よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

僕はこのペーパーナイフでエロゲーを切ろう

あらかじめことわっておくと、パッケをあけるという話ではないです。

先日、ツイッターで「批評」とは何か、といった話が少し話題になりました。そことの関係でいろいろあって、「エロゲーにとって「批評」とは何か。」という記事を書こうかと思ったものの、ちょっと問題をデカく構えすぎて収集が付かなくなりそうでしたし、先日「エロゲーにとってエロとは何か」みたいな話をしたらタイトルから凄いことを期待して見に来た多くの方をガッカリさせてしまった感があるので、今回はちょっと比喩的なタイトルにしてみようと。まあ考えるの面倒だったので逃げました。

ことの発端は、ある人が「批評家を語る人間が企業の回し者になって良いのか」とお怒りになったことだったのですが、その後タイムラインは何故か(何故かもクソも、エロゲークラスタだからか)、エロゲーの批評の話に。その際、別のフォロワーの方がエロゲー批評というのは「単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけでわざわざ批評する」ものであって、馬鹿馬鹿しいし嫌いである、という発言をリツイートされました。(毎度ツイッターというのは距離感が難しい……。リツイートの意図もわかりませんし、また私は発言者とフォロー関係にないのに恐縮ですが、公開アカウントだということでご発言の引用だけはさせていただきます。「ある人曰く」くらいに思って聞き流してくださっても結構です)
単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけでわざわざ批評するのってバカバカしくないですか?エロゲ批評の大概がそれな気がするんですよね。もともと批評する余地なんてないのに、わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る。だから長ったらしいエロゲ批評って大っきらい
さて、言うまでもなく私はエロゲーを批評する(批評空間さんに投稿していますし)タイプの人間なので、立場上この方とは反対です。ただ、エロゲーユーザーの中にはこの方のように、したり顔の批評は嫌いである、あるいは意味がない、と考えておられる方が多くいることは理解しているつもりです。そこで今回は、自分の考えをまとめつつ、エロゲーにとって批評行為がどのような意味を持ち得るか。言い換えれば、なぜ私がエロゲーを「批評」しようとしているか、そのことについて日頃ぼんやりと考えていることを、とりとめなく書いてみようかと思います。

さて、エロゲーの話に飛ぶ前のツイッターでも話題になりましたが、「批評」という語は非常に曖昧かつ多義的に使われていて、意味を確定しづらい。ただ、ある程度決めなければ話ができません。また嫌われがちな「エロゲー批評」に限るという意味もあるので、ここでは簡単に、エロゲーをはじめ作品の内容について単なる個人的感想ではなく、何か基準を設けてその価値を判断しようとすること、としておきましょう(※手元の辞書を幾つか引いた結果、「事物の価値を判断し論じること」というのが一般的な説明のようで、そのあたりでざっくりとまとめるのが良いと思い、このような意味にしました。要するにあるものについて価値判断を自らの手で行うことです)。一応誤解しないで頂きたいのは、批評というのは「叩く」と同義ではありません。「critic」(批判・批評)という語の原義通り、作品を非難するのではなく、その作品について深く考えるという意味で用います。

くだんのツイートが、単なる個人的な好き嫌いの表明であったなら、これは言うまでもなく、論じる意味がありません。「エロゲーの批評って嫌いだわ」「俺めっちゃ好きゃねん」でお終い。赤が好きか青が好きかと同レベルの話なので、これ以上続ける意味はないでしょう。所詮結論はそこにしかないだろ、と思われる方にとっては私の文章は時間の無駄になって申し訳ないので、この辺でお引き取りくださることをお薦めします。

ただしこういう文章を書いていることからもおわかりのように、私はそういう話ではなかったと考えます。それは、私の思い込みや、私が議論のためにそう仮定しているというだけではないはずです。根拠としてたとえば、ツイートのこの文言。「単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけで」(原文ママ)というところ。難解なように仕立てあげるという、その作為性がここでは問題とされている。つまり、批評が嫌いというよりは《おかしな》批評が嫌い、ということでしょう。そのおかしさというのは、「もともと」のような言葉から察するに、作品の本来性を失っているということでしょう。つまりここで嫌われていることというのは、その批評に都合のいいように作品を歪めているということだと思われます。

もっと言えば、そうやって自分の知識なりをアピールする人間の自己顕示欲がイヤ、ということかもしれませんが、そのあたりはどうであっても構いません。肝心なのは、この方の中には「エロゲーのありのままの姿」と、「そのあるべき受け容れ方」という基準が存在しているということです。たとえばですが、「エロゲーというのは単純なものであって、考えるのではなく感じるものだ」のように。

であるならば、価値判断をしているのですから、この発言もまた一種の批評行為と呼ぶことが可能です。このツイートは一見、批評vsアンチ批評の構図のように見えますが、実は批評行為のあるべきありように対するメタ批評になっているということで、だからこそ、私はこのツイートをきっかけとして、「ではエロゲーにとって批評の意味を考えてみましょうか」と言いたくなる。単に、批評とか言ってる奴は消えてしまえと言われただけなら、「左様でございますか」(CV:篠崎双葉)と言ってさっさと自室でエロゲーするんですけどね。


作品(この場合はエロゲー)を味わい、楽しむというやりかたは、実にさまざまにありえます。あの娘が好きだ! でも良いし、この話が面白かった! でも、絵が好きだ! でも、まあ何でもありですよね。そういうエロゲーの味わい方の中の一つに、エロゲー批評みたいなものが出てきた。この辺の歴史的な流れをきちんとおさえているわけではありませんが、かつて多根清史(敬称略)は「コミックアンリアル」誌のコラム「人生は残機ゼロ」で、次のように述べていました。
とっても好きなエロゲーの名前でググったとしよう。いの一番にたどり着いたブログがややこしい文章だらけでチンプンカンプン、という覚えはないだろうか? 「エロゲの語り口」はどんどんお利口になっている。ネットで笑いものにされた「クラナドは人生」発言もギャグじゃなく、たぶん本人は大まじめだ。そもそもの始まりは、東浩紀という人が、エロゲを大まじめに語ったこと。彼が『YU-NO』やら『未来にキスを』などを哲学的にほめちぎったのが、くそまじめに分析する「エロゲ論壇」の広がりに一役買ったのだ。
オチは、東浩紀って実はあんまエロゲやってないよね、みたいな話で終えていましたが(意外にそうでもないと思います)、多根の分析は目の付け所が面白い。東が学界という椅子取りゲームの世界に「オタクの椅子」を持ち込んで悠々と王様チェアーに腰掛けていると同時に、「オタク知識で上下関係を決めようとする」旧世代オタクに喧嘩を売り、サブカルチャーと呼ばれたオタク文化の中でも更に下の方の地位しか無かったエロゲーを拾って殴り返しに行っているとか、そんな感じのことを言っています。

