のすべてを「それでも」という一言で置き去りにして、それこそ「命がけ」で麻実を求めに行ったわけです。だから麻実は、「あなたが…あなたが…っ、今まで一度だって、今日みたいにわたしを口説いてくれてたら…そしたら、わたしたちぃ…っ、二度も、結婚すること…なかったのよぉ…っ」と涙を流し、理を受け容れます。子供がいなくても、理は誰かを愛することができる、もう理は大丈夫だと思ったから。

▼理と麻実
以上は、主に麻実の視点から物語を確認してきましたが、最後に麻実自身の態度についても少し確認しておきましょう。何度も言われているように、理の側からすれば、麻実が理に悩みを打ち明けてくれなかったことが、大きな問題になっているからです。特に終盤、理から「シカト」を喰らった麻実が電話で、表示されるテキスト(文章)とは全く違う、うわべだけ平気に見せかける言葉を喋る(音声では「いいのよ理」みたいなことを喋りながら、文章では不満を爆発させている)シーン。私はあの場面がすごく好きなのですが、まさにあそこにこそ、麻実の本質が出ていると言えるかも知れません。

麻実は、理を想い、理を傷つけないように振る舞います。理の前でだけ良い格好をするというのも、さまざまな理由はあるでしょうが、究極的にはそこに(理に負担をかけない)落ち着くように思われます。ただ、そのことを麻実自身、自分の限界として理解している節がある。トコの料理を食べる理を見たとき、「わたしは…(中略)…あなたが嫌な思いをしない食事を作るので精一杯だった」と打ちのめされたのも、そのせいでしょう。麻実もまた、恐らくは頭が良すぎるがゆえに、愛するということにブレーキをかけてしまっているわけです。

麻実自身の考える「命がけの愛」を適用するなら、麻実もまた、なりふり構わず本音をぶちまければよかった。トコに一喝されたとおり、かっこつけてる場合じゃないだろう、ということになります。麻実は、理のためを優先しすぎて、それが自分の望みから来ているということを忘れてしまいました。理が「命がけの愛」を知らなければならないのは、麻実と「一緒に」幸せを実現するためだったはずです。それなのに、麻実と別れてしまったら本末転倒もいいところ。大前提をとっぱらって結果だけ残っても、何の意味もありません。

「わたしは駄目なんだってば…理のこと、幸せにできないから、だから…」という麻実に、理は言います。それならまだ自分にも(麻実に振り向いてもらう)希望はあるのではないか、なぜなら麻実は、「僕のためだけに、僕と離れることを選んだ」のだから、と。「僕のためだけに」と理は正確に見抜いています。ここには、「麻実自身のため」というのがすっぽりと抜け落ちている。麻実自身の主体性が、どこにも存在しなくなっているわけです。その意味で、麻実は迷走している。

本当なら、麻実も辛かったはずです。最初に述べたように、別れた理由のひとつには《自分が理の側にいるのがつらい》という思いがあったのですから。ところがその麻実自身の痛みを、麻実は語ることがない。言い方は悪いですが、全部「理のため」という錦の御旗におしつけてしまいます。ほんとうなら、「理のため」というその望みも、「麻実自身のため」というのとセットだったはずなのに、そのセットが分解されてしまった。話がややこしくなるのも必然でしょう。

これが夏夜であれば、自分の主体性なぞクソ食らえで理の幸せに尽くせたのかもしれません。しかしそれなら夏夜自身が言っていたように、別の解決があった。ここまで話がこじれたのは、麻実があくまでも理と「一緒に」幸せになることにこだわったからであり、そしてその目標から途中で、自分自身の幸せをドロップアウトさせたからに他なりません。くり返しますが、「やっぱ先生関係ないじゃん。」というトコの叫びは、そこを見事に衝いている。しかし、そんな風に指摘されても、麻実は自分の考えを変えなかった。さすがは二十七歳バツイチのキャリアウーマンと言うべきか、しっかりした自分が固まってしまっているわけですね。

