よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

ブログを続けていくために

私なんてブログを始めてまだ一年どころか半年も経っていないぺーぺーなので、偉そうにノウハウを語るつもりはありません。そういうのを期待して来られた方がいたらごめんなさい……。

ただ、毎日ツイッターをしたり時々エロゲーのレビューを(最近はサボり気味ですが)かいたりしつつ、長文のブログも書いている私はどうも、余程の暇人であると思われているようなので、その事実は間違っていないけれど、別にブログ更新にそんなに時間をかけているわけでもないんだよ、という話。

ブログには幾つかの目的があって、何か問題意識があって情報を発信したいという人や、単なる日記代わりという人、アフィリエイトで稼ぎたいという人から、交流を目的とした人までさまざまだと思います。

そんな中で私の場合、自分の思考の備忘録であると同時に、それを誰かに読んでもらって交流したいという気持ちもあり、また何ごとも続かない自分にとって紙に書くよりは管理が楽で続けやすい日記代わりでもあり、他人に読んでもらう文章を練習する機会でもあり……という、割と盛りだくさんな目的をもってはじめました。ただ、これを全部満たすというのは不可能。

そこで、自分の中で優先順位をつけてみました。並べるとこんな感じ。
(1) 続ける。とにかく三日坊主が多いので、継続優先。
(2) 自分の考えていることを書く。書いて思考を整理する。自分のため。
(3) 他人に読んでもらう。意見を貰えたら思考も捗るし、励みになる。
  ただ、別に読まれなくても続ける。
(4) 読んでくれる人を増やす。増えなくても構わないけど、増えた方が良い。
  そのために読みやすい文章などを鍛える。
(5) アフィブログにはしない。したら人を呼びたくなる。
  そもそもそんな才能も無い。

で、「続ける」という大目標の達成のためには、とにかく私の場合強制力が働かないとダメ。「見に来てくれる人のために」とか、そういうモチベーションがあると良いのですが、そもそもブログを始めたときは10人も見る人ができるか判らない状態でしたので、「見てくれる人」のために、でやっていると速攻閉鎖の可能性がありました。そこで、上の優先順位にしたがって「自分のため」にする。それも、半ば毎日の義務のようにする。「1日になにか1つはまとまった文章を書く。それが自分の訓練」とかんがえてみました。

とはいえそういうスタンス(あくまでセルフトレーニングが第一という位置づけ)にすると、むやみやたらと時間を使ったりするのは難しい。特に私は長文とかを書き始めるととにかく時間がかかるし、気になってあれこれの作業が手に付かなくなってしまう。それではとても続けられないし、続けたらリアル生活がヤバいことになりかねない。しかし、書きたいことを書く、という目標のためには文章も長くしたいし、時間をつかう必要がある……。ここがジレンマになったわけです。書きたい、でも無理には書きたくないし書けない、という。

そこで、私は「ブログを書くのはだいたい1日1時間」と決めました(時間に余裕があるときなんかは例外ももちろんありますが)。それは超えないようになるべく努力する。で、記事を書き始めて30分くらいすると、「これは今日一日で終わるな」とか、「これは無理。絶対終わらん」とか、だいたい判ってきます。「無理だ」と判断したら、潔くそこで撤退。

撤退してどうするかというと、残った時間で書ける記事を考えるわけです。思いつかなくても、何とか書く。そのために幾つかのネタは、移動時間とかを使ってストックする(そういう時間を含めれば1時間じゃ済まないというツッコミは無しで)。で、30分くらいで記事を書いて投稿。終わらなかった記事については、翌日以降に回します。

長文記事については、書く前にビジョンが見えているタイプのものならともかく、そうでないものはそんな風にして日またぎで書いています。3日、4日がかりになることもありますが、とりあえず続けていればいつかは形になるし、形になったら載せる、という感じ。

もちろん時間を見誤ってやっつけの記事になったこともあり、見に来てくださる方には申し訳ないなぁと思いつつ、何でも良いから毎日書くということを目標に据えているのでご勘弁いただければとビクビクしながら投稿ボタンをおしています。

つまるところ、昨日「エロゲー話の続きを書く」と言い持ってそれが達成されていない本日のこの記事というのは、撤退戦の成れの果てなわけですが(爆)、今日に関しては最初からダメかもなーと思っていたので、見切りは早かったです。何を書くかは悩みましたが……。実を言うと昨日も書ききれずにドロップアウトしていたので(あれ)。

まあそんな感じでして、今のところ長文を書くのはそこまで無理に時間をとっているわけではありません。私が暇人なのはその通りですが、暇をブログにつぎ込んでいるわけでもない。ただ、そのせいかブログの内容自体は統一性も無いし内容もクオリティが高いとは言えない……。最近は少しずつですがわざわざ見に来てくださる方もふえているし、いつまでも訓練です、では申し訳ないし、愛想尽かされたら寂しいので、ちょっとずつ変えていきたい。

今後もブログは継続させつつ、その辺を何とかする工夫をしたいなあと思っています。

世間にはたくさんのブロガーさんがいて、たくさんのスタンスがあって、きっと皆さんそれぞれ独自の書き方をしておられる。その中には私とまったく違う方針の方も、同じようなことを考えてる方もいるのでしょう。ただ、自分が読者になった経験上、やっぱりどんな形であれブログが閉鎖とか更新停止になると寂しいし、自分も始めるからには長続きさせたいし……ということで、強制力を持たせつつ無理しない、の両立を狙ってみた次第です。今のところ、なんとかやっていけてるのかな……。

で、アルファブロガーでもないのに自分のこと書くなんて自意識過剰! って言われそうですが、そこはアレ。

ネタが無かったんです。勘弁してください。

というのが本日のオチ。明日こそは連作完成させるぞ……。

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それでも僕は、長文をやめない(多分)

連続して重たい話を書いてきたので、今日はちょっと休憩!

このところ、ブログなりツイッターなりで私の書く文章はわかりにくい、のみならず長い。長すぎて読む気にならん、ウザイ、というようなご意見を続けて頂くことが増えました。一部は状況的に私に宛てたものかな? という程度でやや自意識過剰なだけかもしれませんが、明白に名指しで頂いたものとか、リアルの知人とかも含めると片手の指は超えました。

まあ、ツイッターなりブログなりを始める以前からしょっちゅう言われていたことなので、「ようやく来たか」という感じもあるっちゅやああるのですが、ご指摘についてはうけとめつつも、長文を書くという形式は変えないと思います、という意思表明だけ行おうかと思います。

ツイッターなりブログなりについて、「イヤなら読むなよ!」とどこぞのマスコミのようなセリフを言うことも可能ではあるのですが、それでは折角読んでくださった方に失礼ですし、「うぜえ!」「おまえがうぜえ!」という不毛な喧嘩でしかないので、どうもなあ、という。もう少し原理的に「イヤなら読むな!」を言いたくない理由もあるのですが、それは後ほど述べます。

また、読む気があるから「長い」だの言ってくださっているわけで(本当に読む気がないならそもそも何も言わないでしょう)、それならご意見として聞くべき所は聞いておきたいな、と。いや、単に目障りだということかもしれませんが、それならばそもそもこちらとの関係を持つ気が先方にもともと無いわけで、態度を変える必要もないという単純な話。