事実関係で引っかかる部分としては、東以前にも、更科修一郎とか、エロゲーについて分析的なことを述べていた人は少なからずいたのではとかそういうことはあるものの、多根が言うところの「エロゲ論壇」形成のエポックメイクとして、やはり東の『動物化するポストモダン』(2001年)の影響が大きかったというのは確かであると思われます。エロゲーを「わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る」連中の本格的な登場、というわけです。
(註)この辺りの歴史的な背景は、本当はもっと突っ込まなくてはいけないのでしょう。いわゆる文学や映像論の知識に基づいてアニメや漫画を語るという手法は、エロゲーでそれが行われるより以前から存在していましたし、そういう手法がエロゲーにもちこまれたというのは、単にそれが面白かったからというよりは、社会的に価値が認められていないエロゲーに、社会的価値を付与しようという切実な問題意識(特に、エロゲーは一時期規制によって存在を抹消されるのではないかと危惧されたことがあった)から来た、価値付け行為の一環であったようにも思われます。ただ、その話をしはじめると別の記事が二つくらい書ける分量になると思うので、今回はそういう視点もあるということについてメンションかますだけにとどめ、内容はざっくりカットさせてください。
ここから、東シンパというか、東の影響を受けた人たちが、エロゲーについて社会分析的な手法、思想的な切り取り方をガンガンするようになります。そして、東の本は読まず、それ(再生産された東的言説)だけを読んだ多くのエロゲーマーは、恐らくこう思ったのです。

はあ、それで、だから何なの?

この作品はデータベースだ! この作品はシミュラークルだ! この作品はポストモダンだだだだだ!!!! と言われたって、ホントに、だから何? という話。そして、そう訊ねると彼らはこう答えるのです。「『動物化するポストモダン』を読めばわかるよ」と。知るか、そんなもん。

上は私の感じた実感も含めているのですが、当時のいわゆるエロゲー論壇というのは、割とマジでこんな感じだったと記憶しています(私の周りだけかもしれませんが)。そして、こいつらの崇める東浩紀の本というのは余程つまらない本なのだろうと私は思っていたのですが……結論からいうと、読んでみるとそれは誤解だとわかりました。

実は東浩紀の言っていること、やっていることというのは、上に書いたような東をまねる人々(アズマネ、というワードが思いつきましたが、あんまり流行らなさそうなので使いません)がやっていることとは少し違っていて、そこを誤解するせいで、語る側にも聞く側にも大変気の毒なことになるのだと思います。東が『動ポモ』でやろうとしていたことは、何だったか。東自身のことばから、一度確認しておきましょう。
本書での筆者の関心はオタク系文化のまた別の特徴(引用註:データベース消費)にあり、そちらは今度は日本という枠組みを越え、より大きなポストモダンの流れと呼応している。(p.38)
東の考えは、「オタク系文化の構造には私たちの時代(ポストモダン)の本質がきわめてよく現れている」ということです。これは、まずもって私たちの時代が「ポストモダン」という状況にあるということが問題意識として前提されていることに由来します。ポストモダン的な社会の中では、人間は極端な相対主義に陥って、「なにが正しいことか」を決められない。ざっくり言うと、そういう「社会的な問題」のほうが先に存在する。そして東の論法は、オタク文化の中には、そういう特質が非常によくあらわれていて、オタクたちは最もよくポストモダン的な社会を理解し、その中でいかに生きていくかに関する手掛かりを与えてくれるのだ、とか、およそそんな感じの議論なわけです。

つまり、東はエロゲーを分析する「ために」ポストモダンを持ち出したのではなく、ポストモダンの分析をしている中で、エロゲーを発見したのです。言い方を変えれば東は、あらかじめオタク文化の価値を「ポストモダン的なもの」であると決めている。なぜなら、いまの生きにくい社会を生きていくうえで、その考えが助けになるから、です。

だから、東にとってはエロゲーの中にポストモダンを見いだすことは、社会の実相を探ることであり、自分の生き方について考えることであり、そこに面白さを感じるのでしょう。東の批評の行き着く先は、エロゲーの構造を分析してみせて、そこにポストモダン構造を読み込むことでエロゲーを価値付ける、ということになります。

よく耳にする、東は一部の作品しか扱わず、『Fate』のような一般的なエロゲーを評価しない。だから奴はエロゲーマーとしては偽物だ、というような攻撃は、東への反論としてはまったく無意味です。なぜなら東にとってはポストモダン的なものこそが意味と価値を持つのですから。彼が『Fate』はダメだと言ったとしたら、それは、エロゲーはヌけてナンボと考える人が「『Fate』ではヌけなかったから微妙」と言っているのと、同じようなニュアンスになっているはずなのです。エロゲーの魅力としてあげられる、絵とかエロさとか音声とか、それらと同じレベルで、東は「ポストモダン性」を見ている。

東浩紀シンパの人たちの多くは、おそらくこの部分の問題を、つまりポストモダン状況が自分たちにとって切実な課題であるという東の問題意識の部分を共有すること無く、手法と結論だけをまねていたのだと思います。だから、論じることそれ自体が目的化してしまい、彼らの語る「この作品はポストモダンだ」という結論は何が何だかわかりませんでした。が、東浩紀の結論なら私はなんとなくわかります。
(註)これだけだと、まるで切実な問題意識が無かった、と言っているように思われるかも知れませんが、それは誤解です。おそらく今も当時も、そういう論評を書く人(私を含め)にはなにがしかの問題意識がある。ただ、東のとった手法というのは、明確に東の問題意識とリンクしているため、その手法をとると自動的にその問題意識について語ったことになる、そういう怖さもあるわけです。いわゆる、語りの形式と内容が一致している、とかいうヤツですね。だから、東とは違う問題(たとえば、自分はエロゲーをやっているけど恥ずかしいことではないと言いたいから価値付けを試みるとか)を抱えているのに、論じ方だけ東をまねてしまうと、そこには言いたいとととやっていること(やれていること)の間のズレが生じる。そして残念ながら、そのことに自覚的であった人はそれほど多くなかったと思います(私を含め!!)。自分のことを棚に上げて言っていますが、お前はどうなの、と思った方は恐縮ながら、私のセルフツッコミでもうしばらく我慢なさってください(。・x・)。
何というかたとえば、私たちが南の国の少数民族の映像を見て、「彼らの生活は、現代人が失ったなにか大事なことを思い出させてくれる……」というナレーションが流れたりしますが、そんな感じでしょう。今の自分たちの生き方にとって、ダイレクトに響いてくる問題としてエロゲーを見ている。それが『動ポモ』の場合ちょっと理屈に走りすぎて、『AIR』の分析とかで的を外しまくった感じがありますが、『動ポモ2』(『ゲーム的リアリズムの誕生』)のほうでは見事に軌道修正して、ああ、この人ホントに『AIR』楽しんでやったんだな、という感じの書き方になっていました。