そこで、理は一計を案じる。それが、麻実をとことんまで追い込んで、素の自分をさらけ出して貰おうというラストの企画だったわけです。この企画が妥当な内容であったかどうか(つまり、物語の必然から導かれる、これしかないという最良の方法であったかどうか)は分かりません。ただ、理が変わったというだけでは二人の関係は変化しなかったし、麻実に彼女の欠点を指摘するだけでも駄目だった。もっと荒療治が必要だということで、麻実の理性をぶちこわしにかかった仕掛けである、ということは言えるだろうと思います。

▼まとめにかえて ――恋愛のコミュニケーション
最後におおざっぱにではありますが、麻実ルートを振り返ってみます。

離婚の理由。これは、麻実の視点に立てば、理が「命がけの」愛情を受け容れられないし、注ぐこともできない人間だったから。ただ、それはもともと折り込み済みだったはずで、この時点で理にそれを理解しておくべきだった、というのはやや酷な気がします。それができるくらいなら、トコの出番は無かった。ですから作品に即していえば、問題はむしろ麻実に帰するように思われます。ここまでで見てきたように、麻実が自分の「望み」のあり方を、つまり「一緒に幸せになる」というあり方を見失ったことが、二人の関係を破綻に導いたのだ、ということです。

もちろん麻実自身は不妊症発覚によって絶大なショックをうけており、麻実が悪い、とはとても言えない。ここで理が麻実をきちんとフォローしておくべきだった、ということも一応は可能です。けれど、たら・ればの話をしても仕方在りません。当時の理はそういうことができない人間であり、また麻実もショックで自分を見失ってしまった。そうしてボタンを掛け違えてしまったということが作中の事実であり、そこから麻実ルートは、「二人で一緒に歩む」とはどういうことか、再度問い直しているのだと言えます。

最終的には、理が互いに傷つけ合わない「理性的」で「楽」な愛情だけではなく、傷つけ合うことも厭わない、「感情的」で「命がけの」愛を(誰かに迷惑をかけることも厭わない、わがままな愛と言っても良いのかも知れません)身につけ、麻実もまた押さえていた自分の望みを解き放つことで、二人は元の鞘に収まった、ということでしょうか。そうしたルートの評価そのものは措くとして、描かれている内容自体は、概ねこんな感じでとりだせるのかな、と思います。

この記事を書いていて思ったのですが、『NG恋』の恋愛観というのはヒロインによっていろいろと異なっていて、何か一つ、これこそが恋愛の正解だ、というのを提出しているという感じではないんですね。夏夜には夏夜の、姫緒には姫緒の、トコにはトコの愛し方がある。麻実の場合、夏夜のように一方的ではなく、姫緒のようにパートナーでもない。家庭を築く伴侶として相互に愛し合う、ということがポイントだったのではないかな、と。だから、麻実ルートにおいては理と麻実、双方の問題が提示され、それが解決することでゴールにいたる(恋愛の一つの形を提示する)ことになっているように思われました。

この辺はまだ、作品全体を通して考え直さないといけないことだから上手く言えないのですが、やっぱり面白い作品ですね。一つのルートについてこれだけ色々と考えた経験はほとんど無かったので、自分としてはとても楽しかったです。文章自体はまとまらない内容になっていますが……。

ともあれ、きっかけを与えてくださったfeeさんに感謝をしつつ、本記事を終えたいと思います。機会があれば、どこかで『NG恋』全体について感想など書くかもしれません。書けたらいいなあ。

このエントリーをはてなブックマークに追加   

《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
 ▼OYOYOの新着レビュー

ご意見、ご感想があればメールフォームからお寄せ下さい。面白かったよ! という時は、彼女に拍手してくれると喜びます。


記事検索
応援バナー(1)
あけいろ怪奇譚
バナー(3)
AXL新作第12弾「恋する乙女と守護の楯~薔薇の聖母~」 2016年2月26日発売予定!
発売中応援作品
メールフォーム
Twitter
応援バナー(2)
Lose新作『まいてつ』応援中!


AXL新作第12弾「恋する乙女と守護の楯~薔薇の聖母~」 2016年2月26日発売予定!

情熱FX大陸