で、まあいつもの調子で言いますと、「長い」と言っておられる方の問題は、本当に言葉通り長いだけか、という問題があります。たとえば「難しく長く言う」という迂遠さ、もったいぶった態度、そういうものをして「ウザイ」と言っておられるのかも知れない。ツイッターであれば、140文字で表現しきれることを書いてこそのツイッターであって、ちゃんと用意された形式に従うのが礼儀だ、という思想をお持ちなのかもしれない。本当は別のことを言うつもりだったけれど思いとどまって、適当に理由付けるか、ということで「長い」と言ってみたなんてこともあるかもしれません。

また、もっと簡潔にまとまった話にしてくれであるとか、私の文章のように結論が曖昧なことが多い(思考過程を綴るタイプの文章)に「びしっと結論だしたほうが良い」とおっしゃっている可能性もある。もっと好意的には、「自分ですらこんな長いと読む気にならないし、普通の人ならもっと読まないから、読んでもらえる記事/ツイートを目指すなら改善したほうが良い」というアドバイスかもしれません。

加えて、私は書いている内容が内容なので、その部分に反発を覚えるという方がおられるかもしれない。その反対意見を、直接的な内容ではなくて「こんな長い文章書いてるヤツはダメだ」という表現の問題として捉えなおして指摘している可能性もあると思います。

果たしてどれであるかはハッキリとわからないのですが、しかし、私としてはどれも思い当たる節があるので困る。日頃「内容と表現形式」の問題を語っておきながら、ブログもツイッターも論文も書籍も同人誌も一緒に扱うのは意識が低いと言われればその通りだし、実際自分の文章を読み直すと(推敲していないのがバレバレですが)、かなり下手だし雑。お世辞にも読みやすいとは言えません。これでは確かによくないなぁ、と思う。

短くできる部分は短くしたほうが良いのでしょう。内容を「絞る」という作業が、うまくできていないのは確かです。ただ、そのように私の文章に問題があるということと、「長さ」自体はおそらく、直接的な関係にはありません。長いから悪い、短いから良い、というのは言うまでもなくその背後に何らかの実質を背負ってこそ意味を持つ言説であって、本当に短いものが良いという形式論なら、和歌を詠むなり叫び声ですべてを表現することを目指さないといけなくなってしまう。それは極論にしても、文章の長さというのが内容無き形式論であるということは、ほぼ同意頂けると思う。必要なことを書いていったら、どうしても長くなってしまったということは、どんな人にだって必ずある。

だから、私の書いたものに対して「長い」というご批判をいただいたとして、その「長い」という言葉の内容については、なるべくくみ取るように努力はします。解決策が「単に短くすればいい」というだけなら解決しようがありませんが、その他の内容であれば、長くてもその指摘を踏まえた表現というのはできるはずなので、それを目指そうと。私自身、長く読みづらい文章を変えようともがいている部分もありますので。

だからもし気が向いたら、というよりも私の書いたモノに光栄にもそこまで真剣にお付き合いいただけるならば、私の場合は「長い」ことが「どう」だめなのかも指摘して頂ければ幸いです。すぐに反映できるかはともかく、考える材料になりますので。

ただ、そもそも私の存在が気に入らないとか、書いている内容そのものが気に入らない(論理的におかしいとか、それを書くことによって問題が発生するというのではなく、単にウザいだけみたいな)場合は、これは最初に申し上げた通り、改めることができないだろうし、そのつもりもありません。さりとて私が書いて公表するものですから「じゃあ見るな」とは言えない。それは酷い責任放棄だと私は思います。

そもそも、公表する以上は書いたものについてどのように言われても、ある程度それは仕方がない。勿論弁解はするし、完全に放置するつもりはありませんが、児童ポルノ法推進派の皆さんが、見たくもないエロ漫画を必死に我慢して見ておられるように、敵対するからこそ注目して見る、という、そういう接し方だってあるわけで。そのことを「見るな」で済ませるというのは、「俺が気に入らないから書くな」という抑圧なり暴力なりに対して、「俺の気に入る読者じゃないから読むな」という抑圧なり暴力なりを返しているに過ぎません。先にやられたんだからやり返して良いというのは一つの明快で楽な立場ではありますが、私はやはり、乱暴だと思うから。

ただ、ブログやツイッターというのは別に誰かの許可をもらって「書かせて頂いている」ものではありませんから、個人の好みとバッティングする(私は長いものは嫌いだ)だけなら、こちらとしては「長いのが好きなので。じゃああいませんね」で終わるしかない。結局そういうことになってしまうでしょう。その意味では、「気に入らないから書くな」という発言は本当に不毛な、単に相手を不快にさせておわるだけの発言であるということは言えるかも知れません。ただそうであれば逆に、本当に好みだけの問題で「書くな」という人が――つまり相手を不快にさせるだけの目的で発言をする人が――いる可能性も低いと思いますが。

そんなわけでくどくど書いてきましたが、長い読みづらいわかりづらいというご指摘に関しては、一応読ませて頂いています(メールくださった熱心な方もおられるので)ということと、受け止めるつもりはございますがどのような反映になるかは、まだわかりません。ただし即座にスタイルを変更して短い文章を書くということをするつもりもありません、ということで。ほら、今回の話もこんなに長くなったよ!!(吃驚)

ひとえに私の力量が不足しているのが問題なのでしょうし、そんな書き手は速攻見限られる運命かも知れませんが、そうならないように修練を積んで行きたい。気の長い方は、なま暖かく見守って頂ければ嬉しいな♪(爆)

といったところで、本日はこの辺で。明日は書いてきたシリーズの続きを、できればラストとして書きたいなと思っています。

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それでもエロゲーをやめない僕へ2――エロゲーは〈物語〉なのか

◆前記事1 「それでもエロゲーをやめない僕へ1 ――物語の自律性」(5/31)

◆前記事2 「それでもエロゲーをやめない僕へ1.5――自律性にこだわる理由」(6/1)

さて、これまで私は、作品と受け手との固有性が交流する場として物語を考える、という話を続けてきました(ひと言でまとめてしまった)。そのような物語を、以後便宜的にですが、〈物語〉と呼ぶことにします。カッコつきの文字を使うって専門家っぽくてカッコイイですよね!

【審議中】
      _,,..,,,,_   _,,..,,,,_
   _,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_
  ./ ・ω_,,..,,,,_  l _,,..,,,,_/ω・ ヽ
 |   /   ・ヽ /・   ヽ    l
  `'ー--l      ll      l---‐´
     `'ー---‐´`'ー---‐´

……話をエロゲーへ繋げるにあたってさしあたりの問題は以下の三つ。

(1) エロゲーというのは〈物語〉なのか。〈物語〉の要素が一部に入っているとしても、本質的に〈物語〉と見て良いのか。
(2) 〈物語〉の形式というのはエロゲーに限られるわけではないはずだ。殊更にエロゲーだけ取りあげるのは何故か。
(3) もし(1)、(2)をクリアーできたとして、ではエロゲーが〈物語〉だというのは、結局どういうことなのか。

今回はそんなにヤヤコシイ話にする予定もありません。ざっくりと参ります。

まず(1)について。これは、〈物語〉で良いじゃん。え、それじゃダメですか?