ただまあ、同じ映像を見ていても、そういう問題意識(いまの自分の社会や生活)では見ない、という人もいると思います。「ここのご飯おいしそうだなぁ」とか、「象にのって移動って楽しそう」とか、そういう人がいたって全然おかしくない。俗に言う、作品への「切り口」の違いというのはこのことを指している。うまくいくかはわかりませんが、ひとつ、具体的な例を挙げて説明を試みてみます。

『三国志』という物語があります。中国の後漢末期から三国時代について書かれた歴史書であり、西晋の陳寿によって編まれました。西晋というのは、三国時代を制した司馬氏の建てた王朝ですね。史書ですから、タテマエとしては、実際に起きたできごとが客観的に記されている。しかし、歴史記述(物語)である以上、やはり何らかのバイアスがかかっていることも事実です。

『三国志』は西晋の正史だという話をしました。ですから、曹家の魏から王位をぶんどったという経緯がある。そういうわけで、曹王朝をある程度正統の王朝と描くことで自分たちが奪うに値する権威があったということと、同時に自分たちが奪っても構わないような過失があったというような書き方をしている部分がある。魏を正統として編纂した史書として『三国志』を読む、という読み方が一時期はやりましたが、それは史実とつきあわせることで編者・陳寿なり陳寿にそれを書かせた西晋なりの思想(イデオロギー)を暴いてい読み方です。

他にも、中国古代には「天帝(天)」の意図が働いて王朝を決定する、という思想が基本にありますから、歴史を書いていけば、そこには天意があらわれている、そんなふうに昔の中国の人々は考えていた。有名な司馬遷の『史記』というのは、そういう発想に対抗して書かれたなどとも言われますが、読み手としては、他の史書との比較などを通して、『三国志』にあらわれている古代中国の「天」がどのようなものであったかを読み取る、そういう読みも可能です。

あるいは、当時の文化を『三国志』を通して見て、農村の暮らしであるとか、異民族の生活であるとか、義兄弟のシステムだとか、やろうと思えば「切り口」なんてのはいくらでも見つかる。ジェンダーやポスコロ(ポストコロニアル)のように、現代の問題意識からさまざまな「抑圧」を読み取り、女性差別や異民族支配の実態を切り取るなんてのもあるわけです。

この「切り口」、つまり、読みの方法によって作品が何であるかという結論も、作品への評価も、またもちろんそこにあらわれてくる作品の面白さというものも、変化していきます。エロゲーの話にもどしてみますと、他の類似作品と比較したり、同じブランドやライターさん、原画家さんの作品と比較する。あるいは、作品単体のテーマ性について考えたり、誰か一人のキャラに絞った話をしても良いでしょう。

「切り口」を生みだすのは自分の武器なわけですが、結局の所、どんな武器を使ってどんな風に切るか、というのは、これはもう、好みに依るとしか言いようがない。研究ということなら、お金を引っ張りやすいやり方とか、指導教員の学閥(実にくだらないことですが)だとか、考えるべき要素は多々あるとしても、エロゲーの批評にはそんなものが(少なくとも現在は)ありませんから、やりたいようにやりゃあ良いと思うのです。日本刀みたいに、切る武器にこだわりがあると言う場合は、とにかくカッコイイ武器を探せば良い。そもそも切るのが楽しいから切りやすさ第一、という実用派なら、自分が一番何か考えやすいやりかたで考えれば良いし、切ったあとにいろんな切れ跡を眺めるのが好き、というのなら、武蔵坊弁慶よろしく武器を集めてはあれこれ持ち替えて、いろんな切り方を試してみれば良い。

そうやって考えていけば、「すげー抜けたから良かった!」とか、「汁の飛び方がサイコーでした!」という言説だって、(少なくともこの記事の中の定義でいえば)十分「批評」です。自分の「切り口」と武器が何であるか、それが伝わるように相手に見せて、実際に作品を切って見せているわけですから。つまるところ「批評」というものの持つ意味は、ある作品を「こう読んだら面白いよ」とか、「こんな風によんだらつまんないよね」と具体的に伝えるというところにあって、決してその作品の価値を一義的に定めたり、あるいは何か読み方の「正解」を押しつけるようなものでは無い。

東浩紀がもてはやされたのは、その鮮やかなロジックと深い洞察が、物珍しかったということもあるでしょう。みんなが、日本刀やら長ドスやらを見せてあれこれ自慢していたところに、突然黒船にのってやってきたペリー提督みたいなもんです。どかん、と大砲とか鉄砲をぶっ放されて、みんな「うおー、すげー」と思っちゃった。実際に凄いし、射程は半端ないわけですが、日本刀や脇差しや、あるいはロングソードやチャクラムみたいな武器と、単純に比べることは本当ならできないわけです。殺傷力は大砲のほうが高いんでしょうけど、扱いやすさや見た目の美しさはどうか、とか基準はいろいろある。……段々話がずれてきましたので修正しますが、好みでどんな武器を使って切っても良いのですから、火力にこだわらなくたって、別に構わない。俺様、ひのきの棒で魔王倒してやるぜェ、ドヤッ! という勇者がいたって、それはそれで楽しいではございませんか。


