よい子わるい子ふつうの子2(仮)

18禁PCゲームをメインに、ラノベや漫画についてもダラダラ話を書きます。長文多いです。

誰も見てくれない。

一生懸命、自分なりにやってきて、それなりに結果も出してきたと思っていたことが同僚から全然評価されず、逆に「もっと一生懸命やれ」みたいなことを言われて、腹が立つより泣きそうになりました。

ぶっちゃけ結果は私の思い込みではなくてちゃんと出ているし、上司はむしろ評価してくれていたりするんですけど、一緒にやってる相手からそんなふうに見られていたんだっていう。

なんだかなぁ。

ちょっと無理

今日はほんとにちょっとした更新も難しそう。何かを考えて書く、という時間がとれません。というわけで、近況報告更新でおしまいに……。明日のシルプラさんイベントいけるんかしら。

ブチギレ案件

私が知る限り、担当者はきちんと指示通りに資料作って書類書いたのに、クライアントが指示通りじゃないと言いだして、合同の会議がやり直しになってしまった……。意味がわからない。

相手は自分が偉いと思ってるからこういうことはままあるんですけど、「言ったつもり」で実際にはちゃんとしたかたちになっていないことは多々あるわけで、ホント気をつけてほしい。やってられませんよ。

作品と作者の話。

作品と作者を巡ってこんなツイートが流れてきたのでちょっと思うところを。



まあ、この方のツイート自体はあんまり私の論と関わってきません。

一応反駁しておくと、たとえば、『HUNTER X HUNTER』が作者のアレっぷりにもかかわらずやはり「面白い」という支持を受けていたりしますし、島崎藤村なんかは姪を孕ませた挙げ句、やめてくれと言っているのにそれを小説に書いて暴露したトンデモさんですが(「島崎こま子」のWikipedia)、そのことが知られていても作品は別物として評価されています。いやもちろん、「作者は作品評価に影響する」場合もあるでしょう。しかし、作者と作品を切り離して考えようとする立場はあるし、実際にそれが行われている例もある。どのスタンスを選択するかは、人それぞれ以上のものではなく、「完全に嘘っぱち」みたいな断言をするのは軽率かなと思います。

さて、本題に入りましょう。

作品の評価に作者が影響するかどうかって話は、ややこしい話かもしれないけど難しい話ではないんじゃないかと思っています。要するにバランスの問題というのが私的な結論ですね。

作品の評価に作者を入れるか否かという話は、つまるところ、作品の「コンテクスト(文脈)」をどこまで価値として認めるか、ということです。そして、こういうときには極論が幅を利かせやすい。「コンテクスト」しか認めないか、逆に「コンテクスト」を一切認めないか、みたいな話です。

前者の例としてぱっと思いつくのは、デュシャンの「泉」という作品(便器を横に倒して署名をしたものに「泉」というタイトルを付けた作品)でしょう。作品の内容が何であっても、作家がサインをして美術館に置けばそれが美術品になる、というわけですね。こんなふうに、作品の価値は「コンテクスト」だけだ、という立場もあり得るでしょう。もっともそれができるかどうかは微妙な話で、いくら美術館に飾ってあるからといって便器を美術品だと思えるかというと正直微妙ですし、あと、こういった立場は、たとえばブランド志向(製品の内容ではなく肩書だけを価値とみなす)がそうであるように蔑視されがちですね。

逆の極端、つまり「コンテクスト」を一切無視して作品それだけを見るというのも案外困難です。素晴らしいものだと言われて家に飾って毎日眺めていた彫刻が、実は100均のものだったと聞いたらがっかりするでしょうし、壊れて使い物にならなくなったおもちゃでも大切な思い出の品であれば捨てがたい気持ちになるものです。

ことほど左様に現実に当てはめてみればかなり無理があるこうした極端な話が、それでも幅を利かせる理由は、「コンテクスト」を無視することも、あるいは逆に「コンテクスト」しか見ないことも、どちらもある種の極端であるために純粋な行為として価値付けられる場合があるからではないかと思います。

しかし、作品は常に「コンテクスト」と共にあることを思えば、そうした純粋な鑑賞行為というのはただの視野狭窄であると言うこともできるでしょう。作品解釈には作品自体と「コンテクスト」が混ざり合うものであって、あとはそのバランスが納得できるかどうかだ、みたいな話のほうが個人的には納得できます。なんでどちらか片一方だけでやらなきゃいけないんですか、と。

まあこの辺の話って作品と作者の関係を巡る話題としてずっと議論されてることな感もあります。

近代の作品解釈の歴史のうち非常に狭い範囲を雑にさらうと、作品から作者の思想を読み取ろうみたいな話があり、そこから作品を通して作者自身に迫ろうという作家論みたいな流れが生まれ、それらがひとつの到達点にたどりついた後、(「作者の死」の宣言に見られるように)純粋な解釈行為の産物として作品を措定するテクスト論的な解釈が立ち上がりました。

要するに、作品解釈においては外部にあるものを完全なかたちで純粋に読み取るべきである(絶対的なこたえがある)という立場から、作品解釈は純粋に恣意的で純粋に主観的なもので良いしそれしかできないのだ、みたいな180度ベクトルが違う方向にゲージが振り切れたわけですが、この過程で、作品の持つさまざまな「コンテクスト」も、不要なものとして扱われることになりました。

しかし、そうなると今度はもう対象が何かなんてことは関係ない。私たちが読み取っているのは作品ではなくて「コンテクスト」の集合体だったんじゃないか、みたいな話が出てくる。私たちはシェイクスピアという作者のメッセージを受け取っているのでもなければ、シェイクスピアの作品を読んでいるのでもなく、『ハムレット』と『マクベス』と『リア王』の作者の書いた作品という情報を受け取っているのだ、みたいな。

まあでも、実際にはシェイクスピアのメッセージは作品の中に幾らかは含まれているでしょうし、そこには厳然とシェイクスピアの書いた文章があるってことになってるし、同時に彼の生きた時代背景やその後の歴史に与えた影響みたいなのもある程度考慮しながら読む、ということになるんじゃないかと思います。これが大学の研究とか、まあもうちょっと広範囲の学問的アプローチであれば、その内容を精密にするために「純粋」な立場を推し進めるというのはアリでしょう。でも、それは所詮方便というか、研究のための手法でしかないのではないかと思います。

結局、「作者がクソだから作品もクソ」と言っていたり、「作品と作者は一切関係ないから、この作品の中に作者の人生観を読むのは駄目」と言っている人がいたとして、それはどちらかの読み方がおかしいとか間違っているとかじゃなくてバランスのとり方の問題であって自分の好みに近いのを選べばいいんじゃないかと。たとえば私は、極端に振り切れてるのはどうかと思いつつ、偏りとしては「作者と作品は関係ない」ほうにゲージが寄ってるタイプですね、たぶん。

解釈方法ってのはもう宗教みたいなものなので、過剰に攻撃的になってほかを排除するよりは、接点と相違点を理解した上で可能な範囲で交流するほうが有意義な気はしています。ブーメランにはなってないよね……?

消えた休日

謎の仕事INによって休日がグッバイしました。

ランクマとかの真っ最中だというのに、ほんともう、勘弁してほしいです。
《自己紹介》

エロゲーマーです。「ErogameScape -エロゲー批評空間-」様でレビューを投稿中。新着レビューのページは以下。
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