だって、エロゲーってまあ言ってみれば観念的セックスをしてるわけですよ。想像とか空想で性交するというのは、これはもう、高度観念世界でしょう。もちろん、シナリオ特化の作品だけじゃなくて抜きゲーも含めて。というか、私的には抜きゲーのほうが観念の度合いが高い気がします。

文学基準で「高尚」なのはシナリオゲーかもしれませんけど、よくよく考えてみると、現実で遭遇したら笑っちゃうようなアヘ顔ダブルピースとか、みさくら語(卑語)とか、触手とか、これを観念と呼ばずして何と呼ぶのか。フツーにオナニーのネタにして性欲を満たすだけなら不要に思われるような迂遠なプロセスを膨大に付属させる抜きゲーを、その使用目的が結局の所性欲解消だからといって使い捨てツール扱いするのは、少々なめすぎです。

もちろん結果的に(*´Д`)ハァハァするのが目的で良いんですけど、その為にどれだけ膨大な労力を使ってプロセスを構築しているか。その差を見ないと、エロゲーにも、同じようにオカズになっているエロ本やエロビデオにも失礼というものでしょう。結果だけで言うなら、サラリーマンってのは会社に勤めてお金を貰う人ですが、そんな表面的で薄っぺらい分類がその労働の本質には何の意味もないことくらい、小学生でもわかることです。

〈物語〉というのは単なる肉づけされたシナリオという意味ではなく、独立に構築された観念の世界でした。そして、性的興奮にプロセスを付けようというエロゲー的な想像力というのは、その時点で既に単なる性欲処理ではない。性欲処理の道具であるとしても、そこには介在する〈物語〉があるのだと言えましょう。シナリオゲーの場合はわざわざ説明しなくても〈物語〉であると言って特に文句はでないと思うので、割愛します。

というわけでエロゲーは本質的かつ必然的に〈物語〉であると言えます、ということにして、次へ。(2)についてですが、これはもちろん、〈物語〉というのはエロゲーだけではありません。ラノベもアニメもギャルゲーも、映画も純文学小説も、ことによっては日記や新聞記事、絵画や音楽の類まで、およそあらゆる創造物は〈物語〉たる資格を有している。別段、その中で特にエロゲーがぬきんでているとか優れた表現だとか、そういうことを言うつもりもありません。

ただ、それはエロゲーに限ったことではない。あらゆる作品がフラットなところに並ぶと私は思います。ひと昔前であれば「文学こそが最高」みたいなノリがあったのかもしれませんが、そういうのは無い。そもそも、固有性の領域に触れうるものということなのだから、人に応じて違いがあって当然だろうと思います。映画でピンと来る人もいれば、文学でないとダメという人もいる。同様に、エロゲーという表現媒体をこそ一番だと感じる人がいてもよくて、その間で優劣はつけないしつけられない。そんなものではないか、と。

そして最後、(3)について。それではエロゲーを、他の〈物語〉から区別するものは何か。エロゲーのエロゲーらしさというか、差異の根源は何か、という話。エロゲーというものについて考えるという意味では、ここが恐らくは重要なポイントになってきます。

他との違いでいえば、エロゲーというのは恋愛や性行為の描写を通して観念世界を樹立しようとするものだ、ということになるでしょう。暴力描写で観念を立てようとする作品もあれば、音でやろうとする作品もある。そんな中でエロゲーと呼ばれる作品群は、その名の通りエロによって〈物語〉になろうとする/なりえている作品のことだと言えます。若干循環論法っぽく感じるかも知れませんが、表現の手段がそのまま内容にもなっているので、そんなモノだと思ってください。

これはもちろん、以前「エロゲーにとって、エロとは何か」の記事で述べた、作品側からのエロの分類とは異なっています。〈物語〉が受け手との固有性の交流だと述べたとおり、ここには必然的に受け手が前提される。ですから、今回の議論はさしずめ、エロゲーユーザーにとってのエロゲーとは何か、という話になっていると言っても構いません。

そしてユーザーの側の視点に立てば、暴力や友情や音楽や、そういう色々な表現の中からエロによる〈物語〉を選んだということになります。性行為というのが自分の〈物語〉にマッチしていたのだ、と。そのことがどういう意味を持ちうるのかということは、現状、はっきりしたことは言えません。言えたら、エロゲーのエロというのがユーザーにとっていかに重要かを語ることができるのでしょうが、うまくアイディアが出ない。もしかするとそもそも出し得ない(固有の領域の話だから)のかもしれませんが、それでも何とか突き詰めて考えてみたいとは思っています。難しいこと考えずに万事オーライで良いじゃないか、というのも勿論アリですが。

ともあれ、ユーザーとしては性行為というのがマッチした。そしてこの理屈は、一応作り手には関係のないことです。エロゲーからエロを抜いた作品を世に送り出そうが、エロゲーを作っていたブランドがギャルゲーブランドに方針転換しようが、そちらに別の〈物語〉のあり方を見いだしたというのなら当然の話で、何の問題もない。

けれど、私は〈物語〉が作品とユーザーの固有性の交流の場だと言いました。つまり、エロゲーに〈物語〉を見る私は、とりわけエロという表現を通して、何か自分の 股間  魂に触れる部分を見いだしていた。それを作品の側が簡単に乗り替えることができるというのなら、作品にとってエロというのはその程度のものだったのだな、と思って少し寂しくなるだけです。また同時に、別にエロゲーじゃなくてもいいや、と違う表現にシフトできるユーザーがいることも当然だと思います。そういう人にとっては、エロゲーはそもそも〈物語〉ではなかったか、あるいはエロではない他の所に〈物語〉を見いだしていた(だからエロが無いところにも〈物語〉を見いだしえた)というだけの話でしょう。それは、その人自身の問題であって、私が関知すべきことではありません。

ただ、私自身はエロゲーなりエロなりというのを重要なものとして見ているので、そこに価値を感じないと言うのは構いませんが、必要以上に罵倒されたり、攻撃されるとなると、やはり抵抗したくなります。そして他人から何と言われようと、いまのところは、エロゲーこそが私にとって一番の〈物語〉であるし、しばらくこの確信は揺るがないだろうと思う。結局のところ私は、「それでもエロゲーをやめない」人間なわけです。

お、ようやくタイトルと繋がりました。やれやれ良かった……。書き始めた段階では右往左往してどうなることかとヽ゚~(∀)~゚丿。3つの記事を続けて書いたことでちょっとまとまった内容にはなったかな? 自分の内面と関わることを書こうとしているし、そういうのはどうも苦手なので他の方に興味を持っていただける記事になっている自信はあまりありませんが、自分の中の考えを進めることには一応成功した感があります。え、気のせいだ、って? ですよねー。

そろそろエロゲーの作品についての話もしたいし(いやあカーラさんマジエロいっすね!)、明日もシリーズのタイトルにするかはわかりません。まあもうここまで来たら後は何書いても繋がるでしょう。あまり先のことは考えずにひっそりダラダラと続けていくことにします。

それでは、今日はこの辺で。また明日お会いしましょう。

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それでもエロゲーをやめない僕へ1.5――自律性にこだわる理由

◆前記事 「それでもエロゲーをやめない僕へ1 ――物語の自律性」(5/31)