脱線しかかっていたので、少し話を整理しなおします。

今回話題になった方のツイートというのは、もう一度振り返ってみますと、「もともと批評する余地なんてないのに、わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る」ということがイヤだ、というお話でした。前提として、これが単なる趣味の表明(私ピーマンってまずいから嫌い)であるのなら、特に何も言うことはないということを申しました。ただまあ、もし本当にそれだけの話だと言われてしまったら逆に言いたいことは出てくるかもしれません。そも、ネット上には批評を書いている人間がわんさかいるわけですから、堂々と嫌悪感をあらわにするというのはいかがなものか。ピーマン農家の人の前で、自分がいかにピーマン嫌いかを拡声器使って大演説することにどんな意味があるのかは、私の鈍い頭では少々解りかねるところがあります。

でもまあ、言葉の端々から伝わってくるのは、そういう(単純な好き嫌いの)話ではないだろう、と。「もともと」を誰が判断するのかとか、「長ったらしい」というのは唯の形式論なのかとか、細かいツッコミはいくらでもいられますが、むしろそのように書いてしまうというところに、この方の持つある種のバイアスがみえてくる。

最初のほうでも述べた通り、恐らくこの方は、何らかの「あるべき作品との接し方」というのを持っていて、それに沿って語っておられる。それは、作品を故意に歪めて、語る(批評する)ための道具に貶める、そういう接し方に対する嫌悪感を表明しておられるのではないかと思うのですが、特にはっきりとは書かれていないので、まあ詳しくは解りません。そもそも「批評」をどのような意味で捉えているかもハッキリしませんし。別の方が指摘しておられたように、偉そうにドヤ顔で自分の読み方を披露する、その自己アピールが鼻につく、ということかもしれない。もしそうであるとすれば、そのあたりの気持ちは、何となくわかる気もします。

しかし、これまで述べてきたような意味で「批評」という行為を捉える私からすれば、作品について語る――それ以前に、作品を解釈するということは、既に自分と作品との関係の中で、その作品を組み替えているのだと思います。だから、あらゆる「批評」と、そのもとになる解釈行為は恣意的であり、同時にまた、あらゆる「批評」と解釈とは、その作品の持っている可能性を何かのかたちで拡げる行為であると思う。作品を「切り取る」という言い方をしましたが、「批評」によって切り取られることで、それはどうやったってもともとの作品そのものではなくなってしまう。でも、その切り口が作品の新しい側面を見せてくれるのだから、どんな風に切っても、何かしら発見はあるのではないか、そんな風にも思います。

作品の解釈、などというと偉そうですが、要は作品を受け取って、感想を抱いたらそれはひとつの解釈です。「批評」というのはおそらく、それを誰かに伝わるかたちにすることなのではないでしょうか。偉そうな、「批評のための批評」が、自分の知識をひけらかすだけの「批評」が鼻につくのと同じように、私は、自分と異なる問題関心を持つ人がその作品を見たらどう思うかということに対して、すぐに排他的に嫌悪したり、バカにしたり、そもそも理解しようとしない、そういう態度もまた、好きではありません。それは単に、「俺と意見の違う奴はイヤだ」という、小学生のダダみたいな話ですし、実際そのレベルで意見を言う人(そしてそういう人にかぎって声が大きかったりする)も多い。私にしては珍しく、攻撃的な発言をしていますが、自分でも驚いています。何か溜まってたのかなあ。

たとえばですけど、私が全然抜けなかったエロゲーについて、「陥没乳首マジ最高ッス」みたいなことが書いてあった。これ読んで私は、「なるほどね!」と思ったわけです。自分の知らなかった、思いもつかなかったような作品の「切り口」を見られるというのはとても面白い。それが「小難しい」というだけで拒否反応を起こしてdisるというのは、ちょっと過剰反応にも見えます。解らないことを言っている人がいるなら、面白そうだなと思って興味を持つか、興味を持たずに聞き流せば良いと思うのですが、はてさて、殴りに行く必要はあるのかなあ、などと。そんな難しいこと書く意味がないじゃないというけれど、その人は意味があると思って書いてるんだから、まずその意味をくみ取った上で何か話をするならともかく、最初から無意味と決めつけるのは単に読む気がないだけでしょう、と。

結局のところ私からすると、「批評」行為を否定することは、究極的には(ラディカルに考えを進めれば、という意味です)作品に対する解釈を誰かに伝えると言うことを、ひいては解釈そのものをも無意味なものとして斥ける、そういうことに繋がるのではないかという危惧があります。そして、それはとても勿体ない。そりゃもちろん、つまんない「批評」(私の感想とかね)とか腹が立つ「批評」があるというのはわかりますが、それは語り方の問題だったり書き手の思想の問題であって、恐らく「批評」という行為それ自体の問題では無いはずです。

あ、ことわっておくと「小難しい」という語を使ったのは、例のツイートの方へのあてつけではありません。例のツイートの方は、このレベルの話はしていないと(私は)思う。用語レベルでは直線的なことをおっしゃっているように見えますが、くりかえしてきたようにかの人が問題としていたのはおそらく、作品の「読み方」(解釈)を優先して、作品そのものを手段としてしまう、そういうことではないかと思います。解釈によって切り取った作品を楽しめばいいのに、「俺は虎徹使ってるんだぜ」みたいな武器自慢をする奴とか、「居合い最強ッス」みたいに切り方自慢するやつとか、そういうのが多すぎる、と。たぶん、「こう読むと面白いから試しにどうですか」なら、何の問題もないのじゃないかな。問題は、「こう読むべきだから、こう読まない奴はバカ」みたいなことを言うパターン。少なくとも発言内容を拝読した限り、切ること(批評・解釈)そのものを脊髄反射的に嫌がっているようには読めませんでした。

こういう立場であるとすれば、実は私自身はわりとツイートの方に賛成の部分もあって、先日書いた「作品と出会うということ」という記事では近いことを言っているつもりです。

作品の本質というのは、何か作品の外側にあるものの意味に回収されるのではなく、作品そのものの中にあって、受け手はそのような作品の本質と出会うことができたら一番幸せで、一番面白いだろう。そこで述べたのは、だいたいそんなことです。『三国志』の話で言えば、歴史書や、思想の表現として読むと言うことは、なるほど『三国志』のもつ意味を鮮やかに浮かび上がらせはするけれど、『三国志』でなければ描けなかった《何か》を、つかみ取ることはできていないのではないか。あの中で描き取られている曹操や劉備や孫権といった、さまざまな人の生き方。それこそが、『三国志』の固有性なのではないか。そこに入り込んでいくことができれば、一番面白いのではないか、と。

けれど、私はやはり、他の立場もまたスタンスとして否定はしたくないし、できないと思います。だって、何を面白いと思い、どう読みたいかというのは、やっぱり好みの問題でしかないのですから。

いままでの話をもの凄く簡単にまとめると、こうです。まず、「エロゲーをお高くとまった語り方で語る批評が嫌い」という人が居て、それが単に「である」調がイヤとかいう好みを問題にしているだけなら、単にその人の個人的な話なので何も言うことはない。しかし、それがエロゲーの批評はかくあるべき、という何らかの「べき」論と繋がっているのなら、その「お高い批評」の何が問題なのか考える必要があるはずだ(ではそもそも、エロゲーの「批評」とはどういう意味をもちえるのか)。そして、「批評」というのはその作品の可能性や楽しみ方を広げるものであるから、「批評」のやりかたが気に入らなくても、「批評」行為や「批評」の内容自体はそう簡単にゴミ扱いはできないのではないか(つまり、その「べき」は最後まで根拠を持ち得ないのではないか)、と。ただ、問題が発生し得るとしたら、言いたいこと(批評している意図)とやってること(批評している形式)がズレている時には、ちぐはぐになって変な「批評」になる可能性があるという話も申しました。

んで、それなら私自身はどうなのよというツッコミが出てくる。少なくともこのブログを読んでくれてる方=ほぼ知り合いなので、私がどんなレビュー書いてるかもご存知だったりする。そういう人からすれば、お前こそポストモダンがどうこうってしょっちゅう言ってるじゃねぇか、東浩紀のシンパに酷いこと言ってるけど、ブーメランって言葉知ってる? ということになるかもしれない。

実際、前回の記事(作品と出会う云々)に対して友人が、「でもOYOYOくんって結構外在的な話で作品意味づけるよね。しかも評価軸バラバラ」とコメントをくれまして、私もうんそうだね、と答えました(バラバラのつもりは無いけどね)。私事で恐縮ですが、結果として、私はいろんな「切り口」で切ってみているところがあります。ただそれは、わざとやってるわけじゃない。たまたまそうなっている感じです。私は不勉強なうえにプライドもポリシーも無く、興味があちこちに分散しちゃうタイプなので、「こう読むのこそ正しい」みたいな決まった読み方を強くは持たない。だから、「こういう風に読んでみたら意外と面白いところがある気がする」という自分の発見を提示して、「どうっすかね」とおうかがいを立てている。もうすこし正確に言い直すと、自分が直観的に感じた面白さを全部綺麗に説明する一つの体系(マイ武器)を持てないので、時々に応じてナイフやらカッターやら日本刀やら、丁度良い道具を仕方なくいろいろ持ち出しているつもりです。

だから、どれが「正解」とかそういう話ではなくて、この見方なら自分の感じた面白さをうまく言いとれる気がする、という読み方を提示して、それが作品でどの程度うまくいっていたか(成功している場合もあれば、失敗している場合も当然あるわけですから)を述べている。そして、どうやっても私には無理でした、というときは素直にそれを書いて、他の方の意見などを参考にさせていただこうと。むしろ、一本の武器でバッサバッサ切れたらかえって楽なのかもしれませんが、それができないせいで、毎回自分の感覚と作品へのアプローチをひっつけようとして、あんなとっちらかった感じになっている気がします。

勿論、スタンスとしてブレるつもりがない部分もあります。自分にはわからない面白さが作品にあるかもしれないし、私が「面白くなかった」説明をきちんとすればそれに対して反論が来て、私の考えが改まるかもしれない。作品には何か、どこか良いところがあるという考えは、「作品に優しい読み」などと言われますが、私は原則その立場を支持します(おわかり頂けるとは思いますが、褒めるだけが優しさではないですよ)。

とはいえ、面白さと言ってもなんだかんだで順位はある。たとえばジェンダー論的な切り方をして、それで何か意味のあることをこの作品は言えてる気がするけど、私にはこの程度の面白さしか見つからなかったなぁ、ということもあります。また、ロジカルに綺麗に説明をつけている人がいて、それは鮮やかに作品を意味づけているけれど、自分の感じた面白さとか感動ってそこじゃない気がする、ということもある。逆に、自分が心震えるときはいつも、同じような切り方で作品を見ていることに後で気づいたりもします。

そんなわけで私にもたぶん、自分の読み方の中でひとつ、「この切り口で読めたら最高!」という方法がある。ただハッキリ言って、ペーパーナイフみたいにチャチな武器です。大学者さんのぶっぱなす大砲とか、多くのレビュアーさんが持っておられる綺麗な刀に比べれば見劣りする。そのぶん小回りは利くかなという自負もありますが、自分の武器がチャチいせいで、それにどうしてもこだわらねばならないとは思いません。一般ウケもしないと思う(ただ、私にとっては「物語」を読むということと切り離せないところなので、こだわりたい、とは思っていますが)。ですから他の人の読み方でも、面白いものがあれば試してみたいし、それがまた、自分の読み方を深める手助けにもなってくれると思う。それは人付き合いも同じことで、これと決めた付き合い方のパターンにあてはまらないような付き合いをくり返すうちに、よりよい付き合い方をマスターしていくものです。だから私は、私のペーパーナイフをよりよく磨き、またそれに相応しい切り方を見つけるために、他の人の「批評」を読んでいる。

もっと言えば、ものを単なる対象として分析・観察するのではなく、自分自身との関係の中で捉えるというのは、そういう試みの繰り返しの中でしか生まれてこない。それはエロゲーに限らず、です。だから私は、余程のことがない限り簡単には他の人の読みや考えを否定しようとは思わない。唯一クビを傾げるのは、「批評」なんて無意味だという言説に対してのみ。私のペーパーナイフをバカにするのは良いけれど、ペーパーナイフを持つことまでも否定するのは勘弁してほしい、と。

ここまで言ったらなんか流れで、私にとっての一番面白い読み方が何で、どんな作品に出会ったときにそう思うのかというような話は本当はしなければならないのでしょうが、さすがに疲れたし、長すぎてもうこれ以上読む気になる人もあんまりない気がする。話もまとまらなくなってきたしの三重苦なので、今日はお開きにしてまたの機会と需要があれば、やりたいと思います。