さて、何とか「2」も書けそうな感じになったので、書いていきたいと……思っていたのですが、ちょっと「ワカンネ」という意見が主に知人からですが寄せられまして。案の定すぎました。大変申し訳ありません。そこで、昨日の記事の補足というかたちで記事を追加いたします。

昨日の記事の内容は、簡単に言ってしまえば「物語の世界には、直接には現実との対応関係がない、自律的な部分もあるのではないか」という話でした。そして、主にそのようなものとして物語を享受する人もいるだろう、と。言ってしまえばそれだけなのですが、その部分が一番面倒な前提で、また私としても説明しづらい部分でした。うまくいっているかどうかはわかりません。というより、うまくいっていないからこういう記事を書いているわけで。・゚・(ノД`)・゚・。

カンの良い人なら(そしてサブカル評論好きなら)、前回の私の書き方が、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』をひきずっていると思われたかもしれません。必ずしもそういうつもりはありませんでしたし、また私は東のように明快で強度のあるロジックを用いているわけではないものの、確かに似たようなことを言っている部分もある。東の議論はライトノベルと近代小説を巡ってのものですが、かえってわかりやすいかとも思うので、ちょっと引用しておきます。
文学と現実の関係はきわめて複雑であり、ひとことで要約できるものではない。しかし、いまの日本文学をめぐる状況に話を限定すれば、とりあえずつぎのようなことは言える。(中略)純文学の読者はさまざまな階層や年齢に散らばっているからである。そして、その多様さは、純文学が現実を描いているという期待で支えられている。そのような期待が典型的に現れるのは、芥川賞受賞作をめぐる報道記事である。それらの記事では、多くの場合、小説の内容が社会問題と結びつけられて語られる。ミステリやホラーは娯楽のために読むが、純文学は娯楽ではなく、社会を知るために(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在を知るために)教養として読むという前提が、この国では半年ごとに再強化されている。むろん、純文学に別の可能性を見ている読者はいるだろうし、批評に親しんだ読者ならば、むしろこのような文学観に強い抵抗を覚えるだろう。しかし、ここ数年の話題作や、その語られかたを見るに、純文学への期待の中心がそのような素朴なリアリズムであることは否定しがたい。(p.75-76)
そして、「人々は複雑な理想や虚構ではなく単純な現実を求め」るようになり、文学においては「思想的で抽象的な言説が支持を失い、社会学や心理学の「リアル」な言説が影響力を増して」来たのだ、と言うわけです。

あと、ここには引用しませんが、p.75の長い註。これが秀逸。戦後日本の文学理論を、「現実は共同幻想を超えるものであり、文学は共同幻想を超えるべきであり、したがって現実と格闘するものこそが文学なのだ、という単純な循環論法」であると鮮やかに喝破しています。さすがにこのような大ざっぱな理解では文学理論のプロパーからはクレームが来かねませんが、それでも虚構に対する現実の優位の樹立こそが戦後日本文学の課題であったという理解は、ある綺麗な切り方だと私は思います。

ともあれ東は、現実との対応を文学に見てとる読解を「自然主義的読解」(p.81)と呼び、それに対抗する読みとして「環境分析的読解」(p.156)を提出します。東の意識は、「自然主義的な読解は、キャラクター小説の魅力を新しい現実の写生に見る。しかし、筆者としては、キャラクター小説の魅力を、むしろ非現実的なキャラクターによる、現実の乱反射に見いだしたい」(p.103)というところにある。つまり、現実と物語とが直線的に繋がる関係(自然主義的読解)を回避しよう、というわけです。

文学史・思想史を踏まえたこの辺の東の整理は実に見事なので『ゲーム的リアリズムの誕生』をお持ちの方はp.94~95あたりを参照なさっていただければと思います。私なりに頑張って要約すると、こんな(以下の1ブロック)感じ。

物語の自律的な世界を立てていた日本前近代に、ヨーロッパの「文学」が流れ込んだ。そのことによって日本近代小説というのは、直接的な現実と物語の接続を果たすべく(柄谷行人が言うところの)「透明」な言葉を用いるようになった。この「透明」というのは、物語と現実を直接繋ぐ(フィルタをかけない)という意味です。大塚英志はこれをうけて、キャラクター小説というのはそういう「透明化」の中で抑圧された可能性が復活しようとする動きであると整理した。これは東の理解ですが、つまり、不透明な(現実とは直接接続しないような)表現が行き場を求めて暴れ出した。その結果、キャラクター小説のように非現実的な表現というのが一部ではあったけれど盛り上がった。けれど、自然主義の圧倒的な影響力の元に生まれたキャラクター小説の表現は、「不透明」な、つまり非現実的な表現を用いながら、現実的であろうという矛盾(「自然主義の夢」)を抱えてしまう。東はそのことをもって、「半透明」と呼びます。「乱反射」のような言葉を上の引用で用いているのはそのためでしょう。そして、だからこそオタクの新しい文化を読むには、現実と物語とが直接に繋がることを前提とするような「自然主義的読解」ではいけないのだ、とこういう結論になる。

東の言っていることはさまざまな射程を含んでいますが、ここでの私の議論との関連に絞って言えば、やはり物語と現実との接続の問題、そしてそのうえで物語をいかに読むか、ということになります。東の考えをおさらいすれば、「自然主義的読解」は現実=物語であるという考えで、一方「環境分析的読解」は、物語は幻想だからその幻想の背後に仮託された現実を見破らねばならない、ということです。そして私が言いたかったのは、「自然主義的読解」にせよ「環境分析的読解」にせよ、結局は現実と物語(幻想)とが対応関係にあるというのを前提にしている。けれど、その路線ではない物語の楽しみ方もあるのではないか、ということです。

勿論、「自然主義的読解」や東の「環境分析的読解」がおかしい、間違っている、と言うわけではありません。ただ、彼らの目標は結局のところ現実社会の中で物語なりを位置づけようという、(東自身が言及する通り)社会学的な関心に支えられているのであって、その側面から見た場合、物語が持つ――そして私たち自身が抱えている――固有性というのは見失われてしまう。それは当然で、現実を切り取ったある側面が物語にあらわれているというのだから、物語の中にあるのはその「切り取られた現実」なわけで、結局枝葉は切られねばなりません。

もっともポストモダンというのはそのあたりの固有性の有無にかかわる議論ですから、いささか単純化しすぎかもしれませんが、必要な部分だけで説明するとそんなところです。

実際、東の「データベース消費」モデルとして『To Heart』を見たり、二重構造として『Yu-no』を読み解くという手法。あれは確かに、現実との対応で見ればとても鮮やかに見える。多くの人が魅了されたのもわかります。けれど、あのようなモデルで読み解いたとき、澪が洞窟で泣いたこととか、神奈が芝生で微笑んだ理由とか、マルチが頭を撫でられて喜ぶ理由とか、そういうのはぜーんぶ、「枝葉」として切り捨てられることになります。説明はできるかもしれないけど、要は全部「データベース」というところに解消される。その構造こそが作品の本質であり、全てであるということになる。