それでは、また明日。今回は自分の言いたいことを言い過ぎて読む人のことをまるでスルーしてしまったので、ちょっと反省ですね……。

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ブックカバーの話 その2

以前少し申し上げましたが、私はブックカバー好きです。ただ、どうも革のものは皆さん馴染みが薄いようで。確かに結構高いし、管理大変だし、かといって合皮だと肌触りも硬さも全然よろしくないし、革はあんまり一般ウケしないのかもしれませんね。

紙のものは自分でいろいろいじったりデザイン性が高く、また安価なので、自分だけのカバーを作って喜ぶのには最適なのですが(ライトノベルのブックカバーなんかは自作すると結構良い感じになります。後日、機会があればサンプルなど)、紙のものだと濡れたりすぐに傷んだりと、実用性の面から少し微妙。また、手触りがガサガサしたり、手の水分を吸っていくので冬場にはあんまり向かない感じがあります。

というわけで、今回は布製のブックカバーをご紹介しようと思います。既製品だと、種類も豊富、値段も手頃と割と良い感じのものが揃っているのは、やはり布製ですね。色々なものを買いましたが、最近のお気に入りは、こちら。

ドンヒラノ01

ドン・ヒラノ(DON HIRANO)さんというメーカーのブックカバーです。本当に手作りなのか、「手」という機械が作っているのかはわかりませんが、〈こちら〉に詳しい説明が載せられているとおり、かなり凝った作りのカバーです。シンプルなデザインながら味があり、手触りも良好。布カバー特有の、持ったときの温い感じも良好。

ポケットなどがついておらず、栞の差し込みや付箋の扱いに困るのが少々残念ですが、紙カバーならどちらにしてもついていない要素なので、実用面からはあきらめがつきます。割と可愛らしいカバーも多くて、たとえば「見返り猫」なんかは秀逸。

ドンヒラノ02
しおり紐の先が鈴になっています。芸が細かい。

ワンポイントの控え目なチャームがよく見るととても凝っていて、見ていると非常に楽しい。電車の中で持っている人を見かけて、「おっ」と思っていたところ、丸善に売っていたので買いあさってしまいました。一冊読み終わるたびに別のカバーに替えて楽しんでいます。

というわけで本日は、ステマともつかぬブックカバー紹介でした。それでは、これにて。また明日。

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漫画買ってきた話

この前からちょっと気になっていた、わだぺん。著『東京自転車少女』と、松本規之著『南鎌倉高校自転車部』を購入しました。

南鎌倉
『南鎌倉高校自転車部』。店員さんがもの凄いオシのPOPを書いていました。

別にそれほど自転車大好きというわけではないのですが、女の子が自転車に乗ってる姿を見るのは好きです(爆)。自転車漫画、最近恐ろしく流行っているけどどうしてなんでしょう。ロードレースか自転車業界のステマでしょうか。

東京自転車
『東京自転車少女』。わかりやすく好みな絵柄。一時期話題になっていました。

読んでいないので想像ですが、おそらく自転車を通して地域の景色を見ていく、みたいな「世界の車窓から」のようなほのぼのした話なのではないかな、と。読んでから感想かけと言われそうですが、これから読みます! 面白かったら自転車買っちゃうかも! という感じで。なんかママチャリでもいいんですが、オサレな自転車も一台ほしいよなあと思ったり思わなかったり。

昔は「変速ギア」が大好きで、何段変速という語感の格好良さに憧れてゴテゴテした自転車やマウンテンバイクが良いなあと思っていましたが、最近は「やっぱ前にカゴついてるの最高だわ」という輸送手段としての自転車がメインなので、なんだかんだでママチャリか(笑)。

というわけで本日は短いけれどこんなところで。それでは、また明日。

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レビュー:『罪と罰』(漫F画太郎版)

一部地域で話題の、漫F画太郎著『罪と罰』、2巻を購入しました。

ちなみに話題というのは、表紙です。1巻はこんな感じで……。

罪と罰1

2巻はこれ。

罪と罰2

なんとびっくり、画太郎先生が萌え絵を……なわけがなくて、2巻の表紙はかんざきひろさんが担当されています。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のイラスト担当の、あのかんざきひろさんです。言うまでもないことですが、1巻の方も画太郎先生とは別人ですね。

ちなみに1巻の中身は完全に画太郎ワールドでした。原作ドストエフスキーとなっているけど、「独自の解釈で再構築され」すぎです。だいたい、主人公の名前がエビゾー=ラスコーリニコフって。金貸しの老婆に逆レイプされるという原作レイプな内容で、面白いのか面白くないのか真剣に考えた末に考えるのをやめました。

スーパーどうでもいいことですが、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ロージャ(ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ)は、イニシャルがロシア語で「РРР」。これはひっくり返すと「666」(キリスト教で悪魔を指すとされる数)となり、また「ラスコーリニコフ」という名前は「切り裂く」という意味の「ラスコローチ」から来ているなど、いろいろ仕掛けが施されているのですが、その辺は一切無視。あ、でも斧は持ってました。

果たしてこれは『罪と罰』なのか否かとか、そういう話はもうホントどうでもよくて、ああ、画太郎先生元気に生きておられたんだなという感慨を抱くとともに、芸風を内容から表紙にうつし、「絵」で亜空間から勝負を仕掛けてきたそのチャレンジャーっぷりに感涙を禁じ得ない。ほらほら、みんな表紙さえ良かったら買っちゃうんでしょ~? でもザンネンデシター! みたいなノリでありながら、ちっとも不快じゃないというか、良い感じでネタとして昇華されています。虚構新聞にキレていた人がこれ読んだら、卒倒するかもしれないですけど。

ちなみに2巻は、買った(もちろん限定版)だけで、読んでいません。読む気もありません。本棚に、表紙が見えるようにして、飾る。おそらくこれが、この本のただしい扱い方です(爆)。どんな内容なんだろう。画太郎先生だからきっと面白いんだろうなぁ。もしかすると画風が全然かわってるかもしれないぞぉ。わくわくするなぁ……。そんなことを考えながら、ずっと眺めているだけで良いのです。

というわけで、読んでみるまで内容が確定されない「シュレディンガーの本」として、『罪と罰』2巻は永遠に私の本棚で、開けられることなく飾り続けられることでしょう。

……では、また明日。

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作品と出会うという話

なんか急にブログのアクセス数が3倍くらいになりまして(といっても普段が少ないので騒ぐほどのアクセスではありませんが)、何ごとかと思ったらどうも、先日書いた「エロゲーにとって、エロとは何か」という記事を、多くの方にお読み頂けていたようで、ありがたいやらおそれおおいやら。ツイート数が2桁になっていたの、てっきり表示エラーと思いこんでいたのですが、マジでこんなにツイートされていたんですか。