でも、それで良いの? というのが私の疑問であり、提起したかった問いです。構造だけとりだすというのなら、私たち人間でいえば設計図(DNA)が解析されるということと似ているかもしれません。では、私たちのDNAが全て解析されて、詳細なデータが揃ったら、それはこの〈わたし〉と同じなのでしょうか。ロマン主義者の烙印を押されるかもしれませんが、それは違うと私は思う。少なくとも、それでは私は満足も納得もしない。物語だって、それと同じじゃないかと。マルチがどんなデータベースの集合であることが明らかになったところで、私が見たいのは浩之さんに頭を撫でられてちょっと俯き気味に頬を赤らめているマルチです。物語を現実と繋ぐという立場では、原理的にこのような立場――前回の記事で言えば固有性を掴み出そうとする立場――をすくいとることはできないのではないか。

だからといって「自然主義的読解」や「環境分析的読解」が不要なわけではありません。それでなければ見いだすことができないものもあるし、社会的価値付けによって得られるメリットを手にするためには必要な面もある。けれど、それによって切り落とされ、置き去りにされてしまう部分というのもあるはずで、むしろその切り落とされる部分にこそこだわっている、こだわりたい人が少なくともここにいるという表明だけはしておいても良いだろう、と。つまりこれからする話は、そういう物語としてエロゲーを見たときに何が見えてくるかという話です、という宣言のつもりでした。

東が自嘲的に「キャラクター小説論論」と呼ぶような、こうした煩雑な手続き――つまりそもそも物語というのが何だと考えるかといったような話――というのは、議論のために必要であるのと同時に、自分が物語をどう楽しんでいるか、ひいては自分にとって良い物語というのがどんな物語なのかを、ただしく把握しようとするときに必要な手続きなのだと思います。そんなものは無用で、ただ楽しかったものについて楽しかったと言えば良い、という意見の人もいるかもしれませんが、本当にその考えを徹底するなら他人の楽しみ方に対してそういう人は文句を言うはずがありませんから、ここで触れる必要は無いでしょう。

実を言えば裏テーマとして仮想敵にしていたのは(表は、「恋人つくれば」みたいな素朴な人です)、東のような立場ではなく、「作家性」を前面に押し出すタイプの議論でした。最終的に読み取った内容を、「作家が表現したかったものはこれだ」というのは構わないのですが(それは「作品が言いたかったもの」と言い換えても「私が読み取ったもの」と言い換えても何もかわらないので)、あらかじめ作家のメッセージはこれだ、と決めてあって、それに合わせて解釈を進めるというもの。これは結局、作家という現実に物語をあてはめる単なる答え合わせの作業にしかすぎません。作家がこう言っているから、ここはこう読むべきだ、というのなら、作品読む必要無いので作家のインタビューだけ読めば良いということにもなりかねません。良質の物語というのはそんなものではなく、作り手の手を離れ、作品自体の自律的な世界でキャラクターたちが動き回っているものだと私は思います。

本当はそういう人たちも、物語の中の登場人物たちの言動の意味を考え、理解し、彼ら/彼女らの固有性に触れたいと思っているのだと思います。でも、「こたえあわせ」を急ぐ余り、その欲求がずれた方向に走ってしまっている気がする。そのあたりのことについては、この後の記事で詳しく書くつもりだったので、今は予告だけに止めます。

ともあれ、なぜ「物語とはなにか」みたいな話から始めなければならなかったのか。その問題意識によって確定しておきたかった方法なり立場なりというのが何であったかということについて、少しは見通しがよくなるような話ができたでしょうか。できていなかったとしても、いまの私にはこの辺が精一杯なので、ひとまずこれで整理しなおしたということにして、次の記事では話題を展開させたいと思います。

それでは、本日はこの辺で。また明日、お会いしましょう。

追伸: 厳しいご意見くださった某氏、ありがとうございました。東の話は出すと必ずひきずられるので、できれば出さずに終えたかったのですが、やはり整理には必要だったかもしれません。なんだかんだでこういう進行形の思索は、感想なり意見なりを頂けると本当にありがたい。この場をかりて御礼申し上げます。できれば照れずにブログに書き込んだりしていただけるともっと嬉しいですと意趣返し。

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それでもエロゲーをやめない僕へ1 ――物語の自律性

突然ですが、私は二次元が好きです。そのうち、二次元の世界にいける気さえする……!

暑さでおかしくなったわけではありませんよ。もともとこんな感じです(爆)。いやまあ、冗談? はさておきまして、エロゲーをやっているとよく、現実と物語(虚構)の関係について考えることがあります。今回は、そんなお話。

なお、タイトルに「1」とつけたように、何回かの分割記事の最初という位置づけになる予定です。といっても予定は未定なので、このまま書かずに終わる可能性もありますが、ひとまず計画としては次のような感じ。

(1)物語の、現実に対する自律性について
(2)エロゲーが物語であるということについて
(3)エロゲーという物語との接し方について

何が何やらプランだけではわかりにくいですよね……。されど、私も全文書いているわけではないので、見通しだけでご容赦ください。何せ思った結論にいたるまでの道筋を最初から説明するとなると、長く入りくんだものになりそうだったので、ゆっくり外堀を埋めてみようかと。

コレを書いてる時点では先々どうなるか本当にわかりませんが、途中でポシャっても大丈夫なように、毎回一定の結論にまでは到達するようなことを言え……たらいいなあ。とりあえず今回は、直接エロゲーとは関係ある部分は少なめ。具体例ではちょいちょいだしますが、基本は一般的に物語やフィクションについて、みたいなスタンスで話を進めていく予定です。

▼エロゲー的なものは現実的か
エロゲーに対して冷たい人からの攻撃というのは、ストレートに「キモッ!」というものから、「恋人つくったら?」という思いやり溢れる助言、果ては「エロゲーみたいなのが犯罪を助長する」というありがたいお説教まで、いろいろなパターンがあります。

私自身は比較的エロゲーマーであることをオープンに話しているので(もちろん、TPOはわきまえて不要な場合は黙っていますが)、エロゲーの話を普通の人とすることが時々あります。また、オタクであってもエロゲーをやらないという人だって当然いる。そういう人からはよく、「現実の恋愛はしないの?」みたいなことを聞かれます。そのたびに、「それとこれとは別」と答えるけれど、どうもわかってもらえない。

こういう「攻撃」の背景には、アダルト産業に対する素朴な蔑視みたいなものが見て取れます。AVというのは現実のセックスの代替物で、普通はできないような特殊なプレイをしたりして喜んでる。エロゲーとかエロアニメになると、更に特殊な趣味を満たす為にやってるのだ、みたいな。だから、「別にエロ目的でエロゲーやってるわけじゃない」のような回答がされ、最終的には「じゃあ、エロっていらないんじゃないの?」みたいな話に発展していくのでしょう。

ただ恐らく、アダルト蔑視みたいなのは表面的な話。根本にはもうすこし、面倒な問題が横たわっているように思います。

面倒な問題とは何か。それは、エロゲーに限らず虚構の物語というものが、現実よりも劣っている、という発想です。AVやエロゲーを軽蔑する人だって、(一部のウルトラ潔癖性の人を除けば)オカズとしてそういうものがあるということは認めている。単なる性欲処理として、現実を慰める手段としてなら、お許しを頂ける。