有識者に聞いたところ、highcampusさん繋がりでerogeNewsさんに拾っていただいて、リツイートされたというお話。リツイートでもツイートがカウントされることをはじめて知りました……。しかし、この記事ぶっちゃけあんまりウケは良くないだろうと思って書いたのですが、わかんないもんです。リツイートされたのは、「ぷっ、こんなバカがいるぜ」という晒しのためだった可能性も高いので何とも言えませんが。どっちにしても、コメント頂いたので嬉しくなり、調子に乗って長文返しちゃうあたりまだまだ私も若いです。

閑話休題、コメントのほうにも更にツイッターで(非公開ですが)コメントを頂きました。毎度のことですがお名前出して良いか確認とって、OKならお出しいたします。内容は、リンクを紹介していただいた「麻枝准とエロ」のお話について。雑駁に言えば、どうしてこれが「批判や批評という行為は意味を失」うということになるのかよくわからないし、そもそも私が書いた批判って妥当なの? もうちょっと説明がいるのでは、という感じ。ちなみに、紹介していただいた記事というのは、こちら(「忸怩たるループ」)。

ご指摘はごもっともというか、多分コメントくださった方はスタンス的に「忸怩たるループ」さんの記事に当然賛成の立場っぽかったので先にことわっておくと、別に麻枝氏のユーザーへの心配り(「麻枝准は第一に客受けを考えている」)を否定するつもりはありません。あと、ここで言われていることの本来的に重要なポイントを、私はそこ(麻枝氏の作家性みたいなところ)だとはとりませんでした。

他の記事をきちんと読んでいないので確たることは言えない(と一応言い訳しておきます)のですが、「エロが不要というなら、ついでにあの口癖も不要なら、そもそも神尾観鈴が少女である必要もないではないか。」というこの一文が、私にはクリティカルに思われます。つまり、作品はただ作品としてあるのであって(観鈴ちんはただあるがままに観鈴ちんなのであって)、そこに要不要の議論はあるべきではないし、それをするのならば、全てをきちんと議論の俎上に載せるべし(恣意的に要素を決めるな)ということが、恐らくは言われているのではないか、と。

私がこの方の立場に非常に同意するのは、この部分。これはつまり、ある作品なり存在なりを、「そのままに」(総体として)捉えるということを意味していると思うからです。

補助線として、私たちが普段やっている読書のようなものを思い浮かべれば良いでしょうか。ある本を読んで、「この本で言っていることは、まとめるとこうだ」とか、「こんな内容だった」と言う。ブログの感想から論文の引用まで、私たちが本を読んだ後に述べるこうした感想は、その本の構造を抜き出すことを目指しています。構造、というのがわかりにくければ、骨組みとか骨格でもいいです。

そりゃあまあ、本そのものを語るくらいなら本を読めば良いのですから、語る以上は骨組みにしよう、というのは当然に思われるかも知れません。けれど、こうした行為の背景には、近代ヨーロッパ的な科学の知の影響が、やはり色濃くあらわれています。……なんか最近こんな話ばっかりしてるなあ。

どういうことか。普遍的なものを志向する科学的な知の前では、ある存在の特殊性というのは基本的に抹消されます。本を、「こういう枠組みの本だった」と述べることで、私たちはその本が背負っている歴史性や何やらを、交換可能なものとして扱うことができる。けれどそれは所詮骨組みでしかなくて、その本の全てではない。

人間ならもっとわかりやすい。「OYOYOというのはこんなやつ」だと骨格だけ説明してみても、実際に会った総体としてのOYOYOには、肉も皮もついているわけでして。骨格標本がOYOYOでは無いわけです。DNA情報のように、どんなに詳細で個別的なデータを見せたとしても、それがデータである以上、その人そのものではありえない。それは「ある人の説明」ではあっても、「ある人の存在」とはなりえない。

けれど私たちは、その「説明」によって、まるで「存在」を理解したかのように錯覚してしまう。あるいは、「存在」が別にあることはわかっていながら、「説明」ができれば安心してしまう。そういうところがあります。

永井均『〈子ども〉のための哲学』という本に、こんなエピソードが書かれていたことを、かつて興味深く読みました。
『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)にも書いたことだが、ぼくはある友人に「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いを出してみた。彼の答えは「両親がセックスしたからだ」というものだった。だが、ぼくが生まれる以前には、二人の男女はまだぼくの両親ではない。その二人がセックスをしたからといって、なぜぼくが生まれてこなければならなかったのか。友人はこの問いの意味を理解しなかった。(p.22)
この問題は、いろいろな切り口から観ることができます。たとえば、現象を説明する自然科学(セックスしたからだ)と、起こりえていないこととの比較で現実を捉える人文諸学との差異を読み取ることもできるでしょう。しかし、この後永井均が説明するように、根本にあるのは〈ぼく〉という存在の〈奇跡〉です。
ある人間がかくかくの性質(物理的であろうと精神的であろうと)を持っていれば、その人間は〈ぼく〉になる、ということ(が発見されるということ)はありえないのだ。なぜなら、〈ぼく〉にはただひとつの事例しかなく、同じ種類の他のものが存在しないからである。だから、そいつが〈ぼく〉であるという事実は、そいつが持っているどんな性質とも関係なく成り立っていると考えるほかはない。つまり、そいつの持っているどんな性質も、そいつが〈ぼく〉であったことを説明しないのだ。(p.58)
少々わかりづらいかもしれません。でも、もとは「作品」の話をしていたわけで、それならそう難しい話ではない。

もし、『ハムレット』(何でも良いんですけど)の構造が余すことなく分析され、時代背景も完璧に説明され、全く同じ社会状況が作られ、シェークスピアのクローンがその中におかれて、そうやったとして、果たしてまったく同じ『ハムレット』は生まれるのでしょうか。あるいは、そうやって生まれた『ハムレット』を、オリジナルの『ハムレット』と呼ぶことはできるのでしょうか。永井は、どちらも「できない」と言うでしょう。ぼくが〈ぼく〉であることの不思議というのは、そういう説明不可能な、存在そのものの〈奇跡〉のことです。「この作品はこういうものだ」とレッテルを貼って、一般化すれば終わるのなら、こんな話は必要ありません。でも、そのような一般化からはみ出す作品の固有性にこそ、私たちは惹かれているはずなのです。