彼らが本当に軽蔑しているのは、性欲処理という手段であることを飛び越えて、二次元自体を目的にしているような態度でしょう(ロリ規制運動家の皆さんとかはちょっとおいときます)。それこそ「自慰」という言葉が含む負のニュアンスにはっきりとあらわれているように、現実に発展しない自己満足に終始しているということです。物語が明確に劣っているとは言わないまでも、現実であることのほうが価値が高いのだと素朴に考えている人は多い。「物語でみたされるなんて、ただの(程度の低い)自己満足」というわけです。現実の効果として発揮されれば、彼らは納得してくれる。だから、性欲処理という現実の効果はみとめるけれど、それ自体が目的であるといわれると、怪訝な顔をして拒否反応を示すのです。ちょっと言い過ぎかな? でもそんな感じありますよね……。

要は、エロゲーは、ただエロがあるだけで軽蔑されているのではなく、現実ではない偽物のエロ行為をあがめ奉っているから「キモい」と言われる。そうでなければ、「現実の恋愛しようぜ」みたいなことを言わないはずです。たとえばエロゲーをやって実際に恋人ができるなら、だれもエロゲーをやめろとは言わない。エロゲーをやって就職できるなら、推奨されるかもしれません。

つまるところ、現実を比較項として出す多くの人は、エロゲーという物語を現実との関係において捉えようとしている。そして、物語は現実に従属すると考えているわけです。上述した通り、ことはエロゲーに限りません。エロゲーほど顕著ではないにせよ、小説でも映画でも、たとえば「役に立たない」のような言い方をされることは多い。

しかし、本当に物語は現実との直接的な対応で扱って良いものなのでしょうか。そしてもし関係があるとしても、それは自明に従属関係なのでしょうか。

少なくとも物語(この場合エロゲーですが、アニメでも小説でも映画でも同じです)を楽しんでいる私の実感からすると、そこに「待った」をかけたい気持ちがあります。

▼物語という虚構
物語というのは、具体的な現実ではありません。言語を通して語られる以上、どれほど細密な描写が行われていたところで、それは現実ではなくて抽象化された観念の世界です。だから、物語は虚構(フィクション)である、というのはまあ、その通りでしょう。

しかし、いくらフィクションだからといって、(ゲームでも小説でも構いません)物語というのは、現実との対応関係のみでその価値が測られるべきではないと私は思います。

もしも物語が現実の下に置かれ、現実との対応関係でのみ捉えられるものであるなら、物語の価値はつまるところ現実に対する効果(=有用性)に存在する、ということになる。でも、何か役に立つから物語を読んでいるのかと聞かれると、私は明確にNOです。教科書や実用書と違い、物語に関しては役にまったく立たなくても、楽しいから読んでいる。

私にとって、役に立つかどうかと、物語が楽しいかどうかは、次元が異なる問題です。だから、現実に恋愛をしているからエロゲーをやらなくて良いという話にはまったくなりません。実際、恋人がいたり家庭をもちながらエロゲーをやっている人もいるわけで、そもそもそういう人にとっては同じレベルの問題で無い可能性はあると思うのですが、どうもその辺は「特殊なパターン」としてスルーされてしまうみたい。

いきなり下世話な話で恐縮かつ特殊な立場を承知で言いますが、セックスと同じくらい二次元ネタにしたオナニーが良いというのはあって良いんじゃないかと思うわけです。AVやエロ本より、二次元が良い。エロ小説のが良い、という立場があるのとは別に、普通にセックスするのと同じくらい妄想も気持ちいい。そういう立場だってある。どうして常に三次元換算しないといけないのか。ニコ動の何万再生というのを、CD何枚売上に換算しないと価値が測れないなんてことはないでしょう? それと一緒で、二次元は二次元、三次元は三次元でいいじゃないですか。

これは単に、二次元と三次元を比較してどっちが勝った負けたというのではなくて、一旦相対化してそれぞれ別のものとして扱うことが可能であるということが言いたいのです。言わせて。お願いします(;´д`)人

いやホラ、実際問題、イメージプレイとかやるわけで。そういう時、私たちが感じている快楽というのは単に肉体的な刺激じゃなくて、精神的な(観念的な)刺激であるハズです。それを突き詰めていけば、観念に特化した快楽というのがあったって別に構わないだろう、と。

真面目な話に戻しますと、言うまでもなく、「現実に役立つ」(オカズになるという意味ではなく)ということは重要な価値です。私たちの空想なり想像なり、そういう観念の産物が現実において意味を持つということの一つのはっきりしたあらわれは、有用性である。そのことは多分、間違いない。

けれど、そこには「この物語でないとダメ」という、固有性の部分は抜け落ちています。ある作品の価値が、現実との関係における役割にあるということは、物語の固有性を無視するということでもある。ちょっと、この辺のことについて考えてみましょう。

▼物語の固有性と自律性
たとえば私たち生きている人間を例にとってみます。人間の価値というのは、有用性にあるのでしょうか。

ベルは「電話を発明した人」であるという評価。これは、社会という現実と結びついた有用性です。このような価値というのは、確かにはっきりしていてわかりやすい。でもそれは、電話を発明しさえすれば、ベルでもグレイでも良かったということの裏返しでしかありません。

恋愛で言うなら、社会的に立派な人物(地位がある、お金がある)だから好き嫌い関係なくおつきあいする、みたいなのを想像してみると良い。そのレベルにすると、途端に「むぅ……」ってなりません? ロマンチストを気取る気は無いけど、私的な好き嫌いと有用性との違いというのは、およそこんな風にあらわれてくる。

先日書いた記事、「作品と出会うという話」の一つのテーマは、私たち自身や作品の持つ固有性(記事の方では〈奇跡〉という言い方をしています)という問題についてでした。社会的な意味や価値というのは、他人に説明できるものです。それは確かに重要だけど、交換可能なもの、相対的なものに過ぎない。

一方で私たちは、そういう社会的な意味や価値に還元できない絶対的な価値や意味(固有性)を持っているのではないか。その話はまさに、いま述べているような事柄との関係で重要な意味を持ってきます。

「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう」という問いに、「両親がセックスしたからだ」という答えではすくいきれない含意がある、という永井均の話を引用した後の展開で言いたかったのは、人間に固有性があるのと同様に、作品にも同じことが言えるのではないか、ということでした。もう少し突っ込んで言えば、そのような作品の固有性との出会いの中で、私たち自身の固有性もまた浮かび上がってくる。だから私は、有用性だけでは作品を見ずに、作品の固有性も拾い上げたい。

以下、作品を物語とほぼ同義のものとして扱いますが、ある物語が「現実の恋愛を鮮明に描き取っているから、実際の恋愛にも役に立つ」とか、「恋で傷ついた心を慰めてくれる」と評価したとして、じゃあそれ以上に上手く描いた別の物語が出てきたらどうするのでしょう。もとあった物語の意味や価値は乗り越えられたのだから、骨董品的な意味はあるとしても、実質的には無価値なものとなったのでしょうか? うんそうです、と言う人もいるでしょう。でも、そんなことはないという立場もありえるのではないか。

同じ機能をもっていれば、Aという作品でもBという作品でも構わないというなら、マルチとセリオとミルファとイルファの要素を完璧に盛り込んだ新型HMXが出れば、彼女たちはお払い箱になってしまう。