永井は結局、「この先に何かこれ以上考え進められることがあるとは、思えなかった」と言って「考えるのをやめ」てしまう。この〈ぼく〉なるものに説明を与えるということは不可能だからです。近代ヨーロッパの知的枠組みでは、それはすくいだせないものとして残り続ける。そしてまたそれゆえ、科学的な知に慣らされた私たちの中には、「このような話をどんなにくわしくしても、そもそも問題の意味をまったく理解しないひとがいる」(p.59)というのも頷けます。

では、そういった存在の不思議をすくいだすことはできないのか。そう決めつけるのは早計でしょう。先ほどから「近代ヨーロッパ」をくり返してきていることから、なんとなく気配を感じ取っておられるかもしれませんが、たとえば近世以前の東アジアでは、まったく逆で、そうした存在の不思議そのものに触れることが常に目指されてきました。

釈迦の言説をたどりなおす仏教しかり、聖人や孔子の教えと格闘する儒教しかり。手法こそ(現代から観れば)分析的手法を使っているようにみえますが、彼らは釈迦になり、聖人となることを目指していたのであって、決して教えのエッセンスを取り出してそれを乗り越えようとしていたわけではありません。彼らの行き先は、自分の書いているものがまさに釈迦なら釈迦、孔子なら孔子の教えそのものであるというところにありました。

このあたりは、真理がこれから実現されると考えるキリスト教的進歩史観的と、既に真理が体現されていると考えるアジア的歴史観という、洋の東西の時間感覚の差異として頻繁にとりあげられる内容と重なる部分かもしれません。さておき、問題はある人物にしてもその人の思想にしても、あるいは作品にしても、そのものがもつ固有性――具体的な存在そのものの〈奇跡〉に、いかに迫りうるかというところです。

「麻枝准とエロ」の話に戻しましょう。私が、この記事に同意する――などと言うと偉そうですが、この記事の内容に強く頷きたい部分があるのは、いま述べてきたような固有性を志向している部分があるように思われるからです。神尾観鈴という存在の、あるいは『AIR』という作品そのものの固有性を、私たちは取り出したい。オリジナリティ、などということばでは足りない、どうしても観鈴でなければダメだという、その部分をこそ取り出したい。そのように願うとき、私たちはどうすれば良いか。これは、おそらく「こうだ」という結論が容易には出せない問題であり、今も多くの人が考え続けていることです。

批評行為を解釈であり表現だと位置づけた小林秀雄にならうなら、私たちもまた、表現者としてその作品と向かい合うしかない、ということになるでしょうか。私たちの固有性との差異においてしか、その作品(もう相手が「作品」でも「存在」でも構わないことは同意いただけるでしょう)の固有性は捉え得ないのだ、と。もちろん、批評をするばかりが表現ではありません。その作品にインスパイアドされて作品をつくったり、果ては泣いたり怒ったり笑ったりするという反応だって表現でしょう。そうした表現の中に作品と出会っているというのは、まあ納得できる部分が私にはあります。私が今もなお関わり続けている、人文学のある分野もまた、自分の学に特殊な手段を通して作品の固有性を捉えようとしてきたのだし、あるいは思想や哲学というものは本来そのようなものであるのかもしれません。

注意しておきたいのは、作品そのものの姿を取り出すというのは、現にある作品を無批判に受け入れることと同義ではないということ。私が「麻枝准とエロ」の記事にひっかかったのは、その部分です。この記事を書かれた方が実際にどう考えておられたかはちょっとわからない(筆が滑るということはよくありますし)のですが、「どのみち麻枝准は第一に客受けを考えているはずだ」のような言い方をしてしまうと、それはもう、作品そのものを観ることにはならない。作品の背後にある、「作者」という事実を説明するものとして、作品を読んでいることにならないか。そのように考えたからです。

よく言われることですが、たとえば神話を読むときに、何か事実の説明、表現として神話を読む、という手法がいまでも広く行われています。『古事記』はこれこれという豪族の争いがモチーフになっているのだとか、『ギリシャ神話』の神々の争いの結果は、ここの地方の部族が別の部族を征服したことと重なっているのだ、などというふうに。それは、作品という表現をある事実に還元していって、そこに存在している意図や働いている力を観ようと言うもので、作品のイデオロギーを暴露するというきわめて学問的な方法です。そういうやり方自体が悪いとはまったく思わないし、ひとつのあるべき、すぐれた手法だとは思います。

ただ、それはどうしても、ここまで述べてきたような作品の固有性というはみ出しを捉え得ないのではないかと思います。作品を読んで「面白い」と思うことと、何らかの時代性や「作家の意図」を反映しているという対照関係は、おそらく別モノでしょう。ただ、こちらの方はそもそも麻枝准氏の作家性を問題にしておられるので、私のこうした言い方は不当かもしれません。作家そのものと出会おうとしておられるのなら、別の軸の話になりますし。また、作品の固有性に出会うということの意味が、私とだいぶずれている可能性は高いので、以上のような批判はまったく成り立たない可能性がある。まあこの辺は微妙な問題が絡みまくるし、いい加減なことが言えないなと思ったので、あんまり深く触れませんでした。

けれど、「神尾観鈴」というそのキャラと出会うことをもしも目指すのならば、私たちに「麻枝准」という作家の存在は必要ないはずだし、「麻枝准」という作家その人と出会おうとするなら、「神尾観鈴」という個別具体的なキャラクターは最終的には一般化される、ということは言えるのかなと。そして今回とった私の立場は、作家と出会おうとするのではなくて作品と、もっといえば作品の中にいるキャラクターとの出会いを目指していた(その意味でのHシーンというのを考えるつもりだった)ので、「同意しづらい」し、もしその立場をとってしまうと何も言うことがなくなる(一般化されてしまうから)と。まあ概ねそんなことを言いたかったわけです。

と、長くなってしまったのですが、説明になったでしょうか。関係の無い人にはいまいちピンと来ない話が続いてしまった感はありますが、作品の固有性と出会い、それを捕まえるというのはどういうことかという問題というのは、常に私の中にある関心だったので、ちょっと書いてみました。今回具体的な事例から始めてしまってわかりにくくなった向きもあると思うので、どこかで一般化して話をしてみようと思います。(酷いオチですw)

それでは、お付き合いありがとうございました。また明日お会いしましょう。

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エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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