そういう理屈が必ずしも間違っているとは言いません。技術の進歩というのは必然的にそういう軌跡を描くことになる。けれど、まったく異なる次元の問題として、作品の固有性に根ざした価値があっても良いのではないでしょうか。少なくとも、同じようなジャンルの作品の中でどの作品が好きだとか、似たような属性のキャラだけどこのキャラじゃないとダメだとかいうことに血道を上げて議論しているエロゲーマーの実態としては、有用性だけでは満足できない。

私には、他の誰とも違う「わたし」だという意識がある。そんな私たちの生が、有用性だけで判断されるというのも、何か寂しい気がする。同様に物語にだって、「この物語でなければならない」部分というのがあるはずです。同じ骨組み、同じ主題の話であれば何でも良いわけではなくて、セリフの一つ一つ、行動の一つ一つに対して好き嫌いはある。そういう、物語の「細部」というのは固有性を認め、固有性において物語を楽しむところにあらわれてくるものです。そして、物語をそのような固有のものとして楽しむ人というのは、少なからず存在しているハズです。

つまり、物語は現実に対して従属してばかりいるわけではなく、そこから独立した自律的領域も持っている。

▼自律した領域の物語
推測が続いて話が煩雑になったので、少し整理しておきます。

現実が良いか、観念(物語)が良いかという二項対立は、お互いが同じ次元で競合するという全体に立った質問です。そして多くの場合、現実が勝利する。物語というのは現実の意味に還元できる限りにおいて(たとえばストレスが解消される、知識が身に付く、社会問題を考えるきっかけになる等)意味や価値を認められることになります。

しかし、物語を楽しんでいる側の実感にひきつけて考えると、物語の良さというのは必ずしも現実との対応において、つまり何かと交換可能な価値として測定されるものではないのではないか。生身の人間に存在の固有性があるように、物語もまた現実から自立/自律可能な虚構としての独自の固有性をもっており、それを楽しんでいる人もいるのではないか。そういう話をしてきました。

物語には一般化できる部分と、そうでない部分があります。たとえば『君が望む永遠』なら、メインルートは三角関係というシチュエーションとして一般化できてしまうかもしれない。でも、その一般化の中でこぼれおちる部分にこそ、個々のキャラクターは存在しています。水月には水月の、遥には遥の固有の情念がある。私たちが物語を読むというのは、一般化してとりだせる部分を読むだけではなく、一般化しきれない情念を読むことでもあるはずです。

『君のぞ』でいえば、孝之くんが単に人間のクズだ、と言っているだけでは、現実の価値基準を持ち込んでいるに過ぎない。問題は、作品の中でどんな風にクズとして扱われているか、あるいは実は作品の中ではクズではないかということです。だって、『ランス』シリーズのランスは、あれ現実だったらホントマジでクズですよ(笑)。でも、作品の中ではヒーローとして描かれているわけで、それならそのことの意味は、作品の中で考えられなくてはならない。その中に、ランスのランスらしさや、孝之の孝之らしさはあらわれてくるはずだ――私が言いたいのはそんなようなことです。『ランス』も『君のぞ』も、作品として自律した世界を持った物語なのですから。

『ランス』をやって、この主人公クズです、なんてホントにくだらない結論だと思いますが、私からすれば「エロゲーをやったから犯罪に走る」のような話だとか、「エロゲーばっかりで恋人つくらないの?」みたいな質問というのは、物語の自律的な領域を無視しているという意味で同じレベルの考えから出てきている、ということです。

しつこいようですが勘違いしないで欲しいのは、「物語に有用性は無い」と言っているわけではない、ということ。有用性=現実との対応というのは、物語を読む効用として確かにある。けれどそれとはまったく別の評価軸として、固有性に根ざした楽しみも見せてくれるのが物語ではないか、と言っているつもり。

たぶんこれは、物語の一般的な性質というより、ある場合に出てくる問題です。その「ある場合」というのは、読み手が自分の固有性を、物語を通してのぞき見ようとする場合です。

再び私事で恐縮ですが、子供の頃の私は、いわゆるアニメとか小説とかにはまる人間で、そういう物語に触れると、すぐに物語内部に自分を登場させたくなった。といっても、どれかのキャラクターになりたいというのではなくて、自分のオリジナルキャラをその話の中に登場させたいという、いっちゃん痛々しいパターンですね(笑)。

ただ、振り返ってみるとそれは、物語の世界を拡張させようとしていたとも言える。拡張というと何だか偉そうですが、「これで終わるの勿体ないから、まだ続けられるはずだ」とか、「この場面に私がいたら、もっとうまくやれたのに」というように。いまでいう、いわゆる二次創作とかに通じるものがあったかもしれません。

そうやって作られたのは、完全にオリジナルとは言えないにしても、元あった物語とは違う「私だけの物語」です。そんなことをしているうちに、その物語のどこが自分の琴線に最も触れる部分であるかとか、そういうのが好きな自分って何なのかということが、私の中でおぼろげにではあるにせよ形作られてきた。つまり私にとって、私だけの観念の世界の表現というのは、物語という形式をとるようになった。これが絵や音楽の人もいるのでしょうが、私にとっては物語だった。そうして、物語の中に自己を置いてみると、その中の登場人物たちもまた、自分に唯一のしかたで関わる固有の存在のように思えてきた。敢えて理屈をつけると、そんな感じかも知れません。

考えてみれば、個人の内的な世界と、社会という外側の世界がそのままストレートに接続するというのはかなり不自然なことです。現実というのは社会的な(共約可能な)ものであり、観念の世界は本質的には個的な(誰とも共有できない)種類のものなのだから。最終的にはその両者が何らかのかたちで接続するにせよ、単純に引き比べるのはさすがに乱暴だろう、という気がします。内的な世界は、ひとまず外の世界に対して独立している。

そして私にとって物語というのは、その作品の固有性の領域に属するものとして存在した。社会的な領域とはひとまず別の、そっちと直接的な関係が結ばれていなくても何の問題もないことなのです。だから、「現実に恋人がいること」と「エロゲーをやること」とは別の問題だ、という結論になる。ここには幾つかの段階があって、私がうまく説明できていないせいでとてもわかりにくいと思うのですが、似たような議論は大昔からなされていました。

たとえば、日本における物語論の先駆者、本居宣長は「源氏物語玉の小櫛」の中で次のように述べています。
みな物語といふもののこころばへを、たづねずして、ただよのつねの儒仏などの書のおもむきをもて、論ぜられたるは、作りぬしの本意にあらず。たまたまかの儒仏などの書と、おのづからは似たるこころ、合へる趣もあれども、そをとらへて、すべてをいふべきにはあらず。大かたの趣は、かのたぐひとは、いたく異なるものにて、すべて物語は、又別に物がたりの一つの趣のあることにして、はじめにもいささかいへるがごとし。
古文なのでアレですが、要約すると、「最近は物語(ここでは特に『源氏物語』)を捕まえてきて、儒教だの仏教だのの教えと合致するかどうか見ようとするヤツらが多いけど、それって全然ダメで、物語には物語の趣ってのがあるんだよ。わかってないねー」みたいな感じです。ここで「儒仏」というのは、当時の社会道徳を形成していた主流概念ですから、わかりやすいところだと昔話を読んで嘘はよくないという「教訓」を得るとか、そういう社会的な有用性にひきつけて物語を考えることを宣長は批判しているわけです。物語が、勧善懲悪と訓戒ばかりだったらつまらないだろう。役に立つ・ためになるから物語を読むというのは、おかしなことだと宣長は考えている。

そんな宣長にとって理想的な「物語の読み方」というのは、自分の体験や想いとひきつけて、「もののあはれをしる」(心がうごく)ことだ、という話になります。昔の日本人は素直に物語を読んでいたのに、中国から儒教だの仏教だの「さかしら」な思想が入ってきたせいで、無理繰り物語を分析してみせて、社会道徳との関係で意味づけようとするみたいな話が出てきたのは実にけしからん、と怒っている。なんか、どっかで聞いたような話ですが気のせいです、多分。

ともあれ宣長は、一旦社会的な道徳や何やらと個人的な情念を切り分けて、個人的な情念の領域を扱う表現として「物語」を考えようとした。私は宣長ほどラディカルに、物語は個人的な情念を扱うのがその本質だと言うつもりはありませんが、そういう固有性「も」扱いうるものだと思います。現実との対応だけで物語を測ろうとするのは、そういう側面を切り落としてしまうことになる。

宣長は、「物語では現実でやったらさすがにマズい犯罪でも、かっこよく描いても良い」と言います。もし現実と物語とが素直にリンクしているなら、犯罪行為を描いた物語というのはゴミクズということになる。でも、実際には物語の中で、任侠や悪党というのはヒーローとして活躍したりもする。現実は現実、物語は物語できちんとわけて考えるのが当然でしょ、というわけです。むしろ物語というのはそうやって、独自の観念世界を創るところに良さがあるのだ、と。

私はこの辺りまったくその通りだと思います。私たちの「固有性」と繋がった観念的な世界というのは、直接的には外側の現実、社会的な領域とは切り離されていても問題がない。現実で犯罪をしたら、そりゃあダメにきまっていますが、観念の中でするぶんには構わない。そこを切り離して考えないから、たくさんの馬鹿げた議論が噴出する。『レイプレイ』事件をはじめ、エロゲーやったから犯罪に走るとかのたまっている人たちに是非とも読んで頂きたい部分なのですが、まあそれはさておき。

日本においては、そういう固有性にかかわる部分を担う表現として、物語が選ばれてきたということもあったわけです。ちょっといくら物語論の草分けとはいえ宣長先生は古すぎたかもしれないので、もうちょっと最近の人を召喚してみると、吉本隆明は、エッセイ「批評眼について」のなかで、こんなことを言っています。
そもそも、いい作品、悪い作品というのは本来ないはずですが、それでも、しいていい作品とそうでない作品を見分ける方法というのはあります。文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。それは、たとえば小説の中に書かれている事件がいま風で面白いということとはちょっと違っています。いまの事件を書いたら、それはそれで面白いかもしれないけれども、しかし、その作品が、これは俺にしかわからない、みたいなことをきちっと読者に感じさせるものかどうかは別の問題となります。作品がいいか悪いかは、中に出てくる事件の面白さやよさだけではないということが言えます。(吉本隆明『真贋』)
吉本は、「俺だけにしかわからない」と感じさせる作品は一人一人の「俺だけ」に届いているという意味で人間の普遍性を掴んだ最高の作品であるとし、次点には、時代を同じくした人間にはよくわかる作品を挙げます。エッセイだけにぱっと見論理性は見あたらない、ただの印象論にも見えるのだけれど、私には何となく、吉本が言いたいことがわかる気がします。「俺だけにしかわからない」ということで吉本が言わんとしていることもまた、物語と読み手の持つ固有性の問題でしょう。

※勿論、宣長の意識においての仮想敵は儒仏的物語解釈であり、吉本の場合はおそらく(この時点ではもうそこまで意識されていないかもしれませんが)、マルクス主義文学論みたいなのがアンチにいるので単純に同じことを言っているというつもりはありません。ただ、どちらもともに現実に物語が従属する(マルクス主義文学論の場合は、たとえば農村の実態を描いたものが素晴らしい、革命に寄与するものがすばらしいという風に、先に現実の価値が確定されていて、それを物差しにして測っている)という意味では述べてきた内容に合致するだろうと考えて引用しました。また、先人の引用をしたのは、別に知識をひけらかしたかったわけではなく(多少権威を借りようという狡い意図はありますけどね、そりゃ)、物語の読みに限らず、日本的な思惟のあり方についてかんがえるとき、個的内的な世界と社会的外的な世界との対立というのは、割とずーっと問題になり続けているのだということを言いたかったということがあります。

作品との関係にそくして言えば、固有性があらわれる端的な場面というのは、「これ面白い」とか「これ最低だ」のような、心の動きがあらわれる場面だと思います。泣けたり、怒れたり、笑えたり、抜けたり(エロゲーなら)。そんなとき、私たちは作品を通路にして、自分の固有性とも出会っている。そして自分の固有性を通して作品を見ることで、作品の固有性にも触れ得ている。

そんな風に物語を読んでいるときが一番楽しくて、そうさせてくれる物語こそが最高じゃないか、吉本がそう言っているのだとすれば、私はまったくもってその通りだと思うわけです。

▼次以降へのフリ
さて、少々長くなってきたのでこの辺で一旦話を切ることにしましょう。ただ、ここまで読んでくださった方には幾つかの疑問というか、もやっとした感じが――幾つかどころではなく全然意味わかんねぇよ、という感じかもしれませんが――あるはずです。

私が言ってきたのは、物語を固有性をもつ表現として、自分自身の固有性との関わりの中で楽しむ人もいるはずだ、ということでした。そしてそのような人にとっては、物語というのは現実とはひとまずは別の、現実との対応関係において考えられる必要のない価値が読み込まれているのではないか、と。

しかしそれなら、そのような固有の領域に属する価値なり物語なりについて、私たちはどのようなことを語り得るのか。また、どのようにその面白さを掴みだしているのか。そういう問題があります。つまり固有のものとしての物語との関わりをどう扱うのかという問題。そしてもう一つ、エロゲーについて語りますといって始めた以上、エロゲーと物語との関係はどうなっているの? という問題があります。エロゲーも物語ですから、物語の中にエロゲーが含まれるのは構わないとして、エロゲーを第一義的に物語と見なして良いか、というあたりのことは、改めて考えられなければならないでしょう。

ただ、それは次回以降の課題とすることにして、今回はこれで筆を置きたいと思います。長くなるから分割にする予定で書き始めたのですが、結局それでも長くなってしまった……。できれば最後まで書ききりたいですが、あんまり退屈だと申し訳ないし、かといってわかりやすく書けるか不安。

今回は(今回も)ぐちゃぐちゃした書き方になったのですが、いつも以上にわかりにくいと思います。すみません。理由は、私の能力不足が第一で、次にはやはり分けて書いているためかなあ。結論までいけば、問題が何であったかもう少しハッキリするとは思うのですが……。まあ、頑張って最後まで書ききるようにします。

記事についてはちょくちょく加筆修正を加えると思いますが、ご容赦ください。なお、予定については固まったものではないので、これおかしいとか、ここ意味わからないとかあれば(そしてご親切にも指摘する気が起きれば)言ってくださるとありがたいです。

それでは、また明日。

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